依存症(8)

 そんな官能に満ちた日々のとある日。
 百眼魔王の本城から飛竜が一匹、お使いに来た。珍しいこともあるものだった。ここ何年も行き来もなかったのに、今頃になって書状をよこしたのだ。
「あの女好きの親父殿が息子のことを思い出すなんて珍しいこともあったものです」
 悟能との甘い蜜の部屋と化した寝室で、その書状の封を切った。数行、視線を走らせていた顔がたちまち曇る。
「悟能すみません」
 一色は書状から面をあげると悟能の方へ振りかえった。
 最近、彼の情人は背が伸びだしていた。上背ばかりあって、肩幅が広くなってきているくせに体つきは細くてしなやかで美しい。繻子で背を張ったつややかな椅子に腰かけ、物理学の論文に目を通している。その読むスピードは速い。黒縁のメガネ越しの瞳はひどく知的だった。
「我は親父殿に呼びだされました」
 困ったように細い眉を寄せる清一色へ、悟能は心配そうな視線を送った。
「どうしたんですか? 」
 知的な風貌に知的な口調。望めば望むだけ、書籍の類は与えられている。ときおり、著名な学者を城に招いて聴講を受けたりもしていた。悟能は教養人らしい雰囲気をすっかり身につけていた。
「いえ、年寄りのわがままですよ。我がこうして何年も帰らないものですから、すっかり意固地になっているようです」
 若君は苦笑した。聡明で知的な跡取り息子と異なり、百眼魔王は粗暴な男だった。近隣から罪もない婦女子を集めて、地下牢に監禁して犯すなど、非道な行為も行い敵も多かった。馬鹿な親父を持つと疲れる。そんな表情で殿下はため息をついた。
「悟能お願いです。今度こそ何日かお留守番できますね? 」
 すがるように悟能の両手をとり、祈るような口調で迫った。
「いやですね。一色さんは」
 悟能は笑った。もう、何年前のことをこの年上の情人は心配しているのだろう。幼かった悟能が、パニックから起こしてしまった事件を、まだ昨日のことのように清一色ときたら心配しているのだ。
「大丈夫です。おとなしく留守番してます。いってらっしゃい」
 すっかりおとなびた悟能は、片手をあげてひらひらと左右に振った。おどけた仕草だった。少し、後ろ髪が長くなってきている。
「本当ですね。悟能」
 清一色は苦悩に満ちた表情になった。好色な父に悟能をみせたくなかった。とはいえ脆いところのある、この年若い愛人を、ひとりにするのも心配だった。最初は大丈夫でも留守が長くなったら、この少年はどうするのだろう。あの事件以来、いちにちだってひと晩だっていっときだって、この少年をひとりにしたことなどない。
 依存している。お互いにひどく依存していた。相手にしがみついてしまう悟能、そして必要とされるのがうれしくてしょうがない清一色。もうふたりは離れられないのだ。
 依存。依存とは、薬物やアルコールだけのことではない。ドーパミンの出る全てのこと、セックスや人間関係にだって耽溺するものはするのだ。
 そして、一色はそのことをうすうす理解している。
 しかし、若い悟能ときたら全くぴんときていないようだ。
「2、3日で戻ります。絶対に戻りますからね悟能」
 殿下はくどいほど繰りかえし言った。

 それでも心配になった清一色は、召使たちを呼び寄せ、特に注意するように申し伝えた。周囲の壁は静かにざわめいた。闇のけぶる彼方から、重々しい声で応えがあり、全て若様のおっしゃるとおりにすると、闇で蠢くあやしい存在たちが誓いの言葉を次々と述べた。

 清一色はいやいや飛竜の上のひととなった。心配そうな口調で留守のことを申しつけると、悟能へ告げる。
「すぐ戻ります。必ず戻りますからね」
 端正な細い面。銀の髪、左右に短く切られて揃えられているが、後ろ髪はひと束ぶん長い。そのまとめられたひと束の髪が、竜に乗ると風で揺れ、たなびいた。
「行ってらっしゃい。一色さん。僕のことは心配しないでください」
 悟能は、広大な城の玄関で、柔らかい笑顔で手をふった。


