歪んだ薔薇 第2部(16)

 もともと、小さな窓にかかったカーテンで、外界はすっかり遮断していたが、濃い夕闇はこんな密室にも忍びより、座卓もカーペットも本棚も闇へと沈みかけている。
「ん……今、何時ィ? 」
 悟浄が気だるげな声を上げた。
「…………」
 応えるにも声が出なかった。八戒は喉を詰まらせ首を振った。あの後、悟浄は恐るべき本領を見せた。抜かないで三回続けて行為を重ねるという芸当を披露したあげく、それでも足りないとばかりに八戒を執拗に攻めたのだ。
 八戒は力が出なかった。躰の内側がだるかった。もう、何も出ない。真剣にそう思った。
「お、もう夕方の六時だって。びっくり。あっとゆー間すぎだよな」
「…………! 」
 昼前からこの部屋で、悟浄と抱き合っていることを考えると、軽く六時間という時が過ぎていた。
「魔法みてぇ。ついさっき、八戒とちゅーしたばっかな気分なのにな」
「…………」
 うつぶせになったまま、がっくりと八戒はうなだれた。もう立ち上がる気力はなかった。悟浄はタフすぎた。
 夕闇に包まれた室内のそこかしこに、丸めたティッシュが放り投げられて落ちている。
 部屋は惨憺たる様相で、つくづくめまいがした。
 それでも、
 こっちを向いて、唇の端をにっと上げて微笑む悟浄と目が合うと、気恥ずかしさやら、陶然とした幸福感やらで頭が霞みぼうっとなった。
 胸の鼓動が跳ね上がり、緊張ともときめきともつかぬ何かに全身が支配されてしまう。
「…………」
 とはいえ、八戒はもう一指も動かせそうになかった。首を上げて手をカーペットにつき、腕で躰を支えようとしたがどうにも力が入らない。うつぶせのまま再び床に突っ伏した。
「六時だなんて……」
 八戒は力のない声でぶつぶつと言った。もう、終業の時間はとっくに過ぎている。
 三蔵は自分のところにこないばかりか、かき消すようにいなくなった八戒のことを探し回って、気を揉んでることだろう。
 それどころか、昼から八戒は職場に戻っていないのだ。誰にも断っていないので、さぞ顰蹙を買っているに違いない。
 せめて、電話を入れたかった。
「悟浄って、携帯持ってますよね」
 無意識に、八戒の指はズボンのポケットに入っている財布へと伸びた。
 そこには、悟浄からもらったコースターがふたつに折られ、お守りのように大切に入っている。
 それは以前、カクテルを出されたとき、グラスの下に敷かれていたもので、悟浄の携帯番号が裏に書いてある。
「お、使う? 」
 快活な調子で言うと、河童はシルバーメタリックに艶消しを施し、すっきりとした印象の携帯電話を取り出した。
「……お借りします」
 図書館直通の番号を八戒は押した。数コールの後に、まだ残っている職員が電話口に出た。
 八戒は午後、無断で欠席したことを詫び、大事のないことを伝えて電話を切った。
「使うとき、いつでも言って」
 悟浄はうれしそうに微笑み、戻ってきた携帯を受け取った。
 ローターなぞを仕込まれたまま苦労して学食など行かず、悟浄に都合が悪くなったと電話でひとこと連絡すれば済むことだったのではないか。一瞬、そんな今更な考えが八戒の頭の隅をよぎった。
 八戒は無言で首を横に振った。後の祭りとはまさしくこのことだった。携帯電話を受け取ると、悟浄は言った。
「八戒、腹すいてねぇ? 外に喰いに行こうぜ」





 腰が砕けて立つのがやっとな八戒を、横から悟浄が支えて歩く。
 夕闇の中、ふたりで躰を寄せ合うようにして歩いていると、なんだか気恥ずかしい。
 構内の部室などで抱き合っていたから、シャワーも浴びていない。いや、共同のシャワー室は当然ついているけれど、男との情交の跡をつけて人目に肌をさらす勇気はなかった。
 ふたりで抱き合った後なので、学生相手の店に入るのも気がひけた。自然にふたりの足は駅前へと向いた。





