依存症(6)

 その日の夕方。
「悟能すいません。ひとりでいいこにしてましたか? 」
 一色は晴れやかな様子で手に紙袋を抱え、城に戻った。大きな観音開きの玄関扉が音もなく不気味に両側から開く。
 しばらく一色の足音のみが城の大広間に反響した。
 誰も迎えにこない。
「悟能? 」
 てっきりあのかわいい黒髪のメガネの少年が駆け寄ってくるものと思った一色は、拍子抜けしたような表情を浮かべた。ぐるりを見渡しても水墨画が掛けられ、急な客にも対応できるようにしつらえたソファーや机が並ぶが、悟能の姿はない。
「読みたがってた雑誌、定期購読にしてきましたよ。悟能? 」
 大広間を通り、不気味に暗い廊下を抜け、食堂の前を歩き、自室である寝室へと向かう途中で静かな召使の声がした。
「若様、申し訳ありません」
 壁に同化していたとしか思えない。気配のない召使がそのおぼろげな姿をあらわし、一色へぼそぼそと何事かを告げた。
「……そんな」
 いつもは笑みに細められている目が恐ろしいくらいに見開かれた。
「悟能! 」
 一色はあわてて寝室へかけこんだ。唐草や鳥の模様が浮き彫りになった木製の大きな扉を勢いよく開ける。はたしてそこには手首に包帯を巻いて、気を失っている悟能の姿があった。
 思わず一色は手にしていた紙袋を取り落した。紙袋は破れ物理学の専門書が何冊も散らばった。煽られて中身の紙面がバタバタと音を立てた。







 放心した悟能はあの後、書斎へいって人知れずこっそりペーパーナイフで手首を切った。そんな深さでは死ぬことなどできない深さだった。しかし血は流れ、書斎の机は血まみれになった。
 自傷行為だ。
 現実の過去の辛さから逃れるための現実逃避のひとつだ。

 自傷行為の最中、悟能はまったく痛みを感じなかった。なにかが麻痺してしまっているようだった。
 
 手首を切るとそのまま気を失った。過去のフラッシュバックが辛かった。自分のことを捨てた母親のことを思い出すのが、とても辛かったのだ。

 その記憶から逃れようと手首を切った。
 
「僕が悪い子だから母は出ていったんです」
 悟能は大きなベッドの上で放心したようにぼそぼそとつぶやいている。召使どもの対処が早かったと見え、おおごとにはなっていない。
 血で汚れた机は清められ悟能も手早く清潔な寝間着を着せられていた。白湯を飲ませられ静かにベッドに横たえられている。子供のあつかいはともかく、こうした実際的なことに召使たちの手回しは実によかった。
「僕が悪い子だったから」
「そんなことがあるわけありません」
 一色は優しく答えた。自分も着替えるとベッドの上に横になった。悟能をなだめるように、その絹糸のような艶のある黒髪へ、手を伸ばして優しく撫でた。悟能の手の傷はそんなにひどくはない。しばらくすれば風呂にもはいれるだろう。医者に見せるような、縫わないといけないような傷でもなかった。
「僕には何もないんです」
「そんなことありません」
 一色は優しく悟能のことを抱きしめていた。
「どうしてこんなことをしたんですか」
 心配そうな声で一色が問いかける。悟能は答えられずに沈黙した。これほどに賢い少年だったが自分の内面をうまく説明できないらしい。
「一色さんだってそのうちこんな僕なんかいやになって捨てるに決まってます」
「貴方を捨てるなんてそんなことありえません。何を言っているんですか」
 一色は抱きしめている腕の力を強くした。悟能はなにかネガティブな方へ方へとひたすら落ちこんでいた。どうにもならかった。認知がゆがんでいる。高すぎる知能と低すぎる自己評価。悟能少年は不幸だった。
「こないで」
 一色の腕を押しのけようとする。そのくせ見捨てられそうになると、血を吐きそうなほどにショックを受けるのだ。『こないで』 といいながら相手の態度を試している。自己評価が低すぎるので、相手に捨てられるのが怖くてしょうがないのだ。
 本当に相手が自分を見捨てないか試している。試さずにいられない。
「何をバカなことを言ってるんです」
 一色は困ったように言った。この黒髪のかわいらしい少年に、夢中になっているその気持ちに嘘などなかった。いけないと思いながら性的にもひかれていた。別に少年趣味があるわけではない。この存在に魂まで奪われただけだ。悟能が大きくなったら一生いっしょに暮らして欲しいとお願いするつもりだった。

 そんな清一色の思いも知らず悟能はふさぎこんでいた。

 僕には何もない。本当に何もない。母親だって見捨てて出て行った。おそらく他の男と。それくらい価値なんかない。本当だったら誰にとっても実の母親は味方なはずだし、愛してもらえるはず。それなのに自分は母親から愛してもらえないほどダメな人間なのだ。価値のない人間なのだ。
 そんな思いから逃げられない。
「う……」
「悟能! 」
 悟能はふたたび意識を失った。一色の腕の中で。





