歪んだ薔薇 第2部(19)

 空を見上げれば雲が多く、蒸し暑い。日は西の空へと傾き、薄い雲間から星がちらほらと瞬いている。
 八戒は、自分のアパートの前にいた。悟浄には連絡ひとつ入れなかった。これだけは自分の力で解決するのがけじめだと思ったのだ。

 錆びの浮き出た外階段を上る。一段、二段、三段。鋼板でできた階段は、カンカンと高い金属音を立てる。上りきって決然とした思いで前を見た。もう、何があろうと逃げたくはなかった。

 果たして。
 月のない、夕闇の中、八戒の部屋の前には人影があった。背をドアにもたれるようにして、立ち、マルボロを吸っている。
 昼とも夜ともつかぬ、曖昧な時の狭間で、人待ち顔している妖しい金色の鬼がいた。
 沈む太陽の最後の光線が、その美麗な顔立ちをひと舐めする。紫水晶のような瞳は相変わらず美しく、やや癇性に跳ねた眉は凛々しかった。細く通った端正な鼻筋に、整った輪郭が傾いた日の光で浮き彫りになる。
 破調といえば、やや大きく厚めの唇だけだったが、それもこの男の男性的な魅力を強調していた。
 極めて美麗な印象の顔をふちどる髪は金色で、華やかだ。躰つきは細身の方だが、均整がとれ強靭に鍛え上げられている。
 そんな、見とれてしまうほどに美々しい白皙の見本が、八戒のことを待ち受けていた。
「三蔵」
 八戒は声をかけた。覚悟を決めた重い響きがあった。
「てめぇ」
 三蔵は顔を上げた。華麗な外見を裏切るぞんざいな口ぶりだ。いつものことだが、この美しい男がこんな口をきくとは、知らぬ人は驚くに違いない。
「……今まで、どこへ行っていた」
 いつもの癖で、三蔵は片目を細く眇めた。否やを言わさぬ声だ。八戒が服従し、自分の足元に膝を折って詫びるのを待っている声だ。
 一瞬、逃げ出したくなって、八戒は心の中で自分自身を叱責した。
 闘わなくてはいけない。自力でこの男と戦わなくてはならないのだ。
 傍目から見れば、
 八戒は蜘蛛の糸にひっかかった蝶だった。
 そう、そんな立場だった。
 あがいていると、見るに見かねたトンボが来て、羽を引っ張って助けてくれようとした。
 でも、そんな優しいトンボにまで、蜘蛛の糸は絡みつこうとしていた。
 彼まで巻き添えにしてはいけないと、蝶々はよせばいいのに、自分から蜘蛛に食われに行ってしまったのだ。





 外で話しをするわけにもいかないと、八戒はドアの鍵を開けた。
 途端にその躰を三蔵が突き飛ばす。
「三蔵! 」
 玄関先で足をもつれさせ、八戒が責めるような声を上げた。
「職場にも来ねぇ、アパートにもいねぇ」
 三蔵はひとことひとこと、ゆっくり切って発音した。凄みがあった。怒りが滲んでいる。
「てめぇ、今まで誰と一緒だった。言え」
「貴方に答える必要はありません」
「バ河童か」
 三蔵はいっそう低く凄みのある声で呟いた。三蔵は八戒のことばかり見つめていたから、懸想している相手などというのは、直感的に分かってしまうのだ。
 その上、三蔵は決定的な瞬間を見ていた。
「あのエロ河童か。そうだな」
 以前、薔薇の花壇で見かけた、悟浄を見つめる八戒の、うれしそうな表情を思い出し、三蔵は低く唸った。
「許さねぇぞ。俺は。あんなヤツと寝たのか」
「悟浄のことを『あんなヤツ』呼ばわりするのはやめて下さい。僕が許しません」
 八戒は冷ややかに言った。
「それに」
 八戒の口元に、皮肉な微笑みが広がった。
「本当に……寝た、と言ったら、どうするんです」
 不敵な調子で八戒は吐き捨てた。誠実で真面目な保父さんを連想させる佇まいに、瞬間、淫蕩な娼婦めいたものが漂った。口端をつりあげ、鬼の首でもとったような表情を浮かべた。
 みごとに三蔵は逆上した。八戒のシャツの襟首をつかんだかと思うと、風呂へと引きずってゆく。
 途中、暴れる八戒を押さえているときに、懐から黒い小さい箱状のものが浴室の出入り口の床に落ちたが、もう、そんなことに頓着する余裕は三蔵にはなかった。
「三蔵! 三蔵ッ! 」
「汚らわしいヤツだ」
