依存症(3)


 城は豪奢で広大でそして不気味だった。廊下にはぽつんぽつんと香机が置かれ、その上にはそれぞれ古い陶製の中国人形があった。きれいに金泥で彩色されたそれらは古美術の気品を放っているが、ときどき笑っているその表情が違う気がした。
 そう、日で表情が違うのだ。

 廊下や居間に控える召使も不気味だ。ひとらしい気配がない。そのくせ若様である清一色が 「誰か」  と呼びかけると返事がかえり、ぬっと影がひとの形をとる。そして粛々と用を承るのだ。

 本当に気味が悪かった。ひと気のない城、ひと気のない館、ひと気のない廊下、ひと気のない階段、ひと気のない寝室。
 悟能はひとりでは出歩けなかった。いつも若君である一色といっしょだった。



 そんなある日のこと。

 午後の陽光が射しこむ優雅な部屋で、一色と悟能はお茶をしていた。
 華麗な花格子が窓にはまっている。縦へ横へと木の枠がめぐらされて華やかだ。その格子の影が部屋に敷かれた、これまた見事な絹の絨毯の上へと落ちる。極彩色の刺繍のされた美しい絨毯だったが悪趣味ではない。果物や鳥の意匠の凝らされたそれは、見るひとに極楽浄土を連想させた。
 そんな調度に囲まれて、若様が不意に呟く。
「あのパン屋ってなんて名前でしたっけ」
 優雅な年輪の浮き出たテーブルの上で、お茶の道具が湯気を立てていた。一色が品のいい手つきで、急須から小さな湯のみにお茶を注ぐ。
「パン屋? 」
 悟能が目を丸くする。緑色の絹の中国服を着て、ちょこんと椅子に腰かけていた。
「ホラ、我が占ったあの気の毒なおかみのいるところですよ」
 一色は悟能へお茶をすすめた。目の前に香りの高い金色の液体の入った小さな白い椀を置く。
「ああ……」
 黒髪の少年は整った眉を寄せた。記憶の底から何かをひっぱりあげているような顔つきだ。
「思いだしてみます」
 超高性能のスーパーコンピュータのCPUが頭の中で高速回転している。そんな雰囲気がこの幼い少年にはあった。
「あのパン屋の名前ですよね」
「……覚えているんですね」
「ええ、あの裏のドアに店名が書かれていました。それから住所や電話番号も思い出せます」
 悟能は淡々と言った。
「……悟能、貴方」
 一色は、ゆっくりと言った。
「どんな記憶の仕方をしているんですか」
 悟能の聡明すぎる頭脳はひどく正確だった。パン屋で清一色と出会ったときのことを、まるで写真のごとく脳の一部から取りだしてしゃべっていたのだった。印画紙に像を結ぶようにして記憶していた。
「そうですか」
 一色は何か考えながら、お茶を口へ運んだ。武夷岩茶の香りで周囲が満ちた。芳しい蘭にも似た上品な香気。
――――若様が手に入れた手中の珠は、なにかとんでもない性質をもっていた。