 何も分かっていなかった。
 それは清一色が城から出ていって3日ほど経ったある夜のことだった。

 主のいない広いキングサイズの寝台。高貴なひとの使うものにふさわしく天井からは布が吊られ、繊細に編まれた薄い絹布が寝床を床まで保護するように覆っている。そんなベッドに横たわって、悟能はまんじりともしないで時間の過ぎるのをただただ耐えていた。
 眠れない。
 眠れなくなったのだ。
 どういうわけか一睡もできない。
 目を閉じても無理だった眠気が少しもこない。
 こんなことは今までなかった、いつも早く横になってゆっくりと四肢を伸ばしたい。そんなふうにさえ思う日々だった。それなのにいつだってあの殿下が――――ムカデの殿下が眠らせてくれないのだ。悟能へ淫らな手を伸ばしてかわいがるのをやめようとしない。
『コレを出せばすぐ眠くなりますよ』
 そんなことを言って悟能のまだ初々しい淫らなところへ手を伸ばし、慰めるのをやめない。
『そんなことしなくたって僕』
 甘く腕の中で抗うが、希望は叶えられたことはない。そして、確かに一色の手の中へ白濁液を吐き出すと猛烈な眠気に襲われ、そのまま気を失うようにして寝てしまっていた。
 そんな毎日だったのだ。
 その習慣がいきなり途絶えた。

「ん……」
 夜毎にくわえられていた淫虐を思い出し、悟能は薄っすらと顔を赤らめた。幼い頃からの習い性とはいえ、あれは性的な虐待だ。小さな子供に性欲などない。それなのに清一色は悟能の真っ白な身体へ手をつけたのだ。
『愛してますよ猪悟能』
 それは魔法の言葉だった。この言葉をささやかれると抵抗ができなくなった。どんなに生理的に嫌悪があっても嫌な行為でも一色の手や指や唇を受け入れてしまった。そして、こんなに愛してくれて何不自由ない暮らしを与えてくれる一色を拒むことなど自分にはできない、そう思ってもいた。
 幼い子供にとって性的な愛撫など嫌悪でしかなかった。それなのに最近の悟能は本当に一色の身体の下で欲しがって喘いでしまっていた。
『一色さん……シテ』
 甘い声で誘ったことすらあった。ひたすら身体が疼くようになってきていた。
『いけません。悟能』
 決まって一色は困惑した声を出した。
『まだ小さい貴方に我のを挿れたら……もう少し、もう少ししたら……』
 葛藤するような迷いに満ちた呻きを噛み締めるようにして漏らすと、いつも彼は最後に言った。
『もう少し経ったら我に貴方を全部ください悟能。いいですか? 』
 
 そんなことを思い出した。しかし、全く眠気はこない。そうこうするうちに、閉じた厚いカーテンの隙間が少し明るくなってきた。夜が白みかけているのだ。無情にも朝が来ようとしている。
「う……」
 眠れない。なんて辛いことだろう。眠りたいのに眠れない。
 そのうち、早起きな小鳥たちの気の早いさえずりが窓の外から聞こえてきた。
「ああ」
 絶望的な気持ちになって悟能は目を閉じた。とうとう一睡もできずに夜を明かしてしまった。やつれた顔をして眠れずにうつらうつらしていると、矢が飛ぶような不思議な音を聞いた気がした。眠れぬゆえの幻聴だと思った。寝台の下からときおり弓をつがえるようなあやしい音がした。

 その日以来。

 東洋風の華麗な城の中の虜囚のように。悟能は部屋から部屋をさ迷った。無意識に清一色の姿を探してしまう。
 不安だった。
 食事時に食堂へ足を向けると、豪華な紫檀のテーブルの上にいつの間にか料理が並んでいる。魔法のようだ。優しい味つけの鶏のスープやお粥が湯気を立てている。体調の悪いひと用の食事だ。
 ご丁寧にも薬湯らしき褐色の液体が白い陶器の椀の中でとろりと光っている。漢方のなんともいえない薬の匂いがする。おそらく高価な薬なのだろう。
 左右の壁には「天地玄黄 宇宙洪荒……」 などと千字文が華麗な綾錦で縁取られて掲げられ、天井からは蓮の花のかたちをした錦の灯篭が幾つも揺れている。
 緑色の絹糸でできた房飾りが美しい。繊細な細工を施された玉が通されているが、それは悟能の目の色に似ているといって特別上等の翡翠であつらえさせた豪華なものだった。
 そんな華麗な食堂だったが、いつも一緒に食事をとる一色の姿はない。悟能はため息をひとつつくと、皿に口もつけずに席を立った。花や蝶が切り抜かれた透かし彫りの椅子。深いクリーム色をした象牙の箸や銀の匙へ背を向ける。
「嘘つき」
 悟能はひそかに口中で呟いた。横を向くと 「草書千字文」 が壁にかかっている。黄絹の上に書かれたそれは踊るような筆致で、まさに草書の中の草書、狂草と呼ぶのに相応しい迫力だ。文化財級の美術品だった。
「嘘つき」
 文人趣味と優雅さがお互いを引き立てあう、そんな美しい食堂で悟能はふたたび苦しげに呟いた。
「すぐ帰ってくるって言ったのに」