 三蔵は風呂と廊下を隔てている戸を開け、蛇腹になっているガラス製の仕切りを足で蹴って入った。
「さん……」
 三蔵は喚く八戒をタイルの壁へ突き飛ばした、八戒は衝撃で浴室の床に座り込んだ。
「…………! 」
 三蔵がシャワーの水栓をひねり全開にする。服を着たままの八戒に浴びせる。
「さん……! 」
「汚ねぇ。本当に汚ねぇ」
 頭といわず、顔といわず、シャワーの水で叩かれる。八戒は狭い浴室内で三蔵から逃げようとあがいた。
 目にかかる長さの黒髪も濡れて額にはりつき滴をたらし、シャツもズボンも何もかもが濡れてしまって重くなり肌にまとわりつく。
「クソ……」
 三蔵は、シャワーヘッドを投げ捨てた。タイルの床に生きている蛇のようにホースがうねり、統制を失って噴水のように水が蓮口から上がった。
 当然のように三蔵にもしぶきがかかるが、かまわず、八戒へ手を伸ばした。
「やめ……やめて下さい! 」
 激しい口調で八戒は言い、抵抗した。同じ事の繰り返しになどさせないと思った。
 濡れた服を剥ぎ取ろうとする三蔵の手を激しい調子で叩き振り払う。ふたりで濡れたタイルの上でもみ合い、めちゃくちゃになった。
 濡れねずみになりながら、お互い相手を支配しようとやっきになっている。
「もう、僕は貴方の好きにはなりません。もう貴方とは終りです」
 関心がないものの冷酷さで、八戒は残酷なセリフを言ってのけた。三蔵の顔に、ほのかに朱が差した。完全に激昂している。
「この……」
 言葉を失った唇はかすかにわななき、次の瞬間、屈辱に歪んだ。服が濡れている上に、八戒がいつになくひどく抵抗するので、いつものようにはいかなかった。
 三蔵は、聞き分けの悪い下僕の腹部を蹴った。
「!」
 まともに当たった。肉を打つ鈍い音が響き、鋭い衝撃が走り抜ける。八戒は眉根を寄せた。
「止めて下さい、三蔵。僕の言葉を冷静に聞いて下さい! 」
 八戒は叫んだ。浴室に苦しげな声が反響する。
「もう、貴方の好きにはなりませんよ。悟浄は全て知ってます」
 その言葉を聞くと、三蔵は動きを止めた。
 白皙の面に、なんともいえない表情が広がった。言葉の通じぬ相手に、どうやったら言うことを聞かせられるのか、とでもいうような表情だ。
 馬鹿な犬の相手に困っている飼い主なら、こんな顔をするのかもしれない。
「クッ……ククク……クッ」
 三蔵の金の髪から、水が滴った。八戒と揉みあう内に、三蔵もすっかり濡れてしまっていた。
「悟浄が全部知ってるだと? 」
 三蔵は笑った。笑い続けた。悟浄を嘲笑い、八戒を嘲笑う。分かってない馬鹿な下僕を愚弄する。そんな笑い声だった。
「笑うのは止めて下さい」
 八戒は静かに言った。もはや、自分を脅すカードをもたぬ三蔵の、意味ありげでうっとおしい芝居だと思った。
「分かったでしょう。もう、貴方は僕を脅すことなどできない。……これきりにしましょう。三蔵」
「てめぇは全然、分かってねぇ」
 酷薄な調子で三蔵が言った。嫉妬と怨みで裏打ちされた声だ。
「僕が何を分かってないっていうんですか」
 三蔵は、八戒の言葉を聞くと、無言で手を放した。濡れた手を振って水滴を払い、浴室から出ると、入り口近くに落としてしまっていた小さな四角い機械を拾い上げた。
「知りたいか」
 三蔵は手の中の機械を目の高さに掲げた。
「それは……」
 つられて、八戒はそれを見つめた。再生機能がついた小型のテープレコーダーだった。
「聞かせてやる」
 八戒は不安にかられて、三蔵の顔を見つめた。冷たいまでに整った顔は、目に見えぬ蒼白い炎で内側から煽られているかのようだ。
 何をするのかと、八戒に訊ねる隙も与えず、三蔵は再生ボタンを押した。硬質な音を立てて機械が動く。
『ん……ッ……』
 最初、録音の際に入った雑音、風の音かと思った。
『は……っ……あ……うっ』
 喘ぐような声と、熱を帯びた呼吸音が続いて聞こえてきた。
 動物的で、醜悪な響きだった。
 聞かされている八戒の顔は強張っている。いやな予感があった。
『さんぞ……さんぞ』
 妖しい閨で交わされる秘めた音律が無粋な機械を通じて拡大されて聞こえてくる。
