歪んだ薔薇 第2部(11)

 八戒はこの日、蔵書の整理に追われていた。
 嘘ではなかった。最近、貸し出しが多く不備がでてきていたのだ。
 もちろん、悟浄との約束を無視したのは、それだけが理由ではなかった。
 首筋を隠すように襟を立て、こんな陽気だというのに、長袖を着ている。図書館はクーラーが効いているとはいっても、やはりその服装は不自然だった。
――――オマエがつけたんだろうが。
 八戒は昨夜の三蔵の言葉を思い出していた。
――――最近はちゃんと……締めるだけじゃなくて。緩めることもできるようになったしな。
 覚えがなかった。自分の躰がそんな忌まわしいことをしているなんて自覚がなかった。
――――最近は、きちんと……どんな感じか俺に教えてくれるじゃねぇか。……それも覚えてねぇのか。
 低い低音の声が耳元で甦る。めずらしく甘い口調であの男は囁いたのだ。
 八戒は、三蔵に抱かれている間、意識があやふやになることがあった。忘我の極みに達すると、白い闇のようなものに精神が侵食され、なにもかもが消え失せてしまう。
 そんな状態のときの自分が一体何をしているのか、いままで気にしていなかったが、三蔵の言葉が本当なら自分は唾棄すべきおぞましい人間だと思った。
 犯されて、悦んでいる。
 娼婦以下の存在だ。
 八戒は悲痛な表情で、眉間に皺を寄せ、ため息をついた。とてもこれでは悟浄に合わせる顔などなかった。
 悟浄とのことだけは、綺麗なままでとっておきたかった。
 彼だけは汚したくなかった。
 午前中、単純業務にかかりきりになっていたので、お昼を過ぎ人も少なくなると、周囲を見渡し、そっと外へ抜け出した。
 夏の強烈な日差しが、部屋の中にいた目に眩しい。今日は、いつものように学食へも足を向けず、ずっと館内にいたのだ。
 玄関先で息をつき、そっと隣の植え込みを見ると、育てている薔薇の一群があった。
 剪定しなくてはいけないのに、しそびれて、全体として疲れた気配が、葉にも茎にも滲んでいた。ときおり、病気にでも侵されたのか、黒色の斑点を纏った葉も見られ、無残な感じだった。
 まるで、八戒の心のようだった。手を入れている庭木というのは正直なものだ。ごまかしがきかない。
 八戒はため息をつくと、木でできた垣根の隙間を通り抜け、花壇の奥へと足を進めようとした。奥の方の荒れようが、また一段とひどいように見えたのだ。
 すると、その時。
 背後から大きな声に呼び止められた。
「八戒! 」
 ぎょっとして振り向くと、悟浄が駆けてくるのが見えた。
 奥へ隠れようとしたが、遅かった。逃げようにも、薔薇と図書館の本館の壁に挟まれ、とっさには逃げられない。
「いた! よかった」
 息せき切って、木の杭でできた垣根を乗り越えてくる。その姿を見て、八戒は慌てた。とても今は悟浄にあわせる顔がなかった。
「…悟浄…っ!どうして…!? 」
 真っ直ぐ向けられる視線を受けとめることもできなかった。しかし、大股で相手は歩いてくる。もう、避けようがなかった。
「や、ナンカ今日、八戒こなかったから。ハイこれ」
 悟浄は戸惑う八戒にかまわず、傍へ近寄ってきた。八戒はあまり悟浄に近づきたくはなくて、顔をそむけた。
 昨夜、一緒に過ごした三蔵の残り香に気がつかれてしまいそうだと思ったのだ。毎晩、他の男と同衾している汚れた自分などに、近寄ってほしくなかった。
 しかし、そんな八戒の心境など、悟浄は知らない。八戒の両手を無造作につかむと、腕に抱えていたものを渡した。
「ハイ」
 八戒は手渡されたものを見て目を丸くした。
「これって」
 白い錠剤がたくさん入った茶色の遮光瓶に、効用がでかでかと太い字で書かれた薬の紙箱だった。
「えーと、こっちの瓶が腹痛のときので、こっちの箱が風邪用の総合感冒薬。で、こっちが葛根湯で」