 油断すると不安が次々と足元から生き物のように這いよってくる。一度、疑いだすときりがなかった。
 ひょっとしたら自分は捨てられたのではないか。
 そんな疑いに、だんだんと脳がとらわれてゆく。いちど心に浮かんだこの暗い想念にきりもなく苦しめられていた。
 だって清一色は城を留守にするのはほんの2、3日だと言ったのに、もう一週間は過ぎているのだ。

 もう、一睡もできない。

 一色はどこにいるのだろう。本当に彼の父、百眼魔王がいるとかいう本城なのだろうか。
 昼間はいつものように書斎へ行って、勉強するための本を探したりした。少しは気晴らしになると思ったのだ。
 しかし、自分の好きな自然科学の本や物理学の最新の本を手にすると、それを一色に買ってもらったときの様子を鮮明に思い出し再びふさぎこんだ。
 一冊の科学系の権威ある雑誌が目にはいる。
『その雑誌、好きみたいですね。科学情報誌、ですか』
 一色がそう言ったことを昨日のように思い出してしまう。どんな風にあの若様が微笑んだのかも写真に撮ったように思い出せた。
『定期購読しましょうか。それ』
 頬を寄せて一緒に読んでくれた。難解な学術書なのに悟能の興味にできるだけあわせようとしてくれていた。
 どうして一色はやさしくしてくれるのだろう。
 やはり幼い身体を差しだしたからか、性的な行為に対して抵抗しなかったからか。それもしなかったらあの男は傍にいてくれただろうか。自分はあの男にとって単なるオモチャなのだ。売女の母親が男たちにとってそうだったように。
 考えることの全てがネガティブな暗いものへと落ち込んでゆく。だって自分には何もないのだ。実の母親さえ自分を捨てたのだ。
 そこまで考えて、悟能は胸に鋭い亀裂のようなものが走るのを覚えた。不安でしょうがなかった。あの清一色だって、こんな自分のことなど捨てるに決まっている。何しろ母親すら自分から逃げたくらいなのだ。自分に価値などなにひとつないのだ。
 悟能は昼下がりの書斎で立ち尽くした。足元に難解な科学系の学術雑誌が何冊も散らばる。しかし、それを取り上げることもせず、ひたすらぼんやりと優美な手跡の書が掛かった壁ばかり見ていた。
 
 そして夜になると、いっそう暗いことばかり、考えるようになってきた。
 消えたい。
 生まれてきたくなんかなかった。なんのために生きているのだろう。
 生まれてこなければ、よかった。

 実の親にすら生まれてきたことを喜ばれなかったのに。

「う……」
 目がいきなり涙であふれた。頬を濡らしてあごへと滴る。
 それは突然だった。突然、地獄の釜が開くかのごとく、押さえこんだ精神の奥底から、何かが湧きあがってきた。それは幼い頃にしみついた負の感情だった。耐えきれずに封印し、ときおり封印に失敗してきた感情だった。
「ぐ……」
 思わず悟能は呻いた。
 幼い頃、
「もっと頑張ったらお母さんに好きって言ってもらえる」
 そう思って母親が 「商売」 で家にいない夜をひとりで耐えた。美しい母親は客のひきも切らないと見え、なかなか帰ってはこなかった。長い夜を頑張ってひとりぼっちで我慢した。それなのに母親は悟能の前から姿を消した。いなくなったのだ。
「自分が悪い子だから母親に捨てられた」
 どこかで、いまだにそう思っている。精神の奥の奥、奥底でそう思っている。いや信じているのだった。母親に捨てられたのは、親に捨てられたのは、自分に悪いところがあったからではないかと信じている。
 この先、生きていても誰からも愛されないに決まっている。孤児である自分の居場所などどこにもないのだ。
 その証拠に清一色も戻ってこないではないか。
「うそつき」
 悟能は唸った。
「2、3日したら、戻ってくるっていったのに」
 広すぎるベッドの上でひざをかかえた。その瞳は潤み、水晶のような涙が寝巻きに滴り落ちた。
「一色さん……」
 悲しいうめき声は、最後にはとうとう泣き声になった。

 悟能の行動は不可解だった。
 何故、まわりにいる召使たちに一色のおかれている状況をきかないのか。普通のひとならすることを彼は頑としてしなかった。
 それは孤児特有の性質だった。何もかもひとりで抱えこむ癖があるのだ。誰にも頼れずに生きてきた幼少期が、ついついこんなときに顔を出す。誰かの助けを求めたりするのは極端に苦手だった。
 ひとりで生きていくのが骨の髄にまでしみついている。孤児の彼らの習慣に 「ひとに頼る」 はないのだ。一色だって強引に悟能へ手をさしのべた。パン屋の裏口で虐待されかかっていたのを無理やり助けた。それくらい積極的にかかわないと、悟能のような子供はおとなに頼れない。

 みんな、冷たかったから。
 誰も愛してくれなかったから。
――――それは孤児ゆえの哀しさだった。







 「依存症(9)」に続く