歪んだ薔薇 第2部(21)

 既に、東の空は白み始めている。飽きることなく、今日も太陽が昇ろうとしている。
 深い眠りについていた街も目を覚まし、止まっていた心臓に血が再び通いだすかのごとく、新聞を配達するバイクや、始発電車が線路を走る音が、遠くからかすかに聞こえてくる。
「はっかーい。まだ寝てる? 遅くなって……」
 悟浄はホテルの部屋に戻りドアを開けた。
「……え? 」
 中に入って愕然とした。
 白い部屋はもぬけの殻だった。ベッドにもぬくもりはなく、一晩誰かがいた気配もない。
 八戒はいなかった。バスルームも、クローゼットも開けて確かめたが、あの緑の瞳の男はどこにもいない。
 テーブルの上には、綺麗に洗われて重ねて置かれた大皿と、辞書と課題の資料がきちんと並んでいる。まるで八戒の代わりに『今までお世話になりました』とでも言っているかのようだ。
 いやな予感が押し寄せてきて、悟浄は顔を歪めた。
「八戒!」
 思わず、大声で呼んだ。自分のカンが外れていていることを、このときほど願ったことはなかった。
「クッソ。どこ行って……」
 そのとき、
 悟浄のズボンの携帯が鳴った。電子音が高らかに部屋に響く。
 細長い銀色の機械を取り出し、着信ボタンを押すとすぐに耳に当てた。
「八戒!」
 何故か、八戒からの着信だと思い込んでいた。
 しかし、
『バ河童か』
 聞こえてきたのは、ブッ殺してやると誓った相手の声だった。
「てめぇ……!? 何で俺の携帯の番号……っ!!? アイツはどうした!? てめぇ八戒に何をしやがった!!? 」
 悟浄は怒鳴った。眼前にいけすかない三蔵の姿がありありと見えるような気がした。
『八戒のアパートの近くに公園がある』
 悟浄の質問を無視して、三蔵は淡々とした口調で言った。
『そこまで来い』
 ただ、ひとことそう告げると、金の髪の男は電話を切った。





