依存症(9)

 次第に、

 一睡もできない悟能の自意識や自己評価はだんだんと狂っていった。ただ、過去の忌まわしい記憶だけを思い出して精神が歪んでいった。
 
 広い寝台に横になっても若様はいない。ただただ時計の秒針が時を刻む音が無情に響くだけだ。苦しくて悟能はシーツの上で寝返りを打った。眠気はこなかった。昼夜は逆転し、夜になると過去の辛い記憶がよみがえり、悶々とした日々を過ごしていた。
 幼い頃の愛されなかった記憶に苦しめられていた。自分を捨てた母親は生きているのか死んでいるのか。生きているなら自分以外の誰と一緒にいるのか。要するにそいつの方が血を分けた自分よりも大切なのだ。

 死ねばいいそんな売女。

 考えだすと眠れなくなる。
 誰かに 「よしよし」 とやさしく抱きしめて欲しい。
『悟能、辛かったんですね。でも大丈夫もうそんなこと考えないで。我がずっとそばにいますよ』
 そう言っていつものように抱きしめて背中を撫でて欲しい。
『苦しかったんですね。よしよしいい子ですね悟能は。よしよし』
 赤ちゃんがされるように優しく背をさすられたい。悟能は悲痛な声で救い主の名前を呼んだ。
「一色さん」
 誰もいないと知りながら、豪奢な寝室で悲鳴じみた声をあげる。涙まじりの声だ。
「戻ってきて。お願い戻ってきて」
 賢くておとなびた天才少年。でもその精神は幼児の頃に亀裂をいれられたまま、いまだに癒えていない。
「見捨てないで。……僕が嫌いになったの? 」
 悟能は夜の間中、すすり泣くようにして泣き明かした。また不安で眠れなかった。やはり寝台に横になると矢が飛ぶうなりのような不思議な音がかすかに聞こえてきた。



 その次の日の午後。

 薄暗い城の闇の彼方から、ゆらぐようなささやきが聞こえてくる。異なる韻律の複数の声が重なるようにして廊下に満ちた。
 召使たちだった。心が弱っている悟能は寝室に引きこもって、なかなかでてこない。寝ていないので、日中ぼうっとしている。うつらうつらしているが完全には眠れない。
 そんな状態が何日も続いていた。喉が渇いて食堂へ湯をもらいに立つ以外は鬱々として寝台の上でずっとひざを抱えているのだ。
 そして、それは今日も同じだった。
 だるい身体を引きずるようにして食堂にはいると、悟能の望みを察したようにお湯の入ったポットとお茶の葉のセットがぽつんと豪奢なテーブルに置かれている。
 何を警戒しているのか、召使どもが用意するのはひどくぬるいお湯だ。留守中、若様の愛童にやけどでもさせたら、ひどく叱られると恐れおののいているのだろう。
 ぬるいお湯でも合うようにと、高級な茶葉が添えられている。標高の高い場所で産する武夷茶の一種だ。芳しい蘭の香りのする希少な品だ。悟能は不満そうにそれを手でしりぞけた。
 そのとき、
 不意に部屋の隅がゆらいだ。高雅な花の芳香がどこからともなくただよう。
 召使たちだった。その声音には戸惑いがあった。
「どうも飛竜が殿下からの……」
「しかし、途中で落としてしまったとな」
「誰か悟能様へ説明せんか」
 闇が口を得てささやきあっているような人間離れした声だった。誰が誰だか特徴もなく区別もつかない。ひとではないものが人間の言葉を無理にしゃべるときの怪しい音だ。孔雀の鳴く鋭い声が一瞬、響く。
 それでも、
「悟能様、申し上げてもよろしいでしょうか」
 闇が蠢きたちまち人の形をとると、うやうやしくひざまづき悟能の前で一礼した。
「悟能様、飛竜めが殿下からの手紙を持ってまいったようで」
 召使どもがおそるおそる報告するのを悟能は遮った。
「手紙? 」
「左様で。殿下から悟能様あてのお手紙です」
「ここへ持ってきてください」
「実は、それを飛竜めが……来る途中で落としてしまったようなのです」
 悟能は不眠のためにますます白くなった顔を苦しげに歪めた。
「どうせ、ろくでもない内容に決まっています」
 端麗さこそ変わらないが心痛でやつれている美しい顔。召使からさしだされたお茶に手も触れず、悟能は食堂を飛びだした。

