歪んだ薔薇 第2部(20)

 この夜、
 三蔵に自分をまかせたのは、八戒にとって自棄といっていい行為だった。徹底的に、自分自身が自分というものを軽蔑し、見捨ててしまったので、もう躰やら貞操観念やらそんなもの、どうでもよくなってしまっていたのだ。
 肉体はもはや意味をなさず、単なるいれものだった。三蔵の排泄物を受けるための、便器がわりだとしても、もう、どうでもよかった。
「八戒」
 三蔵は低い声で囁いた。浴槽のふちに手をおく格好で、八戒は三蔵を受け入れていた。傷ついた八戒の精神は、もう抵抗する気を失っているとみえ、揺すられるがままになっている。
 三蔵は、突き入れた後、そこが微妙にほころんでいるのを感じた。入念に解された直後に近い柔らかさだった。
 認めたくはなかったが、本当に悟浄と寝たらしいということが、実感として分かった。
 事態は恐れていたとおりだった。少なくとも、八戒の躰はついさっきまで、男に抱かれていたのが明白だった。
 三蔵との関係を消し去ろうとするかのごとく、白い肌は、悟浄との性行為の跡で塗り潰されていたのだ。
「クソ……」
 三蔵は深く八戒を穿った。背後から、叩きつけるようにして追い詰める。肉と肉が打たれる卑猥な音が響いた。
「あっ……」
 犯されている白い背には、これまた悟浄の指の跡や、吸い跡がところ狭しとついていて、三蔵の怒りを煽る。
 散々、八戒は浴室で三蔵に陵辱された。悲鳴は反響し躰は反応したが、心はどこかに飛んでいた。





 どのくらい時間が経った後か、
 三蔵は八戒を浴室から連れ出した。
 その頃には黒い髪もあらかた乾いていて、いつもの艶を取り戻していた。
 見慣れた八戒の部屋のベッドに、力の抜けた躰を投げ出す。
「さん……」
 うつぶせに倒れた八戒はそのまま、目だけで三蔵を流し見た。
「まだ、バ河童の跡が消えてねぇ」
 三蔵がぼそっと不満気に言う。
 そのまま、八戒の背後から首筋を噛み付くようにして吸った。
「う……」
 濃い鬱血の花が、次々に散らされる。
「三蔵……」
 荒淫の犠牲となって、震える指でシーツをつかみ、八戒は呟いた。
「まだ、気が済みませんか」
 口調は穏やかで、丁寧だった。いつもの、以前の、こんな関係になる前の八戒に戻ったようだった。三蔵に敬意を払う、律儀で忠義な後輩の口調だった。
 まだ、足りぬとばかりに、八戒を貪ろうとしていた三蔵だったが、この声を聞いて、動きを止めた。
 八戒は、躰をひねって、三蔵の方を向いた。何か悟ったかのような表情だ。緑色の瞳は静かな湖面を連想させる。
 彼は、三蔵の手をとってそっと口元へ引き寄せ、そしてそのままゆっくりと――――くちづけた。
「許して下さい三蔵。貴方が許せないのも当然です」
 意表をつく、八戒の言動に三蔵がけげんそうに目を細めた。意図がさっぱり読めなかった。
「確かに、僕は貴方を置いて幸せになろうとしていました」
 先ほどまで、甘く啼いていた躰を震わせて、八戒は何かを弁解しようとしていた。
「貴方だけに全てを被せて、自分だけ清潔なふりをして」
「…………」
 確かに、
 少なくとも、過去も今も、性的な意味あいにおいて、三蔵と八戒のふたりは共犯者だった。
 不幸な始まり方をした行為に、さらに不幸を重ねて、三蔵と八戒はがんじがらめになっていた。
「すいませんでした。三蔵」
 淡々とした口調で、甘く涼しい声が懺悔を呟く。
「僕は貴方の傍にいます」
「八戒」
 八戒のまなじりから、銀のしずくに似た涙が伝い落ち、シーツを濡らしてゆくのを、三蔵は呆然と見つめた。
「責任を取れって、以前、貴方は僕にいいましたよね」
「…………」
「責任、取りますよ」
「八戒」
「ええ、よく分かったんです。僕は一生、貴方の傍にいます」
「…………」
「悟浄の傍にいる資格なんて最初から僕にはなかったんです」
八戒は白い芙蓉の花のように、儚く微笑んだ。
「三蔵」
 八戒は両腕を三蔵に向けて伸ばした。それを見た三蔵の胸のうちに、熱いものがこみあげた。
 焦がれるように望み、手に入れられるなら、何もいらないと思い詰めたことが今、叶いかけている。
「貴方は僕に償いをするべきだと言うんでしょう? 」
 八戒の記憶の中で、常に三蔵は誇り高かった。この権高な男が地に塗れ、傷つき、我を失っているのは、全部八戒のせいといえば確かにそうなのだ。
「許して下さい。三蔵」
 抱き締めてくる三蔵の躰を、八戒は長い腕で抱き返した。
「僕を許して下さい」
 白い、白い闇が、天から幻のように降ってくる。不幸なこのふたりを覆い尽くし、そして、真の静寂が部屋に訪れた。





