歪んだ薔薇 第2部(17)

「う……」
 八戒は広いベッドの上で身じろぎした。視界は白くぼんやりとしている。段々と焦点があって、壁に貼られたクロスの模様が目に浮かんできた。
 西洋風の草花の模様で、浮き彫りが施されている。上品だが見慣れぬ壁。それがホテルの部屋の壁だと分かるまでに、だいぶかかった。
「おはよ。八戒」
 既に起きて部屋の中を歩き回っていた悟浄が声をかける。
「なんか、こーしてると新婚さんみてぇ」
 赤毛の男には反省というものがなかった。ただただひたすらデレデレとやにさがっている。八戒をひとり占めにしている状態がうれしくってしょうがないのだろう。
「……太陽が黄色いです」
 八戒は窓の外へ目をやって、ぼそっと呟いた。光りが目に沁みた。抱かれまくってしまったせいか、ほとほと躰が疲れきり、バカみたいになっていた。
 目を覚ましたはいいが、唸っているばかりで、力が入らない。全身がだるかった。
 悟浄が横から声をかける。
「ここに、朝メシ、置いとくから」
 スーペリアルなので、部屋の家具は割合しっかりとしている。テーブル板が透明なガラスで、脚の部分が籐でできた瀟洒なテーブルが窓辺に置かれている。
 フルコースを頼んだら、さすがに載せきれないだろうが、普通に食事をするのなら十分な大きさだった。
「それ……」
 悟浄が指し示した朝食は、数種類のパンだの、果物だの、パスタだの、いろいろな品が剥き出しのままバランスや彩りを無視して大皿ふたつに盛られたものだった。
 どう考えてもルームサービスの朝食ではない。なんかこう、雑多な感じだった。
「俺が一階のビュッフェから取ってきた」
 八戒の視線に気づくと、悟浄が説明した。
「え」
「いや、八戒、起きるの無理だと思って。ホテルのひともいいっつたし」
 どうやら、セルフサービスのビュッフェで適当に選んで皿に盛ってきたらしい。
「……悟浄」
 そんなことをしなくともと、なんとか起き上がろうとして、八戒は声にならない声を上げて悶絶した。すっかり腰が抜けている。
「な。起きれねーじゃん」
「……誰のせいですか。誰の」
「んじゃ、こーしとくわ」
 皿が載ったまま、悟浄はテーブルを抱えて、八戒の寝ているベッドの傍へ寄せた。
「こーすっと、寝たまま食えんじゃね? 」
「…………」
 悟浄の優しさはありがたかったが、段々、自分の状態が情けなくなった。
「すいません。悟浄」
 礼を言うと、赤毛の男はうれしそうに口元を緩めた。昨日着ていた茶色のTシャツに袖を通し、同系色のボディバッグを肩から下げる。
「んじゃ、俺ちょいと部屋探してくるわ」
「悟浄」
「八戒とつくる愛の巣のためなら、ゴジョ頑張っちゃーう」
 おどけてた口調で笑う。
「んじゃ、俺、夕方には一回戻るから、その間ホテルから出るなよ。昼はなんならルームサービス頼めよ。フロントには連泊するっていっとくから」
 この男にしては珍しく、命令口調で立て続けに指示を出すと、慌しい調子で部屋から出て行った。
 悟浄が出て行くと、部屋は途端に静まり返った。
 耳をすませると、廊下にベッドメーキングのためにひとが出入りする音やら、掃除機のモーターが回転する音が聞こえてくる。
 朝の十時はとっくにまわっている気配だった。
「甘やかされてますね。僕は」
 八戒は苦笑した。大の男をつかまえて、あれやこれやと世話を焼く悟浄は妙にかいがいしい。一体、悟浄に自分はどう見えているのだろうかと八戒はこっそり思った。
