歪んだ薔薇 第2部(1)

 雲にひとすじ、夕暮れの色を残して、空は薄青い夜の色へと変わりつつあっ た。
 八戒は自分のアパートにたどりついたところだった。総入居数も十戸ほどの、こぢんまりとした建物だ。二階に住んでいるので、外付けの鉄製階段を上ることになる。
 青色に塗られた階段は、ところどころ錆び止めの赤い地肌をさらし、寂しげだ。実直な独身司書の住まいとしては、安くて手ごろでちょうどよかった。
 階段を上りきり廊下をそのまま進む。一番奥のつきあたりが八戒の部屋だった。夕日がドアノブを白く光らせていて眩しい。
 震える手で鍵を探し出しドアを開けた。寒くもないのに、ずっと震えが止まらなかった。三蔵に犯されてからというもの、一事が万事この調子だった。
 まるで、自分自身を吐き捨てられたゴミか何かにでもなったかのように感じていたのだ。
 ひどい暴力によって自己評価が地に落ち、身も心もガタガタだった。もう、何を食べても吐いてしまっていた。もともと痩躯ではあったが、以前よりさらに痩せてしまい、心持ち鋭くなった頬の線が痛々しい。
 ドアを片手で押しながら、傍にある赤い郵便受けから、何枚かの郵便物を取り出す。毎日習慣にしている、なにげない動作だった。
 幾つかの葉書を手につかんだ。――――そう、最初はただの葉書にみえた。
「……? 」
 八戒は突然、奇妙な違和感に襲われて、郵便物をまじまじと見つめた。引き伸ばされた写真が三枚、ガスや水道料金の支払い受領書に混じってさりげなく紛れ込んでいた。
 それはただの写真ではなかった。
「う……! 」
 それが何なのか分かると、衝撃のあまり倒れそうになった。
「ぐ……」
 吐きそうになって口元を押さえる。胃の腑に鋭い痛みが走り抜ける。写っていたのは陵辱を受けて、床に横たわっている無残な自分の姿だった。
 忘れたいのに、忘れられない。まさに三蔵に犯されたときの写真だった。写真は八戒の恥辱に塗れた姿をありありと留めていた。
 白い肌に散った鬱血の跡も、踏みつけられた薔薇の花も、広げられた両足の狭間も、汚すように放たれた三蔵の精液の滴りも……。ありのままに写っている。
「なん……」
 誰がこんなことを、いったいなんのためにするのか。
 八戒は歯の根も合わずにわななき、その場に立ち尽くした。金色の夕暮れの光りが、八戒の背中を突き刺し照らす。
 写真を持つ手は小刻みに震えた。足元から鳥でも飛び立つような不安定な心地がし、頭の中は 真っ白になった。いったい、いつこんな写真を撮られていたのか記憶になかった。八戒の精神状態はあの残酷な強姦を受けた直後へフラッシュバックした。
 吐きそうになりながら、震える指で三枚の写真を細かく引き裂き始める。理由のない反射的な行動だった。
 部屋の中でやればいいものを、このとき、八戒には計算や理性などは働いてなかった。
 ただただこの忌まわしい印画紙に刻まれた像を、即座にこの世から消し去りたい。それだけだった。
 おぞましい陵辱の証拠は郵便によって運ばれたものではなかった。剥き出しでそのまま郵便受けへ突っ込まれていた。
 普通の精神状態なら、当然八戒はそれが何を意味するかに気がついただろう。
 しかし、この時はどうかしていた。完全に無防備だった。
 八戒が写真を粉みじんに引き裂ききったとき、足元に長い人影が射した。最初から、様子を伺っていたらしい。
「貴方は……」
 一拍の間を置いて、唸ったときにはもう遅かった。その男は八戒とドアの前へ、遠慮容赦なく、立ちふさがった。
――――部屋の鍵は既に開けた後だった。
「記念写真は気にいったか」
 目の前の男は薄く笑った。
 夕陽は――――不吉なくらい美しかった。
 整った線ばかりで構成された、白皙の美貌を確認するまでもなかった。こんなことができる男はひとりしかいない。
 今、八戒の目の前には美しい悪魔がいた。昼と夜の境目で、今宵の魔宴のため、生贄を探す華麗な魔物が――――。