『ああ……ッ』
 さっきから、聞こえるのが、他ならぬ自分が漏らした声だと気がつき、八戒は愕然とした。
「三蔵! 悪趣味ですよ。なんでこんな……」
「黙って聞いてろ」
 三蔵へ向けられた翡翠色の瞳は、大きく見開かれ非難の色を浮かべている。卑怯で下劣だと思った。
 自分の知らない間にこんなものを録音していたなんて、ぞっとした。濡れた服が肌にはりつく感覚が一瞬、怒りのために遠ざかった。
 震える手で、もう片方の自分の腕をつかむ。
 テープは、三蔵との行為で漏らされた二人分の生々しい荒い吐息を再生していた。
『お願い……さんぞ』
 びくっと八戒は自分を抱く手の力を強くした。自分の声だが、自分とは思えぬ声だった。それは悩ましい媚びを含んだ声だった。自分を犯す陵辱者に哀願している惨めな声だ。
『なんだ、欲しいのか』
 初めて三蔵の声らしい声がテープレコーダー越しに聞こえた。ぶっきらぼうで愛想のない、いつもの調子の声だ。
『ああッ……さんぞ……もうッ』
 もう聞いていられなかった。八戒は耳を塞いで、うずくまった。この、恥知らずな声をあげている男は誰だろうかと思った。
 しかし、声の主は確かに八戒だった。まごうことなき八戒の声だ。それ以外に、誰がこんな声をしているというのだろう。
 レコーダーの声は、すすり泣くような調子を帯びだした。甘い甘い快楽の響きが滲んでいる。
 明らかに八戒の声は全身に走る悦楽を訴えている。そのうち、遂情する悲鳴めいた声と喘ぎが聞こえだし、八戒は三蔵に飛び掛ってレコーダーを奪い取りたい衝動にかられた。
 おぞましい。ひたすらおぞましかった。
「覚えてねぇって前に言ってたからな。わざわざその後、録音しておいてやった。感謝しろ」
 非道なことをやってのけて、三蔵は冷然とうそぶいた。この男には仁義というものがないようだ。
「貴方は……」
 殴られたような衝撃があった。頭蓋の中が白く沸騰し崩れてしまいそうだった。
「恥知らずが」
 三蔵の口の端がつりあがった。悪魔めいているくせに、見惚れてしまう顔だ。忘れ去られた遺跡に刻まれた邪神の微笑みのような――――邪悪な笑い方だった。
「これでも、なんだ。もう一回俺に言ってみろ。もう俺とは終りだっていうのか」
 三蔵は一歩、八戒に近づいた。
「悟浄はここまで知ってるのか」
 冷たい声が、八戒の耳を刺す。
「バ河童はせいぜい、オマエが無理やりヤられたと思ってんじゃねぇのか」
 それはそうだった。悟浄はそう思い込んでいるはずだ。
 自分の大切な大切な八戒に、悪い虫がついてしまったと思っている。鬼畜にいいようにされている、助けなくては――――と。
「それが、実はこんなふうにヒィヒィよがってると知ったら、どうすんだろうな。あのバカは」
 クックックッとひとの悪い笑い声が部屋に響いた。
「写真に加えて、このテープも特別にオマケにつけて悟浄にやる。親切だろ」
「三蔵! 」
 八戒は叫んだ。どうして、どうしてこの男はこんなことをするのか。
「貴方はどうして――――」
「わからねぇのか」
 瞬間、三蔵の表情に苦悩の色が走った。
「三蔵」
 先ほどの勢いも、毒気も抜けた八戒は、馬鹿みたいに眼前の弾劾者の名を呟いた。
 弾劾――――そう、三蔵は弾劾している。八戒の罪を許せぬと責めたてているのだ。
 快楽に追い詰められた忘我の淵で自分のしている行動を、八戒は覚えていなかったが、三蔵はいちいちはっきりと覚えていた。
 気持ちはどうだろうと、なじんだ躰は、三蔵の前に膝を折って媚び、服従を誓うようになっていた。
 甘い喘ぎは三蔵にとっては自分の気持ちを快く受け入れた返事に聞こえたし、切羽詰った遂情の声はすがりついてくる躰と相まって、八戒の本当の気持ちの現われだと彼は信じた。
 口でこそ三蔵を遠ざける八戒だったが、躰は正直で、自分を求めてくれている。
 三蔵にはそう思えたのだ。
 八戒の肉体に押した刻印は、肉の記憶とともに彼の深層心理に根を降ろしているはずだった。いや、そうでなくてはいけなかった。
