ピンク色の雲(4)

 闇のむこうから、激しい雨音が、聞こえてくる。




「遅せぇ」
 今回の宿の食堂は、前の宿よりも高級な気配がする。最高僧の不機嫌な顔を、黒光りするテーブルが映し出す。丸い中華風の卓。青磁の小皿に青磁の箸(はし)おき。象牙の箸がきれいに並べられていた。
「すいません。遅くなりました」
 困ったように目を細めて笑う黒髪美人を、三蔵は真っ向からにらみつけた。紫の視線を感じて、八戒が目をそらす。
「えーと。何にするー? 」
 悟空が茶色い髪をゆらしてうれしそうに笑う。額にはまった金鈷が食堂の明かりを反射して光る。
「とりあえず、チャーハンに、豚の角煮に、……」
 メニューもちょっと豪華だ。きれいな紙に、おいしそうな料理の名前が並んでいる。
「最初からチャーハンかよ」
 呆れた声をあげて、悟浄が椅子に座る。油淋鶏もから揚げも食べたいなんて言っている悟空にとりあうつもりはないようだ。
「青菜のスープと鶏粥(とりがゆ)だな」
 三蔵が青磁の湯のみを片手に、ぼそっとつぶやく。
「え、お粥? さんぞーってば調子悪いの? 」
 悟空が金色の瞳を丸くして言った。
「いや」
 ちら、とその目じりの下がった目を八戒の方へとむける。普通、目じりが下がっていると相応の愛嬌があるものだが、この男の場合、美貌すぎて愛嬌などというものになっていない。この世のものとも思えぬほどに整った容姿に、かすかに混じる破調のようなものだ。その瞳は髪と同じ金色のまつげにふちどられ、美麗すぎて思わず見とれてしまう。
「あ、ああ。すいません」
 僕のですか、と小さく八戒が頭を下げて礼を言う。
「食欲、ないんだろうが」
 三蔵がつぶやく。昼間だってろくろく食べていない。大量に焼きあげた川魚の塩焼きは大半が悟空の腹の中に入ったのだ。
「ありがとうございます」 
 そのくせ、ふたりとも視線を交わすことはない。そらしたまま、ぎくしゃくとしている。
「……チッ」
 今度は悟浄が舌打ちする番だった。なんだか、全てが面白くなかった。

 


 

 部屋に戻る階段の途中だった。
「いけねぇ。タバコ、切らしてたんだった」
 悟浄がつぶやいて、宿のロビーへと足をむけた。
「悪ィ八戒。部屋で待ってて」
 遠ざかってゆく、その後ろ姿を八戒がぼんやり見つめていると、階段の上から声をかけられた 
「なんで、俺を違う部屋にしやがった」
 三蔵だった。

 食堂よりも階段は少し薄暗い。
 金髪が、きらきらとしてうっとりするほど美しい。闇夜に突然現れた月のようだ。
 そんな彼が、一歩一歩、階段を下りてくる。
「なんのことでしょう」
 八戒は緊張した。言葉がなんとなく震えてしまう。意識しすぎだ。階段のてすりをにぎる手に力がこもった。階段をのぼる足が思わず止まった。

 先ほどの食事のさいに、油淋鶏を食べる三蔵をうっかりと見てしまって、八戒は後悔していた。
 箸(はし)でうまく骨のはずれぬ鶏肉をそっと指をそえて三蔵は食べていた。所作がなまめかしかった。ぺろ、と端麗な唇からピンク色の舌が見え隠れして、食事というよりもそれは官能的な何かだった。
 清潔な白い歯で鶏肉を三蔵が噛むたびに、八戒はまるで自分が噛まれるような恍惚とした気分を味わった。罪深いことだった。上唇についた鶏の油を、ぬぐおうと、三蔵が舌でなめる。ひどくそれは性的な表情で、八戒は見ているだけで身体のどこかが疼いた。
 単に三蔵が食事をとっているだけなのに、身体の芯まで感じてしまう。事態は絶望的だった。こんなことをこの麗しい白皙の僧侶に知られるわけにはいかなかった。

「待て」
 そんなことを考えていたら、鋭い声をかけられた。かまわず三蔵の傍を強引に通りすぎようとして失敗する。腕を素早くつかまれた。白いシャツにしわができる。細いくせにすごい力だ。
「今夜もヤりたいんだろうが」
 果たして、ぶつけられた言葉は、デリカシーのない言葉だった。
「……さん」
 八戒が緑の瞳を見ひらいた。見すかされている。この美しい男に自分の醜い欲望を見すかされている。逃げようと後ずさった。なんだか、今夜の三蔵は雰囲気がいつもと違う。
「俺じゃなくて、今夜は悟浄に慰めてもらいてぇのか。そうなんだな」
「あっ」
 突然、手が伸ばされ、いじられる。とんでもないことだった。公共の場所だ。他の宿泊客にも見られてしまう。
「やめ……」
 ズボンの上へ三蔵の手を這わされると、たちまち八戒のそれは硬くなった。
「もうこんなか。それなのに、俺と同じ部屋にはなりたくねぇのか」
 冷酷なまでの白皙の美貌ににらまれる。月に棲む魔物のような美しさ。冷笑を浮かべる凍れる美貌。八戒だけは知っている。性欲などないのではないかとまで疑うほど麗しいこの男が、どんな情欲をにじませて、自分の身体を穿つのか。
「さん……」
 金色の美しい蛇ににらまれた、小鳥かなにかと一緒だ。すくんで八戒は階段の上で動けなくなった。こんなに美しい男が、八戒のように罪深い存在など本気で相手にするはずがない。おまけに三蔵は聖職者なのