静まり返った閉架図書室の本棚の狭間で、八戒は荒い息を吐いていた。
壁を背にして冷たい床の上に座り込み、醜い玩具が肉筒を淫らな動きで暴れ回るのに耐えている。
「う……」
唇を噛み締め、仰け反った。このまま、閉舘まで放置されたら、気が狂ってしまうに違いない。
三蔵のしているのは――――八戒の誇りや自尊心を嫌というほど痛めつけ、泥に塗れさせてズタズタに引き裂く――――そういう行為だった。
そう、三蔵の行為には復讐的な暗いものが常に含まれていた。金の髪の鬼畜はプライドが傷つき、代償を必要としているのだ。
八戒にはそんなことは分からなかった。震える手で、なんとか傍の棚をつかみ、必死で立とうとしている。その頭の中は悟浄のことでいっぱいだった。こんな状態では、悟浄に会うことなどできるわけがなかった。
躰の向きを変えると、瞬間、粘膜を貪るローターの感覚が薄らぐ。
しかし、それもしばらくの間だけだ。うなり、しなるシリコンの蠢きにじわじわと全神経がもっていかれ、躰を折って快感に喘ぎ狂うしかなくなる。
八戒は快楽とも苦痛とも分からぬ汗に額を滲ませながら、悟浄とのことばかりを考えた。
昨日、自分が言った言葉を反芻する 『明日のお昼、いつもの食堂に持っていきますから』 確かに八戒はそう言ってしまった。
悟浄は当然覚えているに違いない。三時限目が終わって食堂に駆けつける悟浄の姿が目に浮かぶようだった。
悟浄は、いつもの定位置のテーブルに、八戒がいないのを見てがっかりし、まだ仕事が終わってないのだと思うだろう。それから――――。
悟浄の行動を想像して、八戒はぞっとした。
彼は、ここまで来るに違いない。図書館に来るに違いない。そう、きっと来る。心配して、あの長い脚で構内を駆け抜けてここまでやって来る。
「…………ッ! 」
八戒はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。淫らな玩具に苛まれているために、その頬が紅潮し、目は潤んでいる。油断すると唇が解け、甘い嬌声を上げてしまいそうだった。
それでも、
なんとかしなければ、と思った。なんとか悟浄に会わずにすませなければ、とただそれだけを思い詰めた。一瞬、悲愴な決意の色が緑の瞳に滲んだ。
「ッ……はぁ……」
いうことをきかない躰を引きずるようにして、八戒は閉架と地上を繋ぐ階段へと足を向けた。なんとしても、悟浄と会うわけにはいかなかった。
なんで、三蔵がこんなことをするのか、このとき八戒は全く理解できないでいた。
よろよろとした足どりで、大学の構内を歩く。ナカで震えるローターのせいで歩きにくい。
濃い緑の植え込みに身を寄せ、隠れるようにして進んだ。幸い、まだ三時限目は終わってないせいか行き交うひとも少ない。
「く……」
凄まじい快楽の波が、神経を底からさらってゆく。
立っていられなくなって、八戒は思わず、街路樹へ手を伸ばした。長い指で細い枝をつかむ。内部で狂おしく動き回る玩具の動きが、少しは紛れる気がした。
「はぁ……はっ……ぁ」
肩で息をし、首を横に振った。ぞくぞくとした悦楽の痺れが腰奥へと集中し、何も考えられなくなる。
「う……」
なんとか耐え切ると、八戒は両足をすりあわせた。空は澄み渡った青空だというのに、白昼堂々こんな淫猥な行為で縛められているのが信じられなかった。
「ん……」
額に一筋汗が流れた。拷問に似た淫靡な感覚に身を焼かれながら、ひたすら学生食堂へ向った。
足元の影が濃い。正午になれば、途中で切り上げになる講義も多い。急がなくてはならなかった。
八戒は腕に抱えるようにして、古文の辞書を持っていた。悟浄との待ち合わせをしているテーブルに、置いてこようと思っていた。辞書に、一筆、都合が悪くなったことをメモにでもして添えれば、それ以上不審に思われることもないと判断したのだった。
そのためには、悟浄の講義が終わる前に、そう、悟浄に顔を合わせないようにして置いてこなくてはいけない。八戒は必死だった。
「く……ぅ」
惑乱する蠢きに煽られ、前が硬くなり頭をもたげてくる。
しかし、無情にも根元で縛られてしまい、達することは許されない。
これはひとつの刑罰だった。
既に拷問の一種だった。
前屈みになって、覚束ない足取りで歩く様子は、具合が悪いのかと錯覚されそうだった。身につけたエプロンが躰の線を覆い、淫らな刑罰を受けている真っ最中だということをうまい具合に隠してくれていた。
八戒の受けているのは卑猥な罰だった。尻に遠隔操作型のローターを突っ込まれた上、性器を根元で縛られ放置されているのだ。
誰かに悟られたら全てが終りだった。それこそ、いい物笑いの種だ。