 自分は捨てられたのだ。一色に。

 廊下を歩きながら悟能は愕然としていた。足音が廊下の石壁に跳ね返って不吉な音を立てる。想念が暗い方向へ落ち込んでゆくのを止められなかった。
 清一色からの手紙はもう城には戻らない、とかいう内容に違いない。悟能は不気味な城の長い廊下をよろよろと歩きながら考えていた。幼い頃、一色は悟能の前に突然現れた。だとすれば悟能の前から消えるのが突然でも全く不思議でないではないか。
 たとえ愛を手にいれたとしても、永遠に愛してもらえる保障などなにひとつない。一色の心を縛ることもできないのだ。
 昔、悟能の前に辻占いとして現れたように、またあの男は同じことをしているのかもしれない。そして、同じように自分のような境遇の子供を見つけて、今度はその子のことが気にいったのかもしれない。
 そう思うと狂いそうになった。思わず奥歯を噛み締めた。もう何日も眠れていない。憔悴しきった頭で考える思考はどこかが狂っていた。
 例えばこの顔がもっと醜くなっても一色は自分の傍にいてくれるだろうか? この目を抉りだし鼻を削いでも一色は自分の傍にいてくれるだろうか? 
 そんな想念に突然とりつかれた。それは発作的な衝動だった。
 無意識に刃物を探して、城中をさまよい歩く。
 ナイフ、包丁、カッター、はさみ。
 どれも、見つからなかった。一色が召使に言いつけて隠したのだ。
 死にたくなるほどの記憶から逃れるために自分で自分を傷つける。それは自己評価が低くなりがちな孤児や虐待を受けたひとが行うひどく悲しい行為だ。
 自傷行為には不思議な鎮痛効果がある。やれば自分を許せない気持ちが緩和される。自分の肉体から血が流れれば不思議に気が済む。
 だって、自分は現実に傷ついているのだから。ある程度、そう思えば気が静まるのだ。流れ出る血が何かを教えてくれる。心の傷を体の傷におきかえて、自分の身を切るのと同時に過去の記憶や辛い気持ちを切り捨てることができる。

 切りたいのに生きたい。
 死にたいのに生きたい。
 
 寝室へ戻ろうと廊下を歩く。そんな悟能の姿を召使たちは沈痛な面持ちで見つめていた。飛竜のやつが手紙をなくしたのがかえすがえす残念だった。
 おかげで若様の秘中の珠はすっかり気がふれたようになってしまっていた。あんなに聡明な少年だったのに殿下が城を留守にしたら、その姿を探して探して、探して探して。

 なんとしたこと、さみしいあまりに狂ってしまったのだ。

「飛竜よ、その背に若君を乗せてこい。殿下の手中の珠に瑕(きず)ができた。早くお帰りくださいとお伝えせよ」
 召使たちはそういって飛竜を本城へと早々に使いにだした。ひどく不吉な予感がした。
 
 
 悟能は寝室へ戻った。もう食堂へも寄らなかった。気鬱のため食欲が少しもなかったのだ。睡眠不足でやつれた顔をして豪奢な寝台に臥せっていた。
 日が傾き一刻一刻と暗くなってゆく。夕暮れもいいかげん進み、華麗な天蓋つきの寝台にも夜が訪れようとしていた。
 しかし幾ら待ってもいつもなら灯るろうそくの明かりはいつまでたってもつかなかった。
 悟能は暗くなってゆく寝室の中、さすがに不審に思い、いぶかしげな目つきで周囲を見渡した。

