歪んだ薔薇 第2部(18)

 夕方、悟浄は帰ってきた。意気揚々とした足どりで部屋へ入ってくる。
「よ、とりあえず軍資金」
 茶色のバッグから、紙の束を取り出してガラスのテーブルに置いた。慣れた仕草で、ばっと横へトランプのカードの調子で扇形に並べる。
 一万円札が百枚、というところだった。一センチの厚さはあった。
「悟浄! 」
 百万。何の予告もなく、赤毛の男は無造作に持ってきた。
「ん。いや、久しぶりに賭場に顔出してさ」
 八戒は唖然とした。数時間でこんなに稼ぐなど、とても法の範囲内で済むバクチを打ってきたとは思えない。相当レートの高い違法な賭場に出入りしているのだろう。
「や、最近カンが鈍ってるかなと思ったけど、まーまーかな。結構いい腕してるでしょ」
 悟浄は傷のある方の頬を見せると、得意げに、にっと笑った。不良な悪いお兄さんという側面が全開になる。
「やっぱカードやりとりしてっと生きてるって気になるわ」
 近寄られると、タバコ臭かった。カードをやるのに邪魔だったのだろう。赤く長い髪を後ろでひとつに縛り、鎖骨の見えるほど襟元の大きく開いたTシャツを着て、口元にタバコを咥えている風体は、大学院生というよりまるきり博徒の佇まいだ。
「悟浄」
 なんとなく、力の抜けた声で八戒は呟いた。なんだか本当に悟浄に申し訳なかった。自分が情けなくなった。
 ヒモになるってこういうことなのかもしれないな、などという馬鹿な思いが一瞬脳裏をかすめた。
「んじゃ、俺、今度はバイトに行ってくっから」
 悟浄は欠伸をひとつした。昼、寝ていた八戒と違って悟浄は休んでいない。
「メシ、一緒に食えなくってごめんな。ちょい、始業前にマスターと今後の相談しときたいし」
「今後のって……僕と一緒に暮らす住まいのことですか」
「うん」
 悟浄はちらっと八戒を流し見た。切れ長で色香のある赤い瞳が微妙に揺れている。言おうか言うまいか、迷っている目だった。
「うーん。実はさ、……俺、マスターにホストやれって、ずっと誘われてんだ」
 視線を反らしながら、悟浄はぼそぼそと説明しだした。
「え」
 八戒はかけていたメガネがずれそうになって、鼻骨の上にあるメガネのブリッジを指で押し上げた。
「よくあることだけど、マスター、バー以外にも他に店、幾つか持っててさ。そのうちのひとつがホストクラブなんだけど……使えないヤツばっかみたいで、俺にホストやれって前からうるせぇんだよな」
「それは……」
 八戒は何も言えなくなった。事態は妙な方向へ流れてゆきそうだった。
「ま、そーすっと八戒と暮らすマンションなんてのは、マスターも口を利いてくれっだろうし、簡単に手に入るんだけど……」
 支度金も出るしな、などと玄人っぽく悟浄は呟いている。
「でも、バーテンやってるより、終わる時間が遅いから……ホラ、ホストクラブって、キャバとか風俗とかの女の子をお客さんにしてるじゃん。だから営業時間とかも遅く始まって、トーゼン店を閉めるのも遅せーんだよな」
 赤毛の男は少し、口ごもった。
「ま、午前中、大学の授業なんかはカンペキ出れねぇな」
 悟浄は頭を掻いた。八戒になるべく不安を与えまいと、努めて明るい口調で説明している。
「それじゃ……」
 それでは、まるで身売りではないかと心の隅で思いながら、八戒は不安げに話の先を促した。
「んー。最悪のハナシ、俺ぇ、大学院なんかやめちゃってもいいしィ」
「悟浄! 」
 八戒は思わず、叫んだ。
「オマエをひとりにするより、よっぽどマシだわ」
 悟浄の目つきと口調が変わった。細く長い眉が跳ね上がる。真剣で、ひどくきっぱりとした語調だった。
「……でも! 」
「うっせーな。いいんだって。最初っから大学院だの、おべんきょーだの、性に合わねぇんだよ。だからいーんだって」
 悟浄は叩きつけるように言った。
「大学院なんて、よく『入院』っていうじゃん。バッカばかしい。病院かっつーの。これで晴れて 『退院』 できるぜラッキー」
 悟浄は片眉を跳ね上げた。そんな表情をすると、いかにも悪そうな面がまえになる。心配させまいと、わざと露悪的に言っている。そうとしか思えなかった。
「……本当は院を出たら、どうするつもりだったんですか」
 八戒はゆっくりと訊いた。なんだか、妙な罪悪感が背中にべったりとはりついてくる。
「お? 」
「本当は、したいこととか、あったんでしょう? 」
 翡翠色の瞳は静かに悟浄へ向けられた。
「…………」
 悟浄は一瞬、正面から見つめられて、困ったような表情をした。指の間でタバコはすっかり灰になっている。
 テーブルにあった灰皿を引き寄せて、悟浄は照れを隠すかのようにもみ消した。
「なーに心配してんの。八戒サンってば。……俺はホラ、他のヤツラと違って官僚だの公認会計士だのになるタマじゃないっしょ」
 悟浄は苦笑いを浮かべた。もう、悟浄の中では、この問題については整理がついているに違いない。八戒に黙って、勝手に決めてしまったのだ。
 無言になって考え込んでいる八戒をとりなすように言った。
「官僚目指して国家一種試験とか受けるヤツ、確かにウチの研究室にも多いけどさ。俺は最初っからそういうタイプじゃねーし。だめだめ。ああいう型にはまった退屈そーなこと、ホントにだめなのよ。俺。それに官庁訪問だのなんだのって、霞ヶ関をダサいリクルートスーツ着て這いずりまわんのなんか、ぞっとするぜ」
「…………」
 八戒は黙った。
 悟浄は冗談めかして言っているが、本当のところどうなのだろう。
 悟浄には無限の可能性があった。
 院を出て、アカデミックポストに就きたかったのかもしれないし、教授推薦が有利なシンクタンク系に行きたかったのかもしれない。
 そして、口でこそバカにした言い方をしているが、官僚だって、そんなに捨てたものでもないに違いない。
 例えば経済産業省とか。そう、生き馬の目を抜くような民間企業を相手に、お歴々を差し置いて足を組んで上座に座り、官の理論を振りかざす若手の経産官僚。
 けっこう悟浄に似合うのかもしれない。 悟浄には無限の可能性があった。