 気がつくと、ネオン街の入り口まで来ていた。
 通りまで出している看板は、黄色や赤の電飾で瞬き、忙しない。
 悟浄がバイトしている界隈だった。こんな街で、悟浄はずっとバーテンダーのバイトをしている。
 そのせいだろう、彼は勝手しったる迷いのない足取りで、細い道を幾つも通ってゆく。腰を抱えられて、そんな場所を一緒に歩く八戒は、なんとなく所在無い気分にさせられた。
 華やかな大通りから小道に入ると、小さな店がびっしりとひしめいていて、毒キノコの小さな群れのようだ。
 悟浄の勤めているようなバーの看板もあったし、風俗業の店は入り口に女の子の写真を張り出して、呼び込みに必死だ。高級店の類はない界隈なので、安っぽい淫靡さが滲み出ている。
 陰惨さと惨めな華やかさがお互いを軽蔑しながら同衾している。
「悟浄」
 支えられて歩きながら、八戒は言った。
「なんだか、食欲はないので――――」
「なら、どっかでなんか買ってく? 」
 悟浄は八戒の顔を覗き込みながら、言った。
「買って行くって――――」
 悟浄はどこへ行くつもりなのだろう。これから、どうなってしまうのだろう。ふと八戒は思った。悟浄とこんなことになってしまって、三蔵はどう出るだろう。
「あ、ここはさ、フィリピン家庭料理の店なんだけど」
 八戒を支えている軸足でない方の足で、悟浄はその店の方を蹴るようにして指し示した。わりと飾り気のない、素朴な店だった。
 看板も殺風景な白いプラスチック製で、愛想がない。カダログ語と日本語でメニューがドアに書かれて貼り出されている。
「不動産業のオヤジがフィリピ―ナのお姉ちゃん達連れてくるせいで、ここのママ、そっちに顔が利くんだ」
 悟浄は何かを考えている表情で呟いた。
「でもな。潰れた飲み屋を改造しただけの造りだから、カウンターしかないんだわ。辛いよな、腰がそんななのに」
 八戒の顔を覗き込みながら、悟浄は口をしかめた。一応、責任を感じているらしい。
「ま、いーや。また来よ」
悟浄はまた、八戒を支えるようにして歩き出した。
「悟……」
「いーのいーの。この店、フィリピ―ナとかキャバ嬢が相手だからさ、営業時間遅いんだわ。俺、夜のバイト終わった後とかでも充分、寄れるし」
「そういえば、悟浄、今日のバイトは」
八戒は気にかかっていたことを訊いた。
「何、心配してくれてんの? 今日はナシ。明日の午後六時からご出勤」
 俺って働きものでショ、などと軽口を叩き、八戒へ笑いかける。
「でも、今日はどこで寝よっか。どーすっかな。寮なんてむさ苦しいトコ八戒連れて行きたくねぇし。でも……今、マスターにマンションとか頼むにゃタイミングが悪いんだよなー」
 悟浄は細い眉を寄せた。困ってる顔だ。
 マスターとは、バイトしているバーのマスターのことだろう。悟浄が何ごとか悩んでいるらしいのに気づき、八戒は声をかけた。
「悟、悟浄」
「俺、もうオマエのこと、ひとりにしておきたくないんだわ」
 きっぱりとした口調だった。黄色や青色の電飾の灯かりが悟浄の精悍な顔立ちを照らしてゆく。
「一緒に住もうぜ、八戒」
「え……」
 二、三人のサラリーマンが傍を通り過ぎる。宵闇は熱っぽい空気を孕んで、通りのそこかしこによどんでいる。
「三蔵のヤツ、八戒のアパート、知ってんだろ」
 一瞬、悟浄の表情は無表情に近くなった。真剣さと怒りがない混ぜになった顔だ。
「俺、イヤだ。もう耐えられねーよ。一緒に住まないと、もう一日も安心できねー」
 八戒はようやく気がついた。さっきから悟浄は自分と暮らす場所を探しているのだ。
 悟浄は孤児だった。普通の手段でマンションだの、アパートだのを探したら、保証人の問題でつまづいてしまうだろう。
 思い当たるふしがあって、八戒は自分のことを振り返った。
 学生の頃、寮に入ろうと思ったのも、シビアに保証人だの保護者だのを必要としなかったからだったし、アパートを探すときに三蔵に相談したのも、身元の保証のない自分を見る世間の冷酷な目に居たたまれなくなったせいだった。