「三蔵」
 震える声で八戒はとうとう相手の名を呼んだ。
 その声をまるで合図とするかのように、金の髪の男は動いた。八戒は部屋の中へ逃げ込もうとしたが無駄だった。
――――三蔵がそれを許さなかった。八戒の襟首をつかんで押さえつける。
 二人は揉みあい、勢いよく部屋の中へ倒れ込んだ。八戒は何度も顔を叩かれ、ワンルームの奥へと引きずっていかれた。





「三蔵ッ! 」
 学生時代、下宿していた頃と違いのない八戒のアパートに、三蔵は勝手知ったるといった態度であがりこんだ。何しろこのアパートを一緒に探したのは先輩でもある三蔵だったのだ。
 嫌がる八戒を突き飛ばすようにして、部屋の隅へと追い込んだ。
 八戒らしい部屋だった。白い部屋は綺麗に掃除されていた。窓際に背の低いチェストが置かれ、その上に観葉植物の鉢が幾つも並んでいる。反対側の壁にはパイプ式のベッドがぴったりと寄せて置かれていた。
 そんな清潔な部屋の、白いビニールクロス貼りの壁へ、八戒は押さえつけられた。手首に三蔵の指が食い込む。
「なんで、俺と口を利かない」
 相手の問いは単刀直入だった。八戒は無言で首を振った。
 非道な行為で蹂躙されて以来、図書館勤めを休みこそしなかったが、三蔵と口を利くのはおろか、視線を合わせることすらしなかったのだ。
 八戒は頑なに自分の世界にひきこもっていた。当然といえば当然の行動といえた。どこの世界に強姦した相手と仲睦まじく会話できる被害者がいるだろう。
 そんな八戒の気持ちに、三蔵は構わなかった。この一週間で面変わりした八戒の白い顔をとらえ、くちづけようとする。
「……! 」
 上背ばかりがある痩躯が抵抗した。相手を突き飛ばし、なんとか自由になろうとした。
「往生際悪ィな」
 三蔵は押さえつけたまま、低い声で呟いた。
「何しに来たんですか!」
 八戒はやっと叫んだ。ほとんど悲鳴だった。
「てめぇの様子がおかしいから見にきてやったんだろうが。この一週間、無視しやがって」
 至近距離にある、三蔵の顔を八戒はまじまじと見つめた。この男は正気だろうか。自分が何をしたか、分かっているのだろうか。
 魂の殺人ともいえる行為をしておいて、自宅にまで押しかけてくる、その精神構造がわかりかねた。狂っているとしか思えなかった。
「……あの写真……」
  八戒は震える舌で無意識に呟いていた。あんな写真がこの世に存在すること自体が耐えられなかった。必死になって忘れようとしているのに、傷口を開いてぐちゃぐちゃに抉ってくるような破壊力があった。
「なんだ。あの写真が気に入ったのか」
 三蔵が鼻先で笑った。
「幾らでもコピーしてやるぞ」
 そう囁くと八戒の首筋に顔を埋めた。八戒は首筋に生温かい舌が這うのを感じて、躰を捻ろうとした。
「やめて下さい! 」
 一週間前の悪夢が自宅で再現されようとしていた。八戒は必死で抵抗した。
「どうして、どうしてこんなことを! 僕はもう貴方ってひとが分かりません」
「分かんねぇか」
 紫暗の瞳が、一種病的な熱情の光りを帯びた。
「お前が悪い。八戒。お前が悪いんだろうが。俺がこんな――――」
 三蔵は言いよどんだ。自分でも分からぬ秘めた心の内を、うっかり口走り吐露しそうになっていた。
「責任とりやがれ、とにかくお前のせいだ」
「やめ……! 」
 八戒の首筋に熱いぴりぴりする唇の感触が走った。くちづけは強く、三蔵が唇を離すと、そこは赤く鬱血していた。
「あの後、河童には会ったのか」
 三蔵の声は、残酷な調子を帯びてきた。
「河童は、なんて言った。俺に先を越されて悔しがってたか」
 嗜虐的に囁かれる恥知らずな言葉を聞きたくなくて、八戒は耳を手で塞ごうとしたが、両腕は三蔵に押さえつけられていた。
「……! 」
 ぎり、と唇を噛み締めて三蔵を睨みつけた。紫暗の視線と翡翠の視線が真っ向からぶつかった。
「お前が言えないなら、俺から言ってやろうか」
 三蔵は悪魔的に囁いた。とんでもない言葉に八戒は震えた。