 傍から見れば八戒の方が社会人だし、背だって負けずに高いし、どうもこんなお姫様扱いされる理由などひとつも見つけられないに違いない。
 八戒はベッド脇のサイドテーブルにそなえつけられた、黒い電話へと手を伸ばした。よくしたもので、必要なものがベッドの周囲にあるというのはありがたい。
 多少、憂鬱な気分に苛まされながら、大学付属図書館の番号をのろのろとした仕草で押した。
 コール音が耳に痛い。逃げ出したくなるが、昨日も職場に途中から出ていないし、今日はどうしたって休みの連絡をせざるを得なかった。
「はい。付属図書館です」
 今日の八戒は運が悪かった。
 恐れていた人物が応対に出た。冷静で美麗なその内側に、激しい本質を秘めた男。なじみのありすぎる、凄みの効いた低い声が受話器越しに耳を刺す。今一番、聞きたくない声だった。タイミングが悪すぎたがどうしようもなかった。最悪だった。
「……猪八戒です、おはようございます」
 挨拶する声が震えた。ホテルの部屋の空気が冷気を帯び、温度が一気に下がったような気すらした。
「てめぇか。昨日はどうした。今、どこにいる」
 八戒だと分かった瞬間、がらっと相手の口調が変わった。巻き舌がかった短気な調子になる。
「三蔵」
 八戒はやっとの思いで絞り出すような声を出した。
「昨日に引き続き、体調不良なのでお休みさせて頂きます」
 なるべく事務的に言った。嘘ではない。
「てめぇ」
 電話の向こうで三蔵は唸っている。
「今、独りか。……まさか、あのエロ河童と一緒なんじゃねぇだろな」
 八戒に過度の執着を抱いている相手は、見透かしたような事を言った。
「貴方に関係ありません」
 なるべく冷静な調子を保とうとしたが、声が上擦った。一方、それを聞いた三蔵の声はさらにいっそう低くなった。
「ローター、自分で取ったのか。俺に断りもなくいい度胸じゃねぇか。……それとも他の男に取ってもらったのか。疼いてたんだろうに、その後どうした? 俺以外の男でもたらしこんでヤったのか」
 八戒の聴覚を犯すように、邪悪な毒が次々と注ぎ込まれる。おぞましい蛇が這い寄ってくる感覚に似ていた。
 それは八戒のもっている電話の受話器を通じて、耳へ手へ腕へと執拗に絡みついてくる。ぬめぬめとした冷たいうろこを光らせて、八戒の心臓めがけて締め上げる。
「淫乱が」
 三蔵が電話口の向こうで吐き捨てた。
「弁解は……今夜、てめぇのアパートで聞いてやる。首洗ってまってろ」
 八戒が言い返さないのをいいことに、傍若無人に三蔵は言い放った。
 もう、こんな不遜な男の相手ができるのもここまでだった。これ以上、彼の言葉を聞いているのはとても耐え切れなかった。
 八戒は返事もせず、叩きつけるように受話器を置き、電話を切った。
「っ……」
 三蔵の声を聞いているだけで、背に怖気が走った。さっきまで、まるで新婚部屋みたいだった空気は一変して凍りついている
「悟浄」
 救いを求めて大切なひとの名前を小声で呼んだ。
 八戒は苦しげに唸り、喉のあたりに手を当ててうずくまった。起きれば当然だが、残酷な現実が待っていた。
 悟浄との一夜は夢に過ぎなかったのではないかとまで思った。
 ひたすら息苦しかった。耳から注ぎ込まれた蛇の毒は、八戒の精神を痺れさせ、すっかりがんじがらめにしてしまった。