「悟、悟浄」
 首を傾げる八戒にかまわず、悟浄が説明する。
「やー。テニス部の部室から借りたんだけどよ。ホント汚ねー部屋なのよ。しかも、打ち身とか捻挫とかの湿布ばっかでさー。こんなのしかなかった」
「ど、どうして、こんな」
「ん? だって今日、昼メシ食いにこなかったじゃん。きっと調子、悪いんだと思って」
 悟浄の言葉に、初めて八戒は顔を上げた。視線の先で、赤い目が微笑んでいる。
 精悍な顔立ち、凛々しく弧を描き表情豊かに跳ねる眉、不良っぽい雰囲気を強調する頬の傷、長く艶のある赤い髪。ちょっと悪そうで、その癖とても優しい。
 そんな悟浄に見つめられると八戒はとても弱かった。
「……ありがとう。悟浄」
 八戒は手に大量の薬の瓶やら箱やらを抱えたまま、礼を言った。悟浄の優しさが身に沁みた。
「でも、大丈夫です」
 先ほどまで頭の中を支配していた暗い考えや自己侮蔑の思いが、悟浄と会うと霧散してしまっていた。
 深い自己卑下も、悟浄の強さや健全さに触れると、中和されて消えてゆく。全く、いまや悟浄は八戒の精神安定剤に等しかった。
「大丈夫? ふーん」
 悟浄は、八戒の顔にひろがった柔らかい笑顔を食いいるように見つめていた。水不足で萎れていたつぼみが、精気を取り戻して咲いたようだった。
「なら」
 悟浄の目の奥に、悪戯っぽい色が浮かんだ。
「昼メシ、ドタキャンした埋め合わせ、今してよ」
 にやりと唇が歪む。性的魅力たっぷりの大きな口が、八戒の耳元へ寄せられた。
「……キスして。八戒から」
 色気のある低音の声が媚薬のような艶を含んだ。
「えっ……」
 八戒はびくりと躰を震わせ、反射的に逃れようとして身をひるがえす。
 しかし、既に遅かった。眼前の悟浄は、壁に両手をついて八戒を押さえつけ、顔を近づけた。
 八戒の視界の中で、紅色の瞳が大写しになり、屈んだついでに長い緋色の髪がさらさらと靡いた。
 夏を迎えて緑の濃さを増す花壇の茂みが風に揺れる様子が、悟浄の肩越しに八戒の視界をかすめる。
「八戒からキスしてくれたこと。今までないもん」
 告げられる言葉に赤面した。寄せられている唇をそっと盗み見た。恥ずかしかった。
 それに、怖くもあった。大切な悟浄に自分などが触れていいものか、どこかで責める声が内部からした。彼を汚すようなことはしたくない。したくはない。けれど気持ちは抑えることができない。
 八戒は悟浄の気持ちがうれしかった。自分を責めるでもなく、心配してこうやって来てくれる。病気なんじゃないかと思い込んで、薬までもって駆けつけてくれた。
 そんな真っ直ぐな好意が心に沁みて痛い。返すべきものも、誠意も何も持ち合わせていない、自分自身が不甲斐なく情けなくて悔しかった。
 でも。
 そんな、自分のくちづけが欲しいと悟浄本人が言っている。
「仕事中なのに……」
「八戒」
 逃げ口上を言おうとして阻まれた。腕から薬の箱や瓶がこぼれて足元に落ちる。
 八戒は諦めたように、その傷のある頬に手を添えた。三蔵とのことが胸をよぎり、背徳感とも罪悪感ともつかぬ感情が押し寄せてくる。
 それでも八戒は決心したように、目を軽く閉じた。
 秘密は、地獄の底まで自分ひとりで背負ってもってゆけばいい。悟浄さえ巻き添えにしなければいい。
 瞬間そんな考えが胸をよぎり、悟浄へ顔を近づけ、八戒は自分の唇を――――重ねた。
 そっと、触れるだけのキスだった。
 大切なものを慈しむために、祝福を与えるかのような、優しいくちづけ。胸の鼓動の高鳴りが、そのまま悟浄に伝わってしまいそうだった。
「ん……」
 気がつくと、緊張からか悟浄のシャツを硬く握り締めていた。八戒の閉じたまぶたの縁でまつげが震えている。
 最初と変わらぬ柔らかさで、八戒は唇を離した。