「ま、いーや。あせんなくっても。今日はどっかに泊まろうぜ」
 悟浄は優しく微笑んで八戒の肩を抱いた。
 悟浄の匂いに包まれて、八戒の胸中に甘い痺れのようなものが広がった。足元がふわふわとしていて、力が入らない。
 ネオン街を背景にすると、悟浄の持つ天性の色香のようなものは更に匂いたつようだった。彼はこれを利用して、今までも生き延びてきたのだろうし、これからもきっとこの男はそうしてゆくのだろう。





 結局。
 駅前にあるホテルのひとつに悟浄と八戒は飛び込んだ。出来たばかりの綺麗なホテルだ。
 ビジネスはビジネスでも、この街の企業に用がある外国人ビジネスマンをメインの顧客にしているホテルらしい。結婚式場も備えていて、贅沢なつくりのところだった。
 ホールの中央には山のように花が生けられていた。大きな伊万里の花器の中で、百合が華やかに競うように咲き、それに枝物が涼しげな緑を添えている。
 受付には担当者が三人ほどいたが、特に年配のホテルマンの顔つきは上品だった。
「悟浄」
 途中で買った食料品の紙袋を手に抱え、八戒が隣で声をひそめて囁く。
「もっと安いホテルでもいいんじゃないですか」
「んな心配すんなっての」
「でも――――」
「なんと言っても、今日は俺と八戒の初夜だし」
「…………」
 八戒は絶句した。いままで散々あんなことをしておいて、何が初夜ですかと言い返してやりたかった。
 しかし、静かなホテルのロビーなので、なんとか我慢した。
 フロントへ顔を出すと、悟浄は赤い切れ長の瞳を光らせ、悪びれもせずに言った。
「とりあえず一泊、お願いしたいんだけど」
「かしこまりました。こちらにご記入下さい」
 名前やら住所やら、支払い方法やらを記入するカードを、年配のホテルマンが差し出した。
「お部屋はどのタイプになさいますか」
「ダブルで」
 悟浄は平然と言ってのけた。傍にいる八戒は頭から湯気が出そうだった。
 ダブルといったら、ダブルだ。要するにベッドがダブルなのだ。ダブルベッドが堂々と備え付けられている部屋という意味だ。
「悟、悟浄」
 それは男ふたりで泊まる部屋としてどうなのか。思わず、八戒の中で常識が顔を出した。
「ツインでなくてよろしいですか」
 鉄壁の職業的無表情をまとった相手もすました声で聞き返す。
「ツインでいいです! ツインで! 」
 八戒は真っ赤になって小声で喚いた。
「往生際、ワリィな八戒は」
 悟浄が冷静な調子でしゃあしゃあと言ってのける。
「…………! 」
 揉めているふたりに向って、管理用のパソコンの画面を弄っていたホテルマンが慇懃さを失わずに告げた。
「コーナーのスーペリアル、ダブルのお部屋が空いております」
「それでいーや」
 悟浄はすっかり腹が据わっている。
「悟浄ッ! 」
 一方、八戒はどこまでも羞恥心を捨てきれないらしい。対照的といえば対照的なふたりだった。
 やがて、カード式の鍵を受け取ると、照れる八戒を腕に抱えるようして、悟浄はエレベーターのドアを開けた。





 ルームサービスで食事をすませ、シャワーを浴びてさっぱりして、後は寝るばかりとなった。
「俺、明日、アパート探して来るわ」
 綺麗に整えられた毛布を剥いで、悟浄はベッドにもぐりこんだ。
「悟浄」
 八戒は傍らのソファに腰をかけたまま、咎めるような声を出した。
「八戒はここにいて」
 真摯な赤い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。ベッドに肘をついて寝そべり八戒の方へ顔を向けている。
「だいじょーぶ。ガッコはサボっても、バイトにゃ行くから」
「悟浄! 」
「んな怖いカオすんなよ。へーきだって」
 悟浄は困ったように笑った。
