歪んだ薔薇 第2部(10)

 国立大の夏は暑い。
「暑い! もう夏かよ! 」
 研究室の学生が古ぼけた講義棟の一室に集まりだしていた。院生も学部生もなごやかに挨拶をかわしている。当然皆、顔見知りなのだ。
 少人数のゼミなので、こじんまりとした教室があてがわれていた。お互いの顔を見ながら話し合いができるように、横に長い机がつながりあい、コの字の形に配置されている。アットホームな雰囲気だった。
「梅雨明けですかね。もう」
 既に席についている学生が、プラスチック製の下敷きで顔を仰ぎながら、挨拶がてら苦笑する。
「クーラーってモンがないのかイマドキ。ホント―に狂ってるよな」
 パイプ式の椅子を手で引き、腰かけながら相手が返事をする。
「言ってても相当むなしいから止めましょうよ」
 この大学の講義棟は、二百年経っても壊れないように設計されている。建立年月日が戦前という、歴史のある建物特有の頑丈さだ。
 たとえ一トン爆弾を投下されても大丈夫なように、これ以上ないくらい強固につくられているのだ。壁はほとんど岩でできているに等しく、クーラーを取り付けるための穴など、開けたくっても開けられない。
「ちゃーす」
『こんにちは』 を極限まで省力化した言語を使用しながら、院生達も部屋へ入ってきた。
 素足にサンダル履きという格好で、手に手にバケツを持参している。
「暑い」
「ああ暑い」
 口々に呟くと、自分達の席の床へバケツを置いた。バケツにはなみなみと水が入っている。
 そこへ、すかさず足を突っ込んだ。不似合いな水音が教室内に立つ。
「あー涼しい」
「少しは紛れるな」
 学部で四年、大学院で二年、こんな大学に六年近くもいるため、流石にこうした気温のときの処し方を院生達はよく知っているのだ。
 蛮カラというものが中高一貫の男子校時から基本カラーである彼らにとっては、自然な涼の取り方だった。
 しかし、見苦しい涼の取り方ではあった。めくり上げたズボンの隙間の肌から、バケツの水に濡れたスネ毛が見える。
 本人達はこんなむさ苦しい受講態度も、地球に優しくエコロジカルであると教授相手に強弁する始末だ。
 とはいえ、肝心の教授連中だって、自分が学生だったころを思い出すと、北の大学出身なら研究室の三階から奇声とともに飛び降りて雪に埋まり、都心の大学出身なら酔って三四郎池に飛び込み、関西の大学出身なら、かくし芸として鼻からピーナッツを飛ばすのを競うなど、おおよそろくなことをしていないので、強い反論などしたくともできなかった。
「でも、女のコならともかく男の足とかは見たくねー。うぜぇ、お前らこっちくんなよ。よけい暑ちィってんだ。な、悟浄」
 バケツ組ではない院生のひとりが、隣の席に座っている悟浄に同意を求めた。
 しかし、返答はない。
「悟浄? 」
 重ねて呼んでも返事はなかった。
 そう、赤い髪の男は、様子が変だった。完全に意気消沈といったふうで、教室の横長の机に顔を伏せ、がっくりとうなだれている。
 大学院生というよりは、性悪なホストのお兄さんとでも紹介された方がしっくりくる雰囲気こそ、いつもどおりだったが、普段の不敵な笑顔やら、剽悍な様子などはどこにもなかった。
 お葬式みたいにひたすら暗い面持ちをしている。なんだか、とびきりの獲物をしとめそこなった猟犬みたいだった。
「あー。悟浄先輩にはかまわない方がいいッスよ」
「そうそう」
 後輩の学部生が数人、わけ知り顔で横から口を挟んだ。
「とうとう、八戒さんにふられちゃったんです。悟浄さんってば」
 無神経な口が軽く言うのを聞いて、悟浄は顔を上げた。
「俺はふられてねぇよ。バーカ! 」
 悲しみを振り切るかのごとく大声で怒鳴った。怖いくらいに目が真剣だ。
「だって八戒さん、今日は学食に来なかったじゃないですか」
「そうそう」
 そんな悟浄を痛ましいものでも見る目つきで、後輩どもは肯きあっている。
 周囲の連中は、この男が美形司書と、毎日食堂で逢引きしているのを当然、知っていた。
 男比率のやたら高いこの大学で、美人もなにもあるもんかよと大学祭の女王に興ざめしている連中ですら、八戒には讃美の視線を送っていた。そう、八戒は大学のアイドルだった。
 羨ましがりながら、あるいは嫉みながら、皆で悟浄の恋の行方をじっとりと見守っていたのだ。
「とうとう飽きられちゃったんですよ」
「そうそう。ストーカーっぽくてキモいとか思われちゃったんですよ。きっと」
 面白がって、みんな勝手なことを言っている。
「うっせぇ! 」
 悟浄は片眉をつりあげ、周囲の無責任な連中に向って、叫んだ。
「うるせぇ。……ナンカ事情があるんだ」
 語尾は弱々しい調子になった。
「きっと、新しい彼氏ができちゃったんですよ、八戒さん綺麗なんスから」
「八戒はそんなヤツじゃねぇ」
 無神経な声に、悟浄がぼそぼそと反論する。
「やっぱり男は金ですよね。悟浄。とか思ってたんですよ。本当は」
「そうそう。学生の悟浄なんかじゃ社会人の僕につりあいませんよとか内心、思ってたんですよ」
「昼ご飯ていどなら、悟浄のお相手をしてあげてもいいですよとかそんなノリだったんスよ」
 どこで覚えたのやら、口々に八戒の口調を真似て悟浄をからかってくる。
「だッかッらッ、八戒はそんなヤツじゃねぇっつてんだろ。バカ!! 面白がりやがって、てめぇら全員死ねよ! 」
 とうとう、悟浄は青筋を額に浮かべて席を立ち、周囲を睨んだ。瞬間、辺りが静まり返る。
「あーッ! もうッ! 」
 悟浄は目の前の机を両手で叩き、苛々と吠えた。口を開くものひとりいない教室に、残響がかすかに尾を引いた。
「やってられねぇ! 俺、ちょっと図書館行ってくるわ! 」
 逆上気味に悟浄は言った。赤い目は、とっくに据わっている。
「悟、悟浄」
「悟浄先輩」
 言い過ぎたかと気遣って集まってきた周囲を、悟浄は睨んだ。長居は無用とばかり、机上に置いてあったノート類を片付けはじめている。
「うっせえ! てめぇ、俺の代わりに今日のゼミの輪読、答えとけ! 」
 悟浄は最初に『ふられたんですよ』とかなんとかぬかした後輩を怒鳴りつけ、自分が翻訳して発表する番だった論文を投げつけた。十ページはあるアメリカの経済論文だ。
「ひえええ! 」
「ひでぇ! 」
 赤毛の先輩の暴挙に後輩達がうめく。
 悟浄は机の上に広げてあった筆記用具だの、ファイルだのを茶色のボディバッグにしまい終わると、隣の席の院生に言った。
「救急箱、あったら貸して」
 唐突な言葉だった。
「へ」
 頼まれた相手は目を丸くする。
「何に使うんだよ、そんなモン」
 怪訝な表情を浮かべる相手の顔も見ずに悟浄は呟いた。
「俺と昼メシも喰えねーなんて、八戒は病気に決まってる……腹痛とか、風邪とか」
 頬杖をついていた相手は、その言葉を聞いて隣の席でずっこけそうになっている。
「悟、悟浄」
「ってことで、腹痛の薬と風邪薬、くれ。下痢止めはいらねー。八戒に限って下痢なんかするわけがねーし」
 悟浄は真剣だった。真剣に八戒を心配している。マジだった。
「…………」
 相手は、座ったまま呆れ顔で天を仰ぐと、どうしたものかとため息をついた。
「しょうがねぇな」
 やがて、あきらめたように自分のカバンの中を探り、銀色の鍵をひとつ取り出した。
「コレ部室の鍵。俺はもう引退したけど、OBだから合鍵持ってんだ」
 にやりと笑った。
「救急箱ぐらい、どっかに転がってるだろ。今週、部のやつら遠征でいないけど勝手に探せよ」
「サンキュ! 」
 悟浄は礼を言って銀色の鍵を引っつかみ、弾丸みたいに教室から出て行った。





悟浄の動きは素早かった。
貸してもらった鍵は、男子テニスの部室の鍵だった。汚い部屋に文句をいいながら救急箱を探し回った後、図書館へ飛んで行った。



「歪んだ薔薇 第2部(11)」に続く