「も……」
 もう、息ができないとばかりに、ため息をつくと、照れたように八戒は悟浄の肩先に顔を埋めた。悟浄の顔がまともに見れなかったのだ。
 茶色のシャツの布地に、八戒の黒髪が触れて、さらさらと音を立てた。
「……八戒」
 悟浄の声には深い喜びが滲んでいた。
 彼は腕の中の八戒を壊れ物でも扱う手つきで、そっと抱き締めた。





 薔薇の花壇の陰にいる悟浄と八戒は気がついていなかった。
 ちょうど、その時。花壇の向こうではひとすじの紫煙が立ち昇っていた。
 煙草は、火を点けたものの吸うことも忘れてしまったらしく、吸殻が灰になって次々に地面に落ちてゆく。
 煙草を持つ手はかすかに震えている。やや骨ばってはいるが、長い指を持つ美しい男の手だ。
 それはある意味完璧な造形を持つ手だった。完璧な手は当然のごとく完璧な輪郭を持つ腕へ繋がり、それは完璧な胴へ、首へ、顔へと続いていた。
 その白皙の、美貌とよぶより他のない整った顔はすっかり強張ってしまっていた。男性的な弧を描く凛々しい眉を顰め、目にかかる長めの前髪越しに紫色の双眸が覗く。すっきりと通った鼻筋に、やや大きめの肉厚な唇。耳を隠すように金の髪が覆い、長い襟足が肩先で風にそよいでいる。
 三蔵だった。
 この男は不幸にも、ちょうど館内の整理を終わらせて、外へ一服しに出たところだったのだ。
 八戒が、初々しい仕草で悟浄の頬へ手を添えるのを、この男は信じられない思いで見つめていた。
 ふたりの会話こそ聞こえぬものの、明らかに悟浄の無理強いではなかった。
 三蔵は八戒の頬が、少々照れたように赤らみ、指がぎこちない動きで男の肩を引き寄せるのを見てしまったのだ。
 瞬間、三蔵は息が詰まりそうになった。ふたりの間へ入っていって、その行為を止めることすらできなかった。彼に許されたのは、ただ傍観者としての位置だけだった。
 これは裏切りだった。
 夜、八戒は段々と従順になり三蔵の躰に馴染むようになっていた。足を三蔵の体躯に絡めてねだることすらあるというのに、あの黒髪の男は心の中で他の男と姦淫しているのだった。
 閨の中で自分を呼ぶ甘い声に、三蔵はいつの間にか求められている悦びを密かに味わっていた。
 それなのに、八戒の心はひたすら悟浄へと向けられているのだ。
 そうとしか思えなかった。
 三蔵はぎりぎりと歯ぎしりをした。もともとが、これ以上ないほどに整った顔立ちのため、内面の怒りが表面へ浮き出ると、見る人の背中を寒くさせるような凄みがあった。
 三蔵の自意識が痛みとともにひび割れ、たちまち紅蓮の炎に身が包まれる。
 八戒が悟浄のことを憎からず思っていることは重々承知していたものの、こうまではっきりと自分との差を見せつけられるとは思わなかったのだ。
 血まみれになった誇りや地に落ちた自尊心とともに三蔵は這いつくばってのたうちまわる。
 ひび割れて瘴気を帯びた自意識の、底の底にある暗い「井戸」のふたが開く。井戸の中には腐った血の色をした蛇がいて、三蔵に囁いた。
 あのままにしておくのかと。あのふたりをあのままにしておいていいのかと。
 目の眩む業火に焼かれながら、三蔵は内なる声へうっかり耳を傾ける。声は囁き続けている。
 あの黒髪の男の認識は間違っている。そうだろう、玄奘三蔵。お前よりもあのふざけた赤毛の男の方がいいなんていう人間など間違っている。
 蛇はなおも囁き続けている。
 生かしておいていいのか。お前を否定する存在など、許しておけるのか。
 いつの間にか、身を包んでいた炎はその激しさを増し、ごうごうと燃え盛り、ついには臨界に達して蒼白くなった。
 三蔵の意識はそんな炎にあぶられながらもどこかが冷えていた。炎というものは、周辺よりも中心になればなるほど温度が低いがそれに似ている。
