依存症(5)


「我のかわいい悟能が最近、元気がないんです」
 若様が召使へ手をあげて応じる。怪しい召使は近寄ってくると菊の花の清々しい香りをただよわせながら、一色のいるテーブルへ菓子皿をそっと置いた。
「ご苦労さま」 
 品のある口調でねぎらうと、医者へ椅子をすすめた。
「先生おひとつどうぞ。ナツメヤシの甘露煮です」
 美しい透かし彫りのされた瀟洒なテーブル。蜂蜜色をした木肌が美しい。文人趣味の最たるものだった。その上にさりげなく高価な茶器が並ぶ。
「悟能が最近、変なんです。なんで僕といっしょに暮らすのかって訊くんですよ我に」
 一色が困ったようにその細い眉を寄せた。上品な手つきで白い蓋のついた椀を片手でとった。ため息をひとつ吐く。
「我が貴方のことを愛しているから、と答えないと承知しません。それを日に何回も繰り返すんです」
 今まで虐待されていたことや愛されなかった過去を取り戻そうとするかのように、悟能は一色にしがみついていた。
「……殿下、話によるとあの坊やは孤児だそうですね」
 医者は静かな声で言った。椀の蓋をずらし、お茶をすする音が華麗な茶室に響く。
「ええそうです。我が拾ったのです」
 宝石を拾ったようなものだ。悟能という名前の翡翠の珠を拾ったのだ。
「あの子の過去はどんな過去です」
 医者は用心するようにとジェスチャーで伝えた。
「大丈夫です。心配しすぎです先生は」
 あのかわいい悟能に限ってと一色は思った。しかも、ものすごく賢い子だ。わがままになることもあるが一過性のことに違いない。そう思っていた。
「殿下」
 魔王の正統な跡取りであるこの若君へ医者は丁寧な挙手の礼をとって言った。
「彼のような視覚優位のギフテッドは、過去の出来事を写真のように記憶すると以前お伝えしました」
 医者は淡々と告げた。
「記憶力がいいということは悲しい記憶もいやな思い出も忘れられないということです」
 悲しみのにじんだ声音で医者は説明した。一色は黙ってお茶を口にしている。上目づかいに医者を眺め、言葉の先をうながした。
「忘れられない。要するに記憶のフラッシュバックがおきがちです。精神的外傷(トラウマ)をまるでさっき見たことのように思い出してしまうのです。ギフテッドはそのせいで落ちこみやすい性質の者が多いといわれています」
 茶室に入る陽の光は柔らかく、花格子のつくる影は美しい。
「フラッシュバックの影響は危険です。失神や自傷行為、あげくは自殺につながる症例もあります」
 午後の陽光がきらめくガラスの茶室は高貴な蘭の香りに似た、お茶の匂いでいっぱいだった。
「悟能くんに薬を処方いたしましょう」
「薬? 」
 一色が眉をひそめる。白い椀を茶托へ置いた。小さな音が立った。
「あの子が落ちこんでいると言われましたな。小児鬱病は放っておくと予後がよくありません」
 医者は何もかもわかっているような口ぶりで言った。
「安定剤のたぐいを飲ませましょう。それからコンサータも」
 コンサータ。メチルフェニデートの徐放剤。覚せい剤に極めて類似する薬物。それを少しずつ放出するカプセルに入れたものだ。ADHDや一部の発達障害者に処方される薬だ。
 医者はどこからか薬剤のシートを出すと指でつまみあげた。白いカプセルがずらりと並んでいる。イーライリリー社のADHD用薬物だ。リタリン(メチルフェニデート)の取り締まりが厳しくなって、一斉にこちらに切り替えたのだ。
「いりません」
 清一色は口元をゆがめた。するどい犬歯が一瞬のぞいた。
「我の大切な悟能に薬などいりません」
 銀色の髪のところどころが青みを帯びて光る。殿下の口調はきっぱりとしていた。上品な若様といえど、そんな様子はやはり残虐無比を誇る百眼魔王の直系中の直系だった。思わずその迫力に人間でしかない医者はたじろいだ。





