ピンク色の雲(7)


 八戒が部屋から出てきたのは、夕方近くになってからだった。

 ただでさえ、弱っているのに、三蔵に執拗に犯されていた。身がもたなかったのだ。

 階段をふらふらと手すりにつかまって下りてくる。整った顔は白いのをとおりこして、青ざめて見えた。やつれている。
「おっと」
 悟浄が慌てて、階段を下から駆けあがった。足を踏み外しかけていた親友の身体を支える。
「なにしちゃってんのよ」
 下から腕で支えた。腰にまわした腕で抱きおこす身体はたよりなく細い。以前から上背ばかりある痩躯だったが、ますます最近、痩せていた。
「すいません……水が飲みたくなってしまって」
 八戒は力なく笑った。へらっと弱々しい笑顔を口の端に浮かべている。目を細めた優しげな、いつもの笑顔だ。メガネをつけた、その姿は真面目で清潔そうで、まさかお仕えしているご主人様に毎晩のように犯されているなんて、想像もつかない。

 しかし、現実は皮肉だった。八戒はこの地域の気候が体質にあわず、弱っているのをいいことに連日、強姦されているのだ。

 金髪の美しい鬼みたいな男に。

「水、ったって。お前、三蔵と一緒じゃねぇの。頼めよ」
 悟浄が口をゆがめた。本当に許しがたい男だった。あんなヤツが八戒のそばにいたって、八戒は弱ってゆくだけだ。
「三蔵は、タバコを探しに行きました。いえ、僕が悪いんです。頼めなくって」
 微笑みは自嘲するようなものに変わった。困ったように眉が下がる。
「オマエ」 
 悟浄のような陽性の男には、どうしてもこの三蔵と八戒という、月夜に咲く月下美人の、白い花のようなふたりのことは分からなかった。謎だ。どうして、身体の関係まであるのに、水くらい頼めないのだろう。
「どうしたんだよ。俺にはいろいろ頼んでたろうが」
 悟浄は、八戒といっしょに暮らした長安の森の家でのことを思いだした。買い物にしても何にしても、最初はともあれ、後半の八戒は人使いが荒かったのだ。

 一緒に買い物につきあってください悟浄。今日はブイヤベースとか食べたくありませんか。これとこれとこれを買いましょう。荷物もってください。もっと早く歩いてください売り切れちゃいますよ。

 昔のことがまぶたの裏によみがえってきて、悟浄は苦笑いを浮かべると切なげな表情になった。

 八戒は苦しげな表情を浮かべる親友を前に、笑った。心理学用語でいう 「絞首台の笑い」 とかいうやつだ。
「あはは。考えてみると、僕はやっぱり悟浄に甘えていたんですねぇ」
 貴方は優しいから。そんな言葉を小声でつぶやいている。肩を抱かれたまま、いや肩でかつがれるようにして、階段をゆっくり悟浄と降りた。
 階段を降りきるとふたり分の体重で床がきしんだ。悟浄も八戒も長身だ。白いシャツにジーンズを身につけた八戒はこの世ならぬ人のごとく、うっすらと、すきとおっていそうだ。
「さん……あの鬼畜なエロ坊主には甘えられねぇの? 」
 悟浄がゆっくり、片手で肩を抱くようにして、八戒の身体を引き寄せた。そのまま、ゆっくり顔を近づける。くちづけもできてしまいそうな近さだ。食堂はすぐそこだった。廊下に、ひとけがないのを幸い、親密すぎる距離で、会話を続けている。
「僕って、三蔵にとってなんなんでしょうね。僕なんて、性欲処理のお相手なんでしょうね」
 一度そう思うと、もう、そうとしか思えなくなってしまっていた。違うと思うには三蔵は美しすぎた。
 そこが、あの鬼畜坊主の不幸なところだといえば、確かにそうだ。
「僕なんて、三蔵にとっては汚らしい雑巾でしかありませんよね」
 ひとにはあらぬほど麗しき三蔵法師さま。
 しかし、所詮はひとの子だ。ときおり生じる性欲をぬぐうための雑巾がどうしても彼には必要なのだ。自分はおそらくその程度の存在に違いない。そう八戒は思いこんでいた。
「三蔵は僕のことなんか、好きじゃありません」
 八戒の口元の微笑が、よりさびしげになった。泣きそうだ。
「どうでもいいんです。僕のことなんか、あのひとにとっては」
 八戒は苦しげな表情になった。その緑の瞳は潤んでいる。ほとんど鼻声だった。

 思わず、悟浄は真顔になった。

 俺じゃだめか。俺じゃだめなのか。
 あの鬼畜野郎、オマエの気持ちにつけ込んでオマエで性欲処理してんだぞ、あんな卑劣なサディストなんざ
 思わず、悟浄がそう告げそうになった、その時。