 三蔵は痛んだ心をひきずりながら唸り、心の声に応えた。
 確かに八戒は間違っている。絶対に間違っている。俺よりもあんな――――。
 理性をかすかに含む、表層に浮かんだ意識は、より深い自意識によって寸断され、たちまち血の咆哮を聞くこととなった。
 そうだ、許すな。お前があんな軽薄な男に負ける筈がないではないか。お前の価値を認めず、裁くものの存在を許すな。もし、そんなものがいれば、無理やりにでも考えを改めさせろ。
 さもなくば――――蛇は更に言った。呪わしい声だった。
 そんな存在は消せ。
 ふたつに裂けた舌を臭い息とともに伸ばしたり引っ込めたりしつつ、ぬめぬめと光る不快な皮膚を光らせて、三蔵の心に毒を垂らした。
 聖書に名高いサロメも、この蛇の言葉をまともに聞いたことだろう。自分に一瞥もよこさぬ美しい予言者に対して彼女も独り呟いたに違いない。
 許さない、と。この自分をないがしろにし、興味を示さぬものなど断じて許さない、と。そんな存在はこの世から葬り去ってやる、その首をよこせと。
 今の三蔵も同じだった。三蔵が八戒のことを思えば思うほど、その恨みは深くなった。八戒のことを大事に思い、彼のことが全てになればなるほど、知らないうちに八戒の価値観、八戒の判断、八戒の好悪の念に重きを置かざるを得なくなっていった。
 彼の価値観が全てになってゆき、彼の価値観を軸にして全てが回転する。
 しかも、それほどに大切な八戒の価値観でいうと、三蔵は悟浄に劣るのだった。意中のひとの心は自分にはない。全く軽視されている、そうまるで道に転がるゴミのように。
 そんなことは許さない。そう、そんなことは到底誇り高い三蔵にとって許せるような種類のものではなかった。
 血を吐くような思いで歯ぎしりをすると、暗い熱情を帯びた紫の瞳を大きく見開いた。
 怒りで目が眩み何もかもが視界の隅で白く蒸発してゆく。
「許さねぇぞ。てめぇ」
 三蔵はそう呟くと、指の先でとっくに消し炭になっている煙草を投げ捨て、苛々しながら足裏でもみ消した。舌打ちをひとつすると、図書館へ戻るために、きびすを返した。
 今、八戒に会えば、激情のまま何をしてしまうか分からなかったのだ。自動ドアが静かに閉じ、三蔵はクーラーの冷気漂う館内の人となった。
 しかし、その身を焦がす業火の炎が収まることは当分なさそうだった。





 そんなことも知らず、悟浄と八戒はふたりきりで幸福そうに見つめあっていた。
 おずおずと八戒が悟浄の背へ回していた手を下ろそうとする。その手が離れようとする瞬間、悟浄はつかんでもう一度自分へと引き寄せた。
 そのまま、続けようとする行為を、八戒は目で制した。仕事中だから、もう今日はここまでと、その律儀な顔に書いてある。
 悟浄は口を尖らせ、諦めたように唇をへの字に曲げ、おもむろに口を開いた。
「じゃ、今度、古文でおすすめの辞書があったら教えてくんねぇ? 」
 それはどちらかというと、八戒とこうして一緒にいる場を引き伸ばそうという口実に近かった。
「いいですけど……さては、あの後輩さん達の課題、まだやってあげてるんですね」
 八戒は、悟浄の意図に気がついているのか、いないのか、首を傾げて微笑んだ。さりげなく腰に回されていた悟浄の腕を解く。
「しかたねーっしょ。引き受けちまったしさぁ。バカだよなー俺も」
 名残惜しいというように、引き剥がされた手をひらひらさせながら、河童は苦笑した。
「いいですよ。明日のお昼、いつもの食堂に僕、持っていきますから」
 八戒は笑顔で承知した。悟浄に触れた唇にそっと指を走らせる。甘美な思いが身のうちを駆け巡った。ひどく幸福だった。

 そして、
 不思議なことに、その日、夜になっても三蔵は来なかった。



「歪んだ薔薇 第2部(12)」に続く