「また医者を呼んだんですね」
 悟能は清一色の寝室のベッドにちんまりと座っていた。豪華なレースのクッションを背に、緞子の毛布をひざにかけて本を読んでいる。
「僕あのお医者さん嫌いです」
 あんなヤブ医者。その優しげで聡明そうな口元で辛らつに小さくつぶやいた。かわいらしい唇が皮肉な調子にゆがんでいる。
 一色が頼っている人物というだけで悟能はいらいらとするらしい。あんな医者と話す時間があるのなら、自分といっしょにいて欲しいのだろう。清一色には他の誰も気にとめて欲しくないようだ。自分以外と話をしてほしくない。自分だけを見て欲しいのだ。
「その雑誌、好きみたいですね。科学情報誌ですか」
 一色は悟能の言葉にとりあわずにそばへ寄ってくると、読んでる本を覗きこんだ。素粒子の難しい用語が散りばめられている。
「定期購読しましょうか。それ」
 頬を寄せて一緒に文字を追う。難解な学術書なのに悟能の興味にできるだけあわせようとしていた。
「どうして僕にやさしくしてくれるんですか」
 思わず、という調子で悟能はつぶやいた。
「どうしてって」
 問われて若君はベッドの上で首をひねった。豪奢な絹織りのシーツが幻想的な光沢を見せてつややかだ。
「どうしてでしょうねぇ」
 どこか自分でも不思議そうな口ぶりで一色は言った。
「本来、我はモノやヒトに執着しないタチでした」
 悟能の黒髪を優しく撫でる。その身体に毛布をそっと引き寄せて優しくかけなおした。ぽん、ぽんと手でそっとなだめるようにたたく。
「それなのに貴方には」
 ふっ、と妖怪の若君は苦笑した。確かにどうしてここまで、この黒髪の少年に執着してしまうのかまるでわからなかった。
 まるで運命のひとのように、このかわいらしい少年に夢中だった。本当はいけないことだと知りつつつ、その肌に触れてしまうこともやめられない。
「悟能」
 そのまま抱きしめ、腕の中へ引き寄せた。大人の男の匂い。一色がつけている伽羅に似たほのかな匂いがその白銀に輝く長い髪から香った。
「あ……」
 ぴくん、と身体をふるわせるが抵抗できない。いや、悟能は抵抗しなかった。
「大丈夫ですよ。まだ痛いことはしません。でも気持ちいいでしょう? 」
「言わない……で」
 抱きしめたまま、その肩先から夜着を脱がせた。悟能のゆるく結わえられていた帯がほどけ、肌があらわになる。
「や……だ」
「うそつきですね。貴方はうそつきだ」
 逆らえない。必要としてくれるなら。
「かわいくて貴方の全身にキスしてしまいたくなる」
 衝動的だった。性的な衝動だ。しかしあまりにも悟能が幼いので、最後の埒をあけるところまではさすがに我慢していた。
「あ……」
 男の淫らな舌が肌を這いまわりだして、悟能は仰けぞった。脚の付け根をきつく吸われる。鬱血の跡が点々とついた。食べてしまいたくなるほどかわいい、という表現があるが一色の愛し方はまさにそれだ。
「悟能……悟能」
 ささやかれる甘い声を子守唄がわりに、悟能は眠りに落ちた。


 次の日の朝。いや朝といってもそうとう陽も高くなったころのことだった。

「一色さん一色さんっ」
 悟能が城の中を歩きまわっている。朝からあの若君の姿が見えないのだ。
「一色さんってば」
 昨夜あんなに愛撫されたのに、突然一色は姿を消した。
「どこなの? どこ? 」
 悟能は必死だ。いつも抱っこするようにして、朝ごはんを食べさせてもらっているのだ。それができないなんて悟能にとってはおおごとだった。買ってもらった量的物理学の微分法についての専門書を片手に大切な保護者を探しまわる。
「一色さん! 出てきておねがいです! 」
 声が涙まじりになってゆく。この壊れやすい心と超人的な頭脳を持つ少年は、いつの間にか泣いていた。
「どこ! どこにいるんですか! 」
 この城は不気味だ。昼でもなお薄暗くて退廃的な気配に満ちている。廊下の香机にぽつりぽつりと置かれた陶製の人形がまた薄気味悪い。にやにやと悟能が困っているのを嘲笑っている。
 相当、必要に迫られないと悟能はひとりで歩いたりしない。いつも背の高い妖怪の王子様を案内人にして、お菓子をとりに厨房へ、本をとりに書斎へと出かけ、日のほとんどを一色の寝室でお互い戯れるようにして過ごしていたのだ。
「若様を探しておられるのかな」
 すっかり客分になって住みついている悟能へ壁ぎわから語りかける声がした。
「若様ならお出かけじゃ」
 暗い壁の内側から声がした。この城はとにかくひとがいない。召使たちも人間とも妖怪とも思えない。ぼうっとした手がでてきて、ものもいわずに給仕しているようなありさまだ。
 そんな不気味な城だったが今日はあまりの悟能のとりみだしように、いつもいるのかいないのかわからない召使がそのぼんやりとした姿をあらわした。瞬間、何故か孔雀の鳴き声がかすかに聞こえた。
「一色さんは戻らないの? 」
 くりっとした大きな瞳を見ひらいて悟能は言った。放心した調子だった。
「そうだ若様はお出かけじゃ」
 陽のあたるところは好かぬとばかりにぶっきらぼうな声だった。答えを言ったからご用は済んだとばかり、怪しい召使は再びかき消すように姿が見えなくなった。ふたたび気味の悪い廊下は静まりかえった。針ひとつ落ちる音すら聞こえそうだ。
 一色はいない。いない。悟能をおいて出て行ったのだ。何も言わず。
「あ……」
 いやな感覚が悟能を襲った。

 こんな風に捨てられたことが昔もあった。そう写真のように忌まわしい記憶が突然よみがえった。

 あるときから悟能の母親は姿を見せなくなった。たった一人でとり残され捨てられたのだ。母親という名のあの女に。おそらく男と逃げたのだ息子である悟能を捨てて。血を分けた悟能よりも、どこの馬の骨とも知らぬ他人の男と暮らすことを選んだのだたぶんそうだ。そうにきまっている。
 あの女。あの男に股を開くことを生業にしていた怠け者のお引きずりのくだらないオンナ。そんなのが自分の母親で、そんなくだらないオンナにさえ捨てられる自分は本当の本当に価値がまったくなくて本当に無価値でたぶん、

 本当に、
 死んだ方がいいのだと思う。
 死んだ方がいい。
 自分なんか死んだ方がいい。
 父も自分を捨てたではないか。自分よりもふたごの姉の方を引き取ったのだ。
 自分に価値などない。
 なにひとつない。
 死んだ方がいいかもしれない。だって母親にすら捨てられたのだ。こんな自分などゴミ以下だ。
「う……」
 ぼたぼた、と頬を伝って流れ落ちてくるものの正体に悟能はしばらく気がつけなかった。放心していた。
 石でできた廊下の壁。その硬い感触を背に感じながら悟能はずるずると座りこんだ。立ち上がる気力がでなかった。







 「依存症(6)」に続く