 悟浄はホテルを出ると、走った。八戒のアパートまで、そう遠くない距離だ。
「クッソ、あの陰険金髪ハゲ! 」
 悟浄は全力で大通りを駆け、荒い呼吸の合間にひとり呟いた。
「ブッ殺す。俺の八戒に絶対なんかしやがった。ギタギタのけちょんけちょんにして……」
 朝の冷気でまだ固いアスファルトを蹴り、飛ぶように走った。
 商店街のアーケードや大きな百貨店が途切れ、辺りはマンションや一般の住居が立ち並ぶ住宅 地に様相を変えた。
「公園って……こっちか? 」
 八戒のアパートへは途中まで一緒に来たことがある。あのときの記憶が正しければ、公園はこのあたりにあるはずだった。
 悟浄の記憶どおりだった。あっという間に日本全国どこにでもよくあるタイプの公園が見えてきた。
 緑の木々でうっそうと取り囲まれている。近づいて柵を乗り越えた。ご立派な入り口があることはあったが、時間が惜しかった。
 中は舗装されておらず、綺麗に整地された土の地面で、そこそこ広い敷地の中にシーソーやブランコといった遊具がぽつんぽつんと置かれている。
「来たぞハゲ! どこだ」
 悟浄は誰もいない公園で叫んだ。既にジャングルジムのつくる影は濃かった。今日も暑くなりそうだった。
「誰がハゲだ。ゴキブリが」
苛立った声が、公園に響いた。
 反対側の入り口から、人がやってくるのが見えた。布にくるんだ大きなものを抱えている。
 三蔵だ。
 早朝の日の光を浴びて、金の髪が輝く。
 彼はゆっくりと悟浄に近づいてきた。むっつりと不機嫌そうな顔をしている。
 悟浄の顔を見た途端、機嫌が悪くなったとでもいう様子だった。三蔵が近くまで来ると、その腕の中に抱えたものの正体が分かった。
 シーツに包まれた八戒だった。白いシーツに包まれた顔は、ひどく蒼ざめていた。
 唇には血の気がなく、綺麗な黒髪が額や目にかかっている。先ほどまで泣いていたのか、閉じられている目元は赤かった。
「三蔵てめぇ……」
「受け取れ」
 三蔵は、悟浄に答えず、八戒の躰を悟浄へ差し出した。
「っとと! 」
 悟浄は慌てて手を出した。八戒は気を失っているらしい。状況が飲み込めなかったが、それでも 八戒が最優先だ。
 とりあえず、三蔵の腕から八戒を奪うようにして、痩躯を抱き締める。
「八戒! 」
 悟浄の顔に喜色が走った。八戒の顔へそっと手をかざした。
 息はあるし、体温は暖かい。ほっと悟浄は安堵のあまりため息をついた。
「一発殴らせろ」
 安心のあまり頬を緩ませている悟浄へ 三蔵は唐突に低い声で言った。
「……は!? 」
 聞き返す間もなく、突然悟浄の左頬に衝撃が走った。あまりの勢いによろけて倒れそうになる。何度か片足でたたらを踏み、膝を折りかけた。
 しかし、八戒を抱き抱えていた為、根性で何とか踏ん張った。
 唐突すぎて歯を食いしばる余裕さえ無かった。口中に鉄の味が広がる。
「……ってぇ! ざっけんな! 何で俺が殴られなきゃならねーんだよッ」
「全然足りないくらいだ。感謝しろ」
「んだとぉ……ッ てめぇ八戒に……! 」
 悟浄はふざけたことを抜かす相手をもの凄い目つきで睨みつけ、血の混じった唾を吐いた。
 八戒さえいなければ、飛び掛って殴り返しているだろう。
 そのとき、
「ぅ……ん……」
 腕の中の八戒が目を覚ました。
「八戒っ……! 」
「ご……じょ……? どうして」
 かすれて、思う様に声が出ないらしい。
「八戒! 八戒! すっげぇ心配した。どこ行ってたんだよ、もー」
 悟浄は再び八戒をきつく抱き締めた。八戒は目を丸くしている。状況が飲み込めないらしい。
 分かるのは、大切な悟浄が目の前にいて、自分の無事を我がことのように喜んでくれている。それだけだった。
 三蔵は再会を喜ぶふたりに背を向けた。悟浄と八戒は相思相愛ならではの、暖かい蜜に似た甘い雰囲気の中、いつまでも抱き合っている。

 天から降り注ぐ光線は眩しかった。今日も暑くなるのだろう。蝉が鳴き始めている。三蔵の足元にできる影も濃く強烈だった。
 何歩か進み、公園の出口のところで、金の髪の男はふと足を止めた。
 ゆっくりと振り返った。

 その紫色の瞳に映ったのは、かつて薔薇の花壇のところで見た八戒の綺麗な笑顔だった。
 悟浄だけに向けられる、やさしい微笑。

――――三蔵が欲しくて、自分に向けて欲しくてたまらなかった、心の底からの微笑みだった。
 三蔵はそれを見て、微笑んだ。多少、苦しげだったが、憑き物が落ちたような表情だった。
 確かに八戒の言う通りだった。この男はどこまでも誇り高いのだ。
 一時、迷うことはあっても、自分を完全に失うことなどない。
(許して下さい三蔵)
 昨夜聞いた八戒の言葉がその耳に甦る。苦しげな声だった。許すもなにもないと三蔵は思った。
 いまだに、彼の躰には自分の何かが染み付いて離れないはずだとも思っている。
 しかし、
「しょうがねぇ。本当に秘密にしておいてやる」
 そう呟く整った唇が綺麗な弧を描いた。
「オマエの幸せを守ってやる」
 そんなことしかできんがな、と三蔵は小声で呟いた。
 彼は再び歩き出した。やがてその後ろ姿は完全に見えなくなった。

 もう、蛇の囁きはその耳に聞こえない。


 了