「写真つきで説明してやるぞ。どうだ。そうすれば幾ら呑気なバ河童でも……納得すんじゃねぇか」
「やめ……」
「さっさと服を脱げ。俺との後、悟浄と寝てねぇか確かめてやる」
「三蔵! 」
「なんだ、この手は。それともやっぱり、悟浄に説明して欲しいのか」
「……! 」
 巧妙な脅迫だった。八戒の腕から力が抜けた。それを見て、三蔵が口端をつりあげて笑った。
「……なんだ。アイツには本当に何も言ってねぇのか。分かった」
 三蔵は、力の抜けた痩躯を部屋の絨毯の上へ引き倒した。その上へ圧し掛かりながら囁く。
「内緒にしておいてやる」
「く……」
 性急な腕が、八戒の衣服を剥ぎ取った。白い肌からは一週間前の陵辱の跡は消えていた。三蔵はつけた覚えのある首の付け根の噛み跡を探し求めて舌を這わせていたが、やがて探すよりも新しくつける方を選んだらしい。舌で八戒を撫で愛すと、そのまま軽く噛んだ。
「う……」
 喰われるような、激しさだった。愛撫といえないような行為に痩躯が震える。
「アイツの跡はついてねぇな。あれからヤツとは寝てないのか」
「あッ」
 既に剥ぎ取られてしまっていたシャツの下から露わになった、淡く色づいた胸の尖りを、指の腹で捏ねまわされる。
 しなやかで節が立った三蔵の指が容赦なく八戒を追い詰める。
 下肢で震える性器をとらえると、三蔵はその先端にくちづけた。熱い感触が走り抜けて八戒が身を 震わせる。
 嫌悪感が八戒を襲った。吐きそうだった。自分の身に起こっていることが信じられなかった。再び、三蔵の蹂躙を受け入れようとしていた。
 被害者であるはずなのに、加害者である三蔵は堂々と八戒のアパートまで押しかけ、あろうことか逆に責め立て、恥知らずな行為を重ねようとしている。
(悟浄)
 赤い髪をした男の姿が脳裏をかすめ、八戒は唇を噛んだ。確かに、悟浄に知られないためなら、自分はどんなことでもするだろう。
 一週間前、三蔵に犯されている間、八戒は唯一の救いのように悟浄の名を呟いていたのだ。そして今も。
(悟浄)
 三蔵の熱い口腔にすっぽりと包まれ、八戒は喘いだ。痺れるような快美が這い上がってくる。裏筋に丁寧に舌を這わされ、仰け反った。
「んッ……んんッ」
 熱く、押し殺した吐息が漏れる。口淫を施しながら紫暗の瞳が見上げてきた。なんだかんだいってて、感じやすいヤツだ、淫乱め。その目はそう言っている。
 八戒は首を横に振り、目を閉じた。相手の目をみたくなかった。
――――これが悟浄だったら。三蔵じゃなくて、悟浄だったとしたら――――。
 自分の躰を蹂躙し、犯そうとしている相手を、あの赤い髪をした男だと思い込むには、いささか無理があった。少なくとも、八戒は本物の悟浄のくちづけを既に知っていた。
 それは如何にも色事に手馴れた男特有の素早さを持ち、簡単に相手の快楽を探り当てて深く絡みついてくる、洗練され手練れた接吻だった。
 そのくちづけは獲物を脅かすことなく、快楽の中枢を正確に撃ち抜き力を奪う。
 いま、八戒を蹂躙しようとしている男のはそうでなかった。金の髪の美麗な容姿の男は、焦燥感にとりつかれていた。
 それは、与えるよりも奪うくちづけだった。陵辱者である癖に、光りを放つ金糸の間からのぞく瞳は、深い苦悩と憎しみを湛えている。
 三蔵は、八戒が苦しむのは当然だとでもいうような態度で、わざと歯を立てて乳首を愛撫し、しなやかな下肢を広げさせた。這いずって逃げようとする八戒を許すつもりなど毛頭なさそうだった。
 恐慌状態に突き落とされたまま、八戒はその肉体を貪られた。
 裏筋の敏感な場所にまで三蔵の舌が這い、舐めまわされる。アイボリー色の絨毯へ八戒が爪を立て、身を震わせる。心が悲鳴をあげつづけていた。
 しかし、ここで耐えなければ、悟浄に全て知られてしまう。
「……あッ」
 八戒はびくびくと震えながら、いやだとでも言うかのように首を振った。陵辱者の舌は、八戒の屹立を舐めまわし、そのより下へ、奥へと這ってきた。