「卑怯なのは、オマエだ」
 三蔵は冷たく言った。ある意味、この男の言うことが正しいのかもしれない。
 八戒は、三蔵に無理やり抱かれているというのを口実に、自分自身の精神は綺麗なままにしておけた。
 行為に溺れ、快楽を貪っているくせに、確かに八戒は全てを三蔵のせいにして、自分は安全なところで悦楽に酔い痴れていた。
 いや、三蔵のせいにしていられるからこそ、精神を解放することができて、快感が深いのかもしれなかった。
「八戒」
 濡れた八戒のシャツは胸元にはりつき、下にあるピンク色の屹立の存在を透かして知らせている。
 普通に脱いでいるよりも艶めかしい姿だった。三蔵は、やや声を落として八戒を呼んだ。
 目の前の男はうつむいて泣いているように見えた。
「は、ははは。は……」
 三蔵が肩に手をかけると、八戒は狂ったように笑い出した。泣いているような笑い方だった。
「……よく分かりました」
 冷たい浴室の壁を背に、八戒はさもおかしいといった調子で笑いながら、呟いた。
「よく、分かりましたよ。三蔵」
 声には、自分自身を嘲笑う響きがあった。八戒は顔を上げた。翡翠色の瞳が、三蔵の紫暗の瞳と正面からぶつかった。
「貴方は僕のことが好きだから、執着している訳じゃない」
 三蔵はこの言葉を聞いて、抱き寄せようとしていた動きを止めた。続きを促すように、黙っている。
「僕みたいな下劣な者に、自分が軽んじられるのが、我慢できないんです」
「…………」
「僕が貴方よりも悟浄を選ぶのが許せないんです。悟浄の方が優れていると僕ごときに判断されるのが、貴方は許せないんです」
「黙れ」
「そう、……僕の事が好きなわけじゃない。プライドの高い貴方のことですから、僕みたいな――――そう、貴方に抱かれて悦んでるような淫売なんかに間違った判断をされるのが我慢できない。そうなんでしょう? 」
 八戒の薄い笑いは唇にはりついたままだった。
 確かに。
 それは、ある意味、嫉妬というものの本質を正確に言い当てていた。
「貴方はバカです」
「黙れ」
 三蔵は今度こそ、きつく抱き締めた。濡れたシャツとシャツが重なり合い、ぐしゃぐしゃになる。
 八戒はまだ口端に皮肉な笑みを浮かべている。
 しかし、八戒の笑いは、三蔵に向けられたものではなかった。
――――この男は自分自身を嘲笑っていた。
 そう、八戒が今まで見ないように見ないようにして、意識の外へ追い出していたことを、三蔵は引きずり出して晒してしまったのだった。
 黒髪の綺麗な男はさもおかしそうに肩を震わせていた。
 三蔵はシャワーの滴のせいとも涙のせいともつかぬ、濡れたその頬に唇を寄せた。
 かける言葉は見つからなかった。ただ、ただ三蔵は共犯者のごとく、その場に立ち尽くし、八戒の崩れそうな躰を支えていた。





 本人たちが望もうと望まないと、このふたりは質的にどこか似ていた。動よりも静、明より暗というように性状が似すぎていた。
 そして、磁石の同極を近づければ反発しあうように、知らずにお互いを傷つけあった。惹かれているのに、傷つきあうことしかできない。
「貴方はバカです。そして僕はもっと……」
 自分を罵る決定的な言葉を発しようとした瞬間、三蔵はその唇を自分のそれでふさいだ。
 八戒は抵抗しなかった。されるがままになっていた。シャワーの水で服ははりつき、躰の線が浮き彫りになっていて艶めかしい。
 濡れた浴室で、三蔵の手が八戒の服を脱がしてゆく。ボタンを外し、その下の肌へ直接、手を這わせた。
「どうして、僕なんかの判断を重んじるんですか」
 三蔵に躰をまかせたまま、八戒は独り言のように呟き続けている。
「どうでもいいでしょう? 僕の好みなんて」
「黙れ」
 落ち込んでいるこの綺麗な男を慰める方法は、三蔵はひとつしか知らなかった。
「う……」
 声を殺して泣き始めた八戒に、三蔵は無言で覆い被さった。
 負けず嫌いなくせに傷つきやすい、この魂に寄り添えるのは、あの能天気な赤毛の男よりも、自分の方だと三蔵は思った。



「歪んだ薔薇 第2部(20)」に続く