「何やってやがる」

 冷たい低い声がした。
 噂をすればなんとやら。
 三蔵だった。

 その白皙の美貌からは、感情が読みとれない。ひどく冷たい表情だった。この男の美麗さは人間離れしている。いや確かにこれは人間ではない。人と呼ぶには美しすぎる。凍れる美貌の、月に住む魔魅だ。

 そんな幻覚を抱かせるほどに、美しい男。

 夜半の月のごとく八戒の大切な三蔵法師様が現れた。マルボロを手にいれて部屋に戻るところだったのだろう。何故か、その右手には透明なプラスチックでできた水差しを持っている。お盆に掲げるような丁寧なことは、三蔵さまはしない。無造作に直接、手にしていた。
「そんなところでふたりで何してんだ」
 声が硬かった。確かに疑われてもしょうがない状況だった。なにしろ悟浄は八戒の肩を抱きよせ――――そう、ひとのいないのをいいことに廊下のすみで、八戒と抱きあっていた。
「来い」
 三蔵の口調が苛立ったものになった。最初、驚いたのが怒りに変わったのだ。
「さんぞ」
 しどろもどろ、という調子で八戒が弁解しようとする。びくっとした八戒の身体の震えを感じたのだろう、悟浄の抱きしめる腕の力が強くなった。
「悟浄は水を飲みに行きたい僕を助けてくれただけで」
 緑の清廉な瞳が、悟浄をかばう。悟浄は大切なともだちだった。親友だ。いつも優しくて親切で、お人よしで……だいじなひとだった。
「水が飲みたいとてめぇらはそうやって抱きあうのか。気色の悪ィ。ふざけてんじゃねぇぞてめぇら」
 淫売が、と小声でつけ加えられる。苛烈な紫の瞳でにらまれ、八戒が傷ついた表情を浮かべた。それを横目に見ていた悟浄の表情に苦いものが混じる。
 三蔵は冷たかった。
「上に行ってろ。おとなしく部屋に戻ってろ。いいな」
 上から命令する口調だった。完全に下僕に向かっていう調子だ。

 そのとき、

「八戒、今夜は俺と悟空の部屋に来いよ」
 突然、悟浄が口を挟んだ。色男そのものという甘い口説き文句でささやいてくる。助け舟をだす口調だった。
「ふたり部屋なのに、何を言ってやがる」
 三蔵がうなるように横から言うのを、悟浄は無視した。
「俺、床で寝てもいーし。俺の部屋に来いよ八戒。悟空だってよろこぶぜ。身体、ゆっくり休めて治そ」
 明るい、ひまわりみたいな笑顔で悟浄が言った。言葉にも声にも、八戒をいたわる優しさがにじみでている。
「てめぇ」
 ドスの効いた低音が地を這うように響いた。怒りに震えている。
「上で待ってろ、な。 八戒」
 そっと、悟浄は八戒から身体を離した。一瞬よろけた八戒を心配そうに思わず腕で支える。
「おっと。気をつけろよ」
「だ、大丈夫です。ちょっとふらふらしちゃって」
 力なく笑うと、八戒は階段の手すりへ手を伸ばした。逃げるように上へとのぼり始めた。一段いちだん、注意深く踏みしめ、手すりにすがるようにして足を伸ばす。悟浄は本当は八戒を抱えて部屋まで連れていきたい気持ちだったが、それはできなかった。
 ここで三蔵を抑えておく必要があった。三蔵の好きにさせないよう牽制しなければならなかった。
「おう、先に行ってて」
 悟浄は軽くウィンクした。余裕綽々という調子だ。イライラしている目の前の最高僧サマとは対照的だった。愛情表現にしても恋のさやあてにしても、悟浄の方が三蔵より一段上だ。さすがに手馴れている。

「……チッ」
 三蔵は悟浄を殺したいような目つきでにらんだ。
「本当に殺すぞ。エロ河童」
「そのセリフ、丁重にお返しすんよ。エロ坊主」
 にらみ合う、ふたりにかまわず、階段を上がる音は止まった。八戒が2階にたどりついたのだ。
「てめぇの好きなようになんざ、なんねーよバァカ」
 悟浄が憎々しげに捨て台詞を吐いた。ハイライトにライターで火をつける。白いタバコの煙が階段に、物憂げにただよう。


 しかし、事態は意外な局面を迎えていた。
「あれ? 八戒は? 」
 散々、階下で三蔵とやりあって、悟浄が自分の部屋に戻ると、
「知らねぇよ? え? 八戒、ここに来てねぇよ? 」
 目を白黒、いや白金させている悟空が、肉まんにかじりついている姿があるばかりだった。
「八戒? え? 八戒、アイツ」
 悟浄が驚きに目を見張った。悟浄は親友が何を考えているのか、まるで分からなくなった。
 そう、
 八戒は悟浄の部屋へ、とうとう来なかったのだ。








 「ピンク色の雲(8)」に続く