 そして、八戒がそんな悟浄の未来を無残にも断ち切ってしまうのだ。
 名門の国立大の大学院生。そんな前途洋洋たる立場を投げ打ち、院を中退して水商売をするという。

――――八戒のためにホストになる。

「悟浄」
八戒は絞り出すような声を上げた。何と言っていいのかわからなかった。
「もう、このハナシはこれで終りな」
 悟浄は二本目の煙草に火をつけた。ホテルの部屋に紫煙がたなびく。
「俺、オマエ守るためなら、なんでもする。するっていうより、できるから」
 赤毛の男はきっぱりと言い、そのうち柄でもない自分の言葉に照れたのか、頭をかりかりと手で掻いた。
「んじゃ、俺、もう行くわ。外、出るなよ。なんかあったら俺のケータイに電話して」
 悟浄はそういうと、ケータイの入っている尻ポケットを指で指し示し、部屋から出て行った。
 乾いた音を立ててしまるドアを見つめながら、八戒はうそ寒いものを感じていた。何か取り返しのつかないことを知らぬ間にしてしまったような気がした。
 悟浄は、八戒可愛さに、もう目先のことしか考えていなかった。
 彼の柔らかい未来は八戒の掌中に全てのっており、ひねり潰すのはたやすいことだった。彼はもしかすると、八戒を助けるためになら喜んで死ぬのかもしれない。
 八戒は、首を横に振った。
 貴重な時間を自分のために悟浄は完全に棒に振るのだ。
 自分にはそんな資格はないと思った。大切な悟浄の将来を捻じ曲げる資格など、どこにもありはしないと思った。
(弁解は……今夜、てめぇのアパートで聞いてやる。首洗ってまってろ)
 電話越しに聞いた三蔵の言葉が頭の中でこだまする。
 弁解なんて、どうして自分が弁解などする必要があるのかと八戒は思った。三蔵はまるで、悟浄と八戒の関係を、浮気かなにかのように決めつけている。
 八戒は唇を噛み締めた。三蔵の認識こそが間違っている。あの男にどうして、この自分が忠義立てなどしなくてはいけないのか。
 夜な夜な犯され、陵辱されている自分の方こそまごうことなき被害者なのだ。あの男だけは許せない。あの男が全部悪いのだ。
 三蔵とのことは、自分で精算しなくてはならない。
 八戒は決心した。
 今まで、悟浄に三蔵とのことを知られるのが嫌なばかりに、歪んだ関係を受け入れていたが、もうそんな必要はないのだ。
 悟浄はどんな自分でも大切だと言ってくれた。どんな自分でも受け入れると言ってくれたのだ。
 もう、この言葉だけでも充分だった。あの金の髪をした鬼畜などのために、絶対に悟浄の生活や将来を左右させてはならない。
「首を洗って待っているのは、むしろ貴方の方ですよ」
 目にかかる長さの前髪越しに、緑色の瞳が決意の色を宿してきつく細められた。 これだけは自分自身で始末をつけなくてはならないと、八戒は決心した。

 あの鬼に止めを刺してやる。



「歪んだ薔薇 第2部(19)」に続く