 逃げているだけでは、解決できない。
 そう、あの男から逃げているだけでは解決できないのだ。

 八戒は苦痛に呻きながら考えた。頭の一点は常に冷めていた。

 悟浄といた間は、あまり意識せずに済んでいたが、あらためて裸の自分の躰を見ると、どこもかしこも恥ずかしい跡だらけだった。
 三蔵と悟浄、ふたりの男につけられた、鬱血が肌に点々とついている。
 悟浄は先についていた三蔵の跡を消そうとムキになって八戒の肌を吸った。おかげで、ものすごく大きく目立つ跡になってしまっている。
 八戒は口元を歪めた。苦笑いを浮かべるような表情になった。自分でも泣いているのか、笑っているのか分からなかった。

 悟浄との幸福な時間でも、この不幸な汚れは消し去ることができない気がした。
「悟浄」
 もう一度、赤毛の男の名を呼んだ。それは八戒にとって、起死回生の貴重な魔法の呪文だった。

 そのまま、力尽きたようにベッドに顔を埋め、八戒は思考停止した。白い枕に黒く艶やかな前髪が散りかかる。もうそれ以上、何も考えたくなかった。





 いつの間にか、寝てしまったらしい。
 昏々と八戒は眠り続けていた。今までの疲れもたまっていたのだろう。
 何しろ、毎晩のように三蔵は現われ、八戒から何もかもを奪っていたのだ。睡眠や、体力や、誇りや、自尊心や何もかもを奪っていた。
 広いベッドで、のびのびと独りきりで手足を伸ばして寝るのは八戒にとって嬉しいことだった。

 夢か現か分からない狭間で、何度も何度も意味が分からぬ夢を見ていた。

 意識は、白く霞む闇に喰われていった。





――――気がつくと、豪奢な金の檻の中だった。
 夢だ。という意識はなんとなくあった。金色の棒が幾つも目の前に立ちふさがり、外界から八戒を完全に隔てている。遠くに悟浄の姿が見えるが、気がついてはもらえない。八戒は赤い髪の男の名前を必死になって何度も呼び、棒の間から手を伸ばした。悟浄、悟浄とひたすら唱えて腕を振り、助けを求めた。だけど、長い髪をなびかせて彼は無言で通り過ぎる。悟浄、待って下さい。悟浄。僕が貴方を避けているのは、貴方のことが大切だからで嫌いだからじゃないんです。本当です。だから、僕を見て下さい。僕を――――。悲痛な声で八戒は悟浄を呼び続けている。すると、目の前の闇が突然、密度を増して濃くなった。金の髪をしたあの男が魔術のように暗闇の空間から現れる。美麗な顔立ちに皮肉な微笑を浮かべ、片目を眇めて八戒を冷淡に見つめている。うるせぇ。わめくな。しつけぇ。そんな躰してるのに、バ河童が本気でてめぇなんかに惚れるわけねぇだろが。はっと気がついて、八戒が自分の躰を見ると、一糸も纏わぬ裸だった。いたるところに、三蔵のくちづけの跡をつけている。違います。違います悟浄、これは違う。僕は無理やり三蔵に犯されたんです。八戒が血を吐くように叫ぶと、目の前の鬼畜な男はそれを聞いて口端をつりあげるようにして笑い出した。おかしくてたまらぬというような様子だった。言ってくれるじゃねぇか、全部俺のせいか。ふざけんな、このド淫乱が。金糸の髪が不吉なまでの美しさで輝いている。三蔵は続けて言った。自分の躰に訊いてみろ。本当にてめぇは素直じゃねぇ。八戒は怒りに顔を朱に染め、言い返そうと口を開き、目の前に立ちふさがる金色の棒を必死でつかんだ。軽蔑しますよ三蔵。僕は貴方なんて大嫌いです。とうとう言ってやったという復讐的な喜びと勝利の感覚に八戒は心地よくひたった。しかし、それも長くは続かなかった。違和感を覚えて、ふと手元に視線を落とすと、硬い金属の感触だった棒は、ぐにゃりと粘土のごとく柔らかくなり、いつのまにか、金色のうろこを光らせている。――――蛇だった。棒はいつの間にか、生きた蛇に変わっていた。三蔵の声が蛇でできたおぞましい檻の中に反響する。俺と愉しむだけ愉しんだ癖に、独りで被害者ヅラしてやがる。一体どこまで、てめぇは図々しいんだ。三蔵の声が耳元で聞こえ、無数の金色の蛇が八戒に巻きつく。息ができない。首元を締め上げる一匹を、手で解こうとあがいた。蛇の金のうろこが一枚はがれて落ち、八戒の指にはりつく。三蔵の低い声はまだ聞こえている。苦しめ。俺が苦しんだだけ苦しめばいいんだ。てめぇなんて――――。