 八戒の心の中に、もやもやとした戸惑いが湧いた。悟浄が一緒に暮らそうといってくれるのはうれしい。でも、自分などのために、学生の悟浄にとんだ負担をかけてるのではないか。
 八戒はゆっくりと起ち上がった。大きな嵌め殺しのガラス窓越しに、街の灯かりが地上の星のごとく瞬いている。高層階だったから、ひとつひとつの灯かりは、豆粒みたいに小さかった。
 なんとなく、悟浄と離れてベッドの隅にそっと腰かけた。体重を受けて、かすかに寝台が軋んだ音を立てる。
 ダブルベッドはスーペリアルルームだけあって、豪勢に広かった。悟浄が笑顔で自分の寝ている場所の近くを手で叩き八戒を呼んだ。
「なんでそんな隅にいんの? こっち! 八戒こっち! 」
「…………」
 八戒は、今までが今までなので、うろんな目つきで赤毛の男をじっと見つめたまま、動こうとはしない。
「つい……さっきはムチャさせちまったケド……」
 不信の目を向けられて、悟浄は慌てて言った。
「もう何にもしねぇから。今夜は何にもしない」
 眉を下げ、困ったような顔つきをした。
「本当ですね」
 悟浄のそんな顔に弱かった。悪ぶっているくせに、人のいいこの男が、寂しげな素振りをしたりすると、八戒なんかイチコロだった。
「本当の本当に何にもしねぇ」
 悟浄は誓って言うと、そっと手を伸ばした。
「なんか、今夜は一晩、手とか繋いでいたい」
 考えようによっては、これ以上ないくらい恥ずかしいセリフを悟浄は吐いた。しかし、精悍な顔立ちは真剣そのものだった。
「本当の本当ですね」
「ん。好きなヤツの手とか握って寝たりするの、憧れてたんだ。実は」
 そう言われると弱かった。八戒はようやく安心して、悟浄と同じ毛布に入り、悟浄の手をそっと握った。
「こうですか」
 心の中に暖かいものが満ちてゆく。他には何もいらなかった。
「ん……八戒の手、あったけーな」
 悟浄が無邪気に微笑んだ。そんな顔をされると本当に弱かった。じわじわと、眩暈のするような幸福感に襲われて、八戒が口元を緩ませていると、悟浄が突然、言った。
「……勃った」
「は?! 」
 八戒は、今までの甘い感覚に冷や水を浴びせられたような気がして、飛びのこうと手をひいた。
 しかし、悟浄に指と指を固く絡み合わせられていて、振りほどけない。
「ワリィ。勃った。ダメだわ、俺。八戒の顔見てると際限ねぇみたい」
「…………悟浄! 」
「八戒ィ」
 鼻を寄せてでかい図体の男が甘えてくる。
「嘘つき! 知りませんよ。僕は本当に知りません」
「分かった八戒、何にもしねぇから、お願い。このキレ―な指で俺のココ、触って」
 あろうことか、悟浄は八戒の手を自分の猛りへと導いてゆく。
「知りません! 」
 悟浄の言葉は本当だった。そこは完全に復活していた。パジャマの布越しにも、熱く硬いモノが息づいているのが分かり、八戒が目元を染める。
「ホントに何にもしねぇから、ココとかココを……」
 相変わらず、河童はメチャクチャなことを言っている。
「悟浄ッ」
 たしなめようにも、もう、なんと言っていいのか分からない。
「分かった。八戒がしてくれねぇなら……」
 悟浄はそういうと、上体を起こした。八戒の上へ覆い被さる。
「何言って……あっ……バカ……悟……浄」
 大きな手が、八戒のパジャマの中にもぐりこむ。直接、やんわりと握り込まれ、淫らな手つきで上下に扱かれる。
「嘘つき……! 嘘つきッ……何にもしないって……あッあ……」
 憎まれ口を叩こうにも、敏感な裏筋を、指でなぞられ小さな口を開けている先端を突付かれた。途端に透明な先走りが滲み出す。
「……八戒」
 愛しげに、悟浄が呼んだ。
「大切にする。俺、八戒のこと大切にすっから……」
 耳元に優しく囁かれる。
 完全に八戒の負けだった。
 そのうち、甘い吐息で部屋は満たされ、夜は更けていった。
 


「歪んだ薔薇 第2部(17)」に続く