 敏感な狭間を三蔵の舌先がかすめ、より奥の後孔へ差し入れられると、ぬめった感触が強烈な疼きとともに走った。
「うッ……」
「ココ、舐められるのが好きか」
 淫らな水音とともにくぐもった三蔵の声がする。舌で八戒を舐めまわしながら、三蔵は嗜虐的な口調で囁いた。
「いやらしい躰だ」
「……ぐ」
 両目を硬く閉じたまま、八戒は声に出さずに密かに思いつづけている男の名を呼んだ。
(悟……)
 後ろに、硬く熱い猛りが押し当てられる、おぞましい感触がした。引き裂かれる痛みに耐えようと、八戒は歯が欠けそうなほど強く奥歯を噛み締めた。
 瞬間、脳裏に赤いひまわりによく似た悟浄の笑顔が鮮やかに広がった。
(……浄)
 八戒に欲情している相手は、そんな八戒の思いに気づいた節はなかった。秀麗な面を歪めて笑い、いまや情欲の祭壇に屠る生贄と化した黒髪の青年の髪をつかんでくちづけ――――思いきり突き上げた。
「ぐぁッ」
 八戒の口から苦痛に満ちた声が漏れた。がくがくと貪られる。
「うう、うッ」
 三蔵は無慈悲にも腰を使い続けた。熱い情欲を思いきり打ち付ける。眉根を寄せて八戒は蹂躙に耐えた。震える色の失せた唇に三蔵が自分の唇を寄せる。
「お前が悪い。……俺をこうした責任をとれ」
 いつもは性欲などあるのかと、ひとに疑わせるほど美麗な容姿の三蔵が、まるで地に落ちた堕天使のごとくおぞましい情念の虜になって狂い、その全てを八戒にぶつけていた。
 見る者をぞっとさせる、非人間じみた酷薄な表情だった。始末の悪いことに、そんな顔つきは、三蔵の白皙の美貌をより一層ひきたてるような効果があった。
「許さねぇからな」
 何を許さないというのか。一体、八戒が何をしたというのか。そのことについては触れぬまま、三蔵は八戒を犯し続けた。
 猟犬が獲物を徒に噛み殺すかのように、八戒は徹底的に汚され、貪られた。
 三蔵が何度めか埒をあけたとき、既に日はとっぷりと暮れ、すっかり夜になっていた。
「う……」
 どのくらい、時間が過ぎたのかも分からない。電灯は当然点いていなかった。絡み合っていたふたつの影は、ようやくわかれた。
 暗闇の中、八戒がもう一指も動けず、躰を震わせていると、三蔵が抜いた箇所から白い体液がとろとろと尻へ伝った。
 屈辱に顔を顰め、横たわったまま三蔵へ視線を向けると、彼はその場に脱ぎ捨てていたシャツを取り上げて、袖を通しているところだった。
「また来る」
 陵辱者は厚顔にも、そう言い放った。びくっと八戒は引き攣った。片方の眉をつりあげて相手へ鋭い視線を送る。信じられなかった。
「なんだ、その目は」
 三蔵は事後の一服といった調子で、悠然とタバコをとりだした。タバコを摘み上げた指が八戒の目を射る。
 節立ってはいるが、長く優美な指だった。八戒は視線をそらせた。あの指によっていままで随分、泣かされてしまっていたのだ。
「フン。アパートを引き払おうとでも思ってんじゃねぇだろうな」
 三蔵が口を歪めた。紫煙を吐き出す。
「逃げても無駄だ」
 暗がりに慣れた目には、その秀麗な顔に走った嗜虐的な表情が見えるようだった。三蔵は満足した様子でタバコを吸い、服を身につけると、八戒に言った。
「またな」
 明かりひとつない部屋の暗闇の中、三蔵の足音が遠ざかる。八戒は絨毯の上に裸で転がったまま、ただその音を聞いていた。
 やがて、玄関のドアが閉まる乾いた音が聞こえ、ようやく八戒は自分が解放されたことを知った。
「……ッ」
 起き上がって、部屋の明かりをつける気力もなかった。ただただ惨めだった。
 しかし、全身に三蔵の肌の感触や唇の感触が残っていた。シャワーを浴び、皮が剥けるほど躰を洗いたかった。何もかもが汚らわしかったのだ。
 そして、そんな汚らわしい人物の汚らわしい情欲の犠牲になった、惨めな自分がもっとも汚らわしかった。
 夜はひたすら暗く、無情に更けていった。



「歪んだ薔薇 第2部(2)」に続く