「…………! 」
 八戒は全身、びっしょりと汗をかいて、目を覚ました。
 ホテルの空調が効き過ぎて、空気がすっかり乾燥している。八戒はややいがらっぽくなった喉を手で押さえ、ベッドの上に身を起こした。
「夢……」
 なんて、夢を見るのだろうと、肩を落とす。夢の中でも、三蔵は絶対的な支配者のごとく、残酷で美しかった。
 しばらく呆然と白いホテルの壁を見つめていたが、朝方よりも躰が軽いことに気がついた。ずきずきする腰や、骨まで軋むだるさが無くなってきている。
 きっちりと首元まで止めたパジャマのボタンを外し、胸元に手を当てた。汗でべたべたとした感触で気持ちが悪い。
 八戒はそっと身を起こして床に落ちているスリッパへ足の先を入れた。長い間、おあずけを喰らっていた悟浄の求めは際限というものがなかった。
 歩く度に軽い違和感が腿の付け根に走ったし、まだ脚の間に何か挟まっているような淫らな感覚もあった。
 八戒はいうことをきかない躰を叱責しつつなんとかシャワーを浴びた。悪い夢も、汗で気持ちの悪い躰も、何もかも洗い流したかった。
 濡れた前髪の先から、滴がたれるのを大きなバスタオルでふき、ドアを開けて部屋に戻ると、初めて生き返った心地がした。
 ベッド近くに寄せられた、テーブルの上の大皿には、まだ今朝の食べ残しがラップで覆われて載っている。
 大雑把な悟浄らしく、ぶどうの大きな房の隣に、何故か昆布の佃煮が盛りあわされている。
 焼きたてのパンの類は既に食べてしまってなかったが、まだリンゴやらパイナップルなどの果物は残っていた。
 若干、ラップの閉じ方が不十分になっていたとみえて、リンゴはやや茶色く変色していたし、パイナップルは端が乾いてきていた。
 しかし、食欲もないし、外へ出る元気もないので、口寂しさを補うには充分な量だと思った。
八戒は備え付けのドリップ式のコーヒーをいれようと、ホテルのマークの入った白いカップを取り上げた。折りたたまれた紙をひろげ、中に入っているコーヒーの粉を落とさぬよう気をつけながら、カップに被せて上から電気ポットのお湯を注ぎいれる。
 途端に、香り高いコーヒーの香りが部屋中に満ちた。
 蒸らしに多少時間をかけている間、ふとテーブルを見ると、食べ物が載った大皿の横に、八戒の持ってきた古文の辞書があるのがみえる。
 悟浄が、重いので置いていったのだろう。この辞書がきっかけだった。これのために、ローターなんかを躰に入れたまま、悟浄に会いに行ったと思うと、妙な気分がした。
 あの時の自分は全く冷静でなかった。
 しかし、冷静だったら、いまだに悟浄に自分の気持ちも、三蔵とのことも打ち明けられずにいたに違いなかった。
 そう思うと、この端がめくれて、黒い表紙をした生真面目な辞書は、八戒と悟浄の仲人ともいうべき存在だった。不思議な因縁めいたものを感じて、八戒は何気なくそれを手にとった。
 すると、辞書の下に何か紙が敷いてあるのが見えた。
「?」
 八戒がよくよく見ると、それは悟浄が後輩に押し付けられたとかいう課題だった。
「講義の課題ってこれなんですね」
 長ったらしい能の台詞が原文で細かく連ねてあった。
「どれどれ。これを英訳するんですか? 」
 内容は、先に悟浄が言っていたとおり、高嶺の花に恋をした男が、思いを叶えてやるから、重い荷物を持って庭を百回まわれとか言われて頑張るのだが、回れずに死んでしまうというひどい話だ。
 さっと走り読みすると、「鬼」 という文句が目についた。
――――恋死し。一念無量の鬼となるも。
(恋に死に、男は恨みのあまり鬼となったが)
「…………」
――――恋路の闇に迷ふともその怨は終には跡も消えぬべしや。
 鬼にはなったが、愛しいひとのために守り神になるという文章で締めくくられていた。
 そんなことってあるのだろうかと、読みながら八戒は思わず心の中で呟いた。
 そんなことがあるわけはない。恨まれたら、もうそれで終りなのではないか。相手の怒りが解けることなどない。
 そんな、悲痛な思いが八戒の心を切り裂いた。どうして自分がこんな立場になってしまったのか、さっぱり分からなかった。先ほどの夢の中での三蔵の言葉が甦る。
(苦しめ。俺が苦しんだだけ苦しめばいいんだ。てめぇなんて――――)
 夢の中の三蔵はぞっとするほど酷薄で、冷淡で、残酷で、そして――――美しかった。
 そう、まるで鬼のように。

 気がつけば、カップの中のコーヒーはすっかり冷めていた。



「歪んだ薔薇 第2部(18)」に続く