 そして、

 何日か経って城に医者が呼ばれた。
 児童精神科専門の医者だ。医者は城の書斎で何回か悟能にテストをした。




 若様は華麗なお茶用の部屋へ医者を手招きして座らせた。
「WISC−W ウェクスラー式知能検査の結果がでました」
 言語理解、知覚推理、ワーキングメモリー、どの項目もほとんど満点だった。
「ギフテッドですな」
 凄まじいようなハイスコアが知能検査の欄に並んでいる。人間とは思えない数値だった。恐らくシッタータ太子やアインシュタインと同じようなスコアなのではないか。そんな点数だ。
「ギフテッド」
 一色は医者の言葉を繰りかえした。
「天から贈られた(ギフト)才能の持ち主ですよ」
 医者は淡々と言った。これが喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのかも、判然としない表情だ。
「すべての分野において、常人をはるかに超えた知能を持っています」
 その口調は断定的だった。
「どのような手段で外界を認識しているか……それを 「認知」 と呼びます。視覚によるもの、聴覚によるもの。だいたいがこのふたつにわかれます。悟能くんの場合は視覚認知タイプ、視覚優位です」
 字すら画像としてとらえることができるので、速読も可能だ。まるで寺で僧侶が 『転読』 するような勢いで速読ができるのだ。
「天才に多いタイプですな」
 医者がゆっくりとした口調でいう。一色の前に広げられた、テストの結果が夕暮れ時の光で輝いた。
「歌を歌う、とかそういう聴覚が重要なことに彼は向いていません。救急車のサイレンですとか、どちらの方角からくるのか知ることなどは苦手でしょう」
 そういえば一色は悟能が歌うのを聞いたことはなかった。機嫌がいいときなど鼻歌を歌っていることはあるが、改まって歌ってくれというと悟能は恥ずかしそうにいやがった。
「そのかわり写真のように記憶したりとか、そういうことは得意です。写真型記憶(フォトグラフィックメモリー)というのですか。一部の天才のみができる記憶法ですよ」
 天才。清一色は複雑な表情になった。あごへ片手をやって考えこむ。別に天才だから、あの可憐な少年に惹かれたわけではなかった。
「とはいえ2Eというわけでは、ありません」
 2E、twice-exceptional ではないと医者は告げた。2Eだとアスペルガーなどの特質を持ち、コミュニケーションが苦手な場合がある。
 しかし、悟能は常人離れした能力を持っていながらも、通常のひとと同じような対人関係が結べるというのだ。能力の凸凹がそんなにないのだという。悟能が生きやすいのならば、それにこしたことはない。清一色は身を乗りだして医者の言葉へ耳を傾けた。
「しかし問題もあります」
「なんですか」
 悟能が特殊であるというのなら、どこまでも守るまでだ。そう清一色は思っている。
「記憶力がいいということは」
 医者はいったん言葉を切った。
「辛い過去の記憶も忘れられないということです」






「愛してます。悟能」
 寝室でそうささやかれる度に悟能の身体はぴくん、とふるえた。
「悟能、我の悟能」
「あ……」
 大きな窓は閉じられて燭台の灯りだけだった。それに照らされ、身体をおとなの手でまさぐられている。
「んっんっ」
 悟能は思わず一色の夜着を小さな手でつかんだ。王子様はちっとも服を乱していない。小さな悟能の絹地の寝間着をくつろげ、そこへ顔をいれるようにしてキスしている。
「学校とか行きたいですか」
「……別に」
 荒くなってゆく息をおさえられずに、悟能はつぶやいた。いままでひとりぼっちで孤独だったが、今では優しい一色がいてくれる。しかもなに不自由のない暮らしだ。
「医者に貴方にはちゃんとした教育を受けさせないといけないといわれました」
 一色はそのこづくりな耳へささやくと、そのままくわえるようにして舐めた。愛おしくてしょうがない、とでもいうかのような所作だ。
「そうなるとこの城を出ないといけませんよね」
 身体の下にいる、可憐な悟能へ体重がかからないように、一色は愛撫していた。
「僕、ここを出ていかなくちゃならないの? 」
 悟能の声はいつもと違った。いつもの幼い子とは思えぬような大人びた口調ではない。年相応、いやそれ以下の不安そうな声だった。
「ええ。有名な学院とかは全寮制だったりしますからねェ」
 一色はただでさえ細くなる目をより細め、眉をひそめた。頭が痛い。そんな表情だ。
「……もう僕のことが嫌になったの? 」
「悟能? 」
 一色は上から悟能の顔を覗きこんだ。少年は幼いながらに完璧に整った美貌だった。
「もう僕のことがキライになったの? やっぱり僕なんか何の価値もないから、みんな僕のことを捨てるの? 」
 突然だった。
 突然、激しく一気に言うと、そのまま悟能は一色の腕の中で泣きだした。ぼろぼろとその大きな緑の瞳から真珠のような涙が落ちる。寝具を濡らし、シーツを濡らし、一色の指を濡らした。
「悟能」
 一色はあわてた。まさかこんな激しい反応が返ってくるとは思わなかった。若様としては優秀な悟能にどの学校に行きたいか相談をしているだけだった。
 みんな僕を捨てるの?
 悲痛な声だった。
「我が貴方のことを嫌いになるわけがありません。ましてや捨てるわけがありません。愛してますよ悟能」
 王子様はどこか甘く苦しい想いに襲われながら、腕の中の幼い身体をきつく抱きしめた。








 「依存症(4)」に続く