きっと、教授も学生も職員も、八戒のことを色眼鏡で見るようになるに違いない。
あんなに清潔そうな顔をして、聖域である大学の構内で職員の癖に淫らな自慰に耽っている。そう思われるに違いない。免職になりかねない醜聞だった。
喘ぐようにして、八戒は学生食堂の入っている棟までたどり着いた。
「ん……ッ」
粘膜の間で震えるおぞましいローターの動きがうとましかった。我知らず、ぶるぶると背を震わせながら、八戒はそっと顔を上げた。
古びた鉄筋コンクリートの建物が目に入る。白く光るガラス窓は天井まであって大きい。八戒は無意識にいつもの悟浄との特等席へ目を向けた。
目に映ったのは、信じられない光景だった。
華やかな悟浄の赤い髪が、学食の窓越しに見えた。
「! 」
八戒は顔を引き攣らせた。あってはいけないことだった。予想外のことだった。
赤い髪の人物は、うつむいていた顔を上げ、窓越しに八戒の方をまともに見た。その表情がぱっと明るくなり、軽く片手を上げて、顔の横で左右に振っているのが見えた。
早く来い。悟浄の表情はそう言っていた。
一瞬、八戒は何も考えられなくなった。こんなことはあってはならないことだった。
身の破滅だった。自分は破滅でいいが、悟浄に自分が受けている非道な行為の数々を知られるのが嫌だった。悟浄との楽しかったことまで、汚れるような気がした。悟浄自身を汚れた自分で汚してしまうと思った。
八戒は食堂の建物に背を向けた。もう、こうなっては逃げるしかなかった。
恐ろしくて、後ろは振り向けなかった。いうことを聞かない足をなんとか動かし、逃げようと役立たずな躰を引きずった。
気の早い、今年一番のセミがすぐ傍の木に留って鳴きだしたのも耳に入らなかった。がくがくと膝が 痙攣する。腿が甘い疼きにひっぱられて動きにくい。
「八戒! 」
後ろから聞き覚えのあり過ぎる明るい声がした。
振り返りたくなかった。
振り返ったら、もう、そこでなにもかもが終りだと思った。明るい世界は粉々に崩れ、そして八戒は何もかも失うのだ。
「八戒っ! 八戒ってば! 」
ただでさえ歩幅の長い脚を操って、悟浄が駆けてきた。学食の階段を二段飛ばしに駆け下りて、駐輪止めの柵を軽々とまたぎ越した。レンガ敷きの舗道を蹴って、弾むような足どりで駆けてくる。
「八戒! 待てって! 」
悟浄の足元で勢いよく敷石が音を立てる、八戒との距離はあっという間に縮まった。
「俺、三限、休講になってさ。早めに学食に来てて……」
八戒の後を追いながら、悟浄は弁解するかのように、叫んだ。八戒は自分の運の悪さが恨めしかった。
「八戒っ! 八戒っ逃げんな! 」
声はもう、すぐ後ろで聞こえた。もう、逃げ切れないとさすがに思ったとき、強い力で腕を無造作につかまれた。万事休すだった。
「八戒! 」
悟浄は八戒の腕をとって、引きとめ、躰を自分の方へと向けさせた。何がなんだか分からない。その男っぽい顔立ちにそうくっきりと書いてある。
「どーしたの。なんなワケ。俺の顔みて逃げんなよ。気になるじゃん! 」
やや上がった息もなんのその。一気に悟浄は言った。必死だった。
「悟浄……」
やっとの思いで、八戒は言葉を絞りだした。この間も、ローターはみだらに回転し続けている。
「辞書……貸そうと……し……て」
唇を解くと甘い声を漏らしてしまいそうだった。一語、一語、必死の思いで八戒は喋った。なんとかして、悟浄に気取られないようにしなければならなかった。
「…………」
悟浄は一瞬、目を眇めるようにして、八戒を見た。それは記憶の箱の中から、似たような光景を探し当てようとしている目つきだった。
八戒は地を踏んでいる心地もしなかった。脚はがくがくと震えた。立っていられなかった。もう、限界だった。
「八戒」
悟浄の目が、納得したような光りを帯びた。今の八戒に近いものを見た経験がこの男にはあったらしい。声は穏やかだったが、どこか有無を言わさぬ迫力がこもっていた。
八戒はこんな悟浄の表情ははじめて見ると思った。まだ若いのに、如才のないそれは世間知に長けた大人の男の顔だった。
「こっち」
悟浄は八戒の腕を引いた。そのまま、腕に抱えて強引に引きずっていこうとする。
「悟……悟浄! 」
どこへ、連れていこうというのか、相手の意図も分からず、八戒が戸惑って逃げようと躰をひねる。
「ああ、悪ィ。そりゃ、もう歩けねぇよな」
赤毛の男はそう言うと、ひょいと八戒の躰を抱え上げた。左腕を八戒の膝裏へ回し、右腕で八戒の背を支えて抱き上げる。
「悟……悟浄っ」
「走った方がいい? だったら、悪いけど首にしがみついてくんねぇ? 」
「悟浄っ」
悟浄は、八戒を抱えて構内を更に走った。
「歪んだ薔薇 第2部(14)」に続く