 寝室に朝の光が射しこむ。透かし彫りのほどこされたついたて、瀟洒な机に華麗な彫刻のついた椅子。銀色に光る絹織りの絨毯。そんな華麗な部屋に清一色の面白くなさそうな、いや冷たい口調が響いた。
「それで悟能が廊下の床に座りこんだとき、貴方がたは一体どうしていたんですか」
 執拗な口調で清一色はなじっていた。
「若様」
「殿下」
 召使たちがぶつぶつと詫びの言葉をつむいでいるようだ。『ようだ』 というのは、姿も霧のごとくけぶって定かでないし、言葉も一色にしか聞こえぬくらい小さかったからだ。推察するしかない。
「いいですか。座りこんでいたらすぐに安全なところに連れていかないとダメじゃないですか」
「若」
「悟能を放っておいたんですか! 貴方がたは! 許しませんよ! 」
「殿下」
 いつの間にか一色は激昂していた。いつも恐ろしいくらい冷静な彼だったが、悟能がからむと平静でいられないらしい。
 白い寝間着姿で傍らの机に手をつき、召使どもを睥睨していた。ただでさえ酷薄な目つきなのに、より恐ろしい色を帯びている。
「こんな小さい子が書斎に行ってナイフなんか手にしたのに、それを止めないとは」
「若お許しを」
「殿下どうかご寛恕ください。もう二度と悟能様から目を離しませぬ」
 召使たちも伺候するうちに悟能少年がひどく大人びているのを知り、すっかりと油断していたのだ。殿下がいないのでなんだか落ちこんでいるようだ、とは思ったが、まさか自分の手首を切るとは思いもしなかった。
「う……ん」
 悟能がベッドの上で小さな声をたてた。一色は召使たちに無言で 『下がれ』 という身振りをした。闇が動きうやうやしい仕草で黒い霧のごとき召使たちの気配は消えた。孔雀の羽ばたきが一瞬、耳をかすめた。
「おはようございます我の猪悟能。ごきげんはいかがですか」
 いままで召使どもをにらみつけていた恐ろしさはどこへやら満面に笑みをたたえると、その小さい手をとりくちづけた。あいかわらず笑うと目が細くなって無くなる。
「朝ごはんにしましょう。今日は何をして遊びましょうか? 」


 食堂までつづく石畳の廊下を一色に手をひかれて歩くときに、かすかな声を聞いた。
「すっかりご不興を買ってしまったな」
「あなおそろしや。若様に殺されるかと思うたぞな」
「若のあの目。あの目だけはお父様ゆずりよ。あとは麗しい奥様に似ておられるというに」
「少しは黙りゃ、ろうがわしや(騒がしい)聞こえますぞえ」
 真っ暗闇、何かがいそうな城の廊下の暗闇からその声は漏れてきた。召使たちだ。石づくりの床へ壁へ天井へ四方へ反響し、そして散ってゆく。
「さてもさても 「あの坊や」 は年よりおとなびておられるから油断しとったわい」
「目をもう二度と離すまいぞ」
 まるでその声は闇のささやきのように、悟能の元へもひそやかに聞こえてきた。思わず、一色の手をつかんだ力を強くする。一色といえば召使どものたわごとなど、いっこうに気にもかけないらしく悟能が自分の手を強く握ってきたのに相好を崩し、しっかりと握り締めかえしている。
 『壁』 からのささやきはきりもなく聞こえてくる。
「あの 「坊や」 はなにものじゃ」
「どうも医者がいうには相当、賢いとか」
「左様かそれならば将来、殿下のお役にたつのであろうな」
 悟能は黙って召使たちのささやきあう声を聞いていた。召使たちの会話の合間から、不思議にもまたあの孔雀の鳴く声がかすかに聞こえた。





 その日は穏やかだった。
 ゆっくりと時間が過ぎてゆく。悟能はほとんどの時間を一色のひざの上で甘えて過ごした。
 遊ぶものがあるか探そうと、悟能は背の低い引き出しの一番下をあけた。めずらしくはしゃいでいる。
「あれ、こんなところに麻雀牌がありますよ」
 悟能は驚嘆した。それは宝飾品のような麻雀牌だった。そんなのが幾つも幾つも出てきた。
「すごいこれ全部、翡翠でできてるんですか」
「珍しい細工モノなんですよ」
「あれ? でも牌が足りないじゃないですか? 」
「そうですか? 」
 一色はどこか空とぼけた声をだした。おひざの上から悟能が落ちそうになるのを腕で抱える。
「ほら見てください。一索(イーソウ)がないですよ。一萬(イーワン)も一筒(イーピン)も」
 確かに麻雀牌がそろっていない。悟能は無くなっている麻雀の牌を目ざとくみつけてその名前を言った。
「あれそういえばそうですね」
「どこへ隠してるんですか一色さん」
 落ちてないかと引き出しの中を探しまわる。
「……どこへでしょうね」
 口元に弧を描き目を細める。もはや地顔となったいつものおきまりの謎めいた笑顔だ。
 そんなたわいのない会話をして一色と悟能は笑いあった。

 麻雀に疲れたらお茶の時間だ。若様が街で買ってきたとかいう、タルトはひどく甘くて粉砂糖がかかっていておいしかった。まるで、最近の悟能の毎日のように甘かった。

 母親が失踪してからというもの、悟能は必死だった。街で飢え死にしないように、日々、路上でのたうちまわっていた。路上で暮らしていたときは、過去の辛いことや母親に捨てられたことなど思いださなかった。いや思い出す余裕などなかったのだ。
 それが清一色に保護され大切にされ守られる暮らしの中で、ほころびのように辛い過去を思いだしつつあった。
 






 「依存症(7)」に続く