 三蔵に抱かれ、快楽の証を何度も吐き出しながら、八戒はまぶたの裏に幻を見ていた。
 赤い赤いひまわり。希望の象徴みたいな真夏のひまわり。
 自分だけに微笑んでくれる、優しいひまわり。
 自分とは次元の違う、自由な天に咲くひまわり。

 最初から自分には不似合いな存在だった。

 赤いひまわりの幻影が、八戒の脳裏いっぱいに広がった。

(悟浄)
 他の男に抱かれながら、まわらぬ舌で彼の名前を呼んだ。
 悟浄の面影が、性の喜悦に達する瞬間、脳裏に鮮やかに甦り、そして夢のように消えた。
 




 情事の気配が濃厚に残る部屋に、タバコの白い煙が漂う。マルボロの香りが、闇の中に立ち込める。
 三蔵はひとりで起きていた。傍らの八戒はベッドに突っ伏して気を失っている。あの後も、相当きつく攻め立ててしまったのだ。
 金の髪の男は床に座り、ベッドの横っ腹にもたれかかって、静かにタバコの煙を吐き出していた。 もう既に定位置になった感がある場所だ。
(どうして、僕なんかの判断を重んじるんですか)
 八戒の言葉が三蔵の耳に甦る。そう、八戒はそう言った。心底不思議そうにそう言った。
「バカはてめぇの方だ」
 三蔵の口元に、苦い笑いが広がる。
「そんなことも分からねぇのか。鈍いヤツだ」
 この世の全てよりも、大切で好きな相手だからこそ、その判断したことが重要な意味を持つのだ。
「本当にてめぇは何も分かってねぇ」
 誰も、言葉を挟むものもいない静寂の中、三蔵は独りで呟いた。八戒が目を覚ます気配はない。
「ま、しょうがねぇな」
 手元のマルボロを消そうと台所へ立とうとした。部屋の隅に脱ぎ捨てさせた、八戒の濡れた衣服が目についた。
 拾おうとして腰を屈め、手につかむと、ずっしりとした感覚があった。財布が入ってる。
「チッ」
 紙幣も小銭もカードも何もかも濡れてしまっている。革の財布の中で重なり合っている分、服よりも乾きにくいらしかった。
 三蔵は面倒くさそうな手つきで台所のカウンターに財布を置き、その中身を眺めていたが、大切そうに折りたたまれた厚みのある丸い紙を見つけて、手を止めた。
 コースターだ。
「…………」
 赤毛の男の名前と電話番号が書いてあった。
「こんなモンをお守りか何かみてぇに後生大事にしやがって」
 三蔵は盛大に舌打ちをした。
「ったく。しょうがねぇな」
 三蔵の気持ちは、少しも八戒には伝わってなかった。実のところ、八戒は理解したつもりになっているだけだった。
 正確にいえば、正解に限りなく近かったが、それでも斜め下辺りをふらふら漂っているような答えしか分かっていなかった。
「確かにてめぇは大バカだ」
 実際、三蔵は誇り高かった。
 だが、
 今は自分の自尊心も、何もかもどうでもよかった。そんな心境になっていた。
 


「歪んだ薔薇 第2部(21)」に続く