 かたん、とかすかな音が部屋の隅でした。花梨材でできた瀟洒な小机の上に、いつの間にか明かりが置かれていた。ぼうっと周囲を照らしだす。
 その明かりはいつものろうそくと違って揺らがない。明るさもいつもとはちがった。不思議に思って近づいて眺めると、それは電気仕立ての行灯だった。小さなランプだが電池で動いているらしい。電球が内蔵されて光り、きらきらとガラスの覆いをまとって輝いている。
 召使どもが火のついたランプを悟能へ渡すのを恐れて安全な電灯を見つけてきたのだ。悟能は寝台から這いおきると、ランプの載せられた小机へと近寄った。小机は窓の近く、重厚なカーテンのそばにおいてあった。
「僕もバカにされたものですね」
 情緒不安定な悟能少年は火つけでもやりかねないと思われたらしい。ひとしきり自嘲するとランプを手にして逆さにふった。留め金を外すと中から単三電池が飛び出してくる。悟能はそれを、華奢な小机の上へと載せた。
「火つけですか。確かにやりそうですかね僕は」
 自分を焼けたらどんなにいいだろう。一瞬、ひどく暗い想念に内側から喰らわれそうになった。自分を焼く。好みだとあの男が言ったこの顔を焼き、好きだとささやいた身体を焼く。それは暗い快感に思えた。
 運悪くも銀紙に包まれたチョコレートが目にはいった。外国製の高価なチョコレートだ。それは食欲のない悟能のために召使が運んだものだった。傍にとびきり上等のお茶が添えられている。青い小皿に載っていたそれを無造作に悟能はひっつかんだ。
 そして。
 あろうことかチョコを包んでいた銀紙を細く裂き糸のようにすると無造作にそのまま素手で電池へつないだのだ。プラスとマイナスを直につないだ。
 当然の結果になった。
 あっという間にショートして火がついた。
 短絡。オームの法則そのままの原理だ。

 指が熱いのもかまわずそれを使って部屋のカーテンへと火をつける。メラメラと音を立てて炎が燃え移った。自嘲しながら自分へもその火を向けた。この顔や姿が焼け爛れたらあの男はどうするだろう。悲しむだろうか、それとも。

 そう。
 自分のことなど見限るに違いない。

 あの男は幼い頃から自分の肌をなめまわしていた。あの男の唇が触れなかった場所などひとつもない。あの男にとっては悟能の肉体だけが目的なのだ。
 幼いのに何度も性の喜悦をともにさせられ、何度も何度もおとなの男の欲望を目の当たりにさせられた。それが、どんなに子供の精神を傷つけることかも知らずに。
 こんな惨めな人生なんか終わりにしていい。いや終わりにするべきだ。こんな実の親にすら見捨てられるような惨めな人生など。男相手の男妾のような人生など。
 悟能は笑った。
 それは
――――まるで泣いているような笑顔だった。
 一色は自分のどこを気にいったのだろう。
 知能の高さを買われているのかもしれない。そこまで考えたとき、悟能の脳裏に鮮やかに一色の笑顔がよみがえった。いつもの目を細めたおきまりの笑顔。
「この間、いろいろなテストをしたでしょう? 」
 以前、あの王子様はそういった。
「あの結果がもの凄くよかったんですよ。貴方はすごく優秀なんです」
 そう。
 頭がいいから、そばに置いてくれていたのだ。
 容姿がいいから、そばに置いてくれていたのだ。
 身体を好きにできるから、そばに置いてくれていたのだ。単なる変態的な性欲処理の相手。こんな薄汚れた自分など。ゴミ箱みたいな存在なのだ。
 そうだ、そうなのだ。
 頭が良くなかったら、捨てられるのだ。
 容姿が悪いと、嫌われるのだ。
 身体をさしださなかったらかまってもらえないのだ。

 悟能はそこまで考えると悲しげに薄く微笑んだ。孤児で真実の愛をしらないからこそ、悟能が捜し求めているのは純度の高い愛だった。
 完璧な愛。それが欲しくてしょうがない。それを手にいれないとひびのはいった心を治すための包帯が巻けないのだ。
 無私の愛。それを実の母親が与えてくれなかった子供はどうしたらいいだろう。
 そう、
 ほかの人間から母親並みの愛をもらおうとして一生あがくのだ。何もかもさしだせと相手を責め続ける。

 ここにいる悟能のように。

 黒髪の眼鏡をかけた少年は燃え上がる火の中で、めまいがしてきてうずくまった。いつの間にか傍へ召使いの黒い影が近寄ってきたがそれには気がつかなかった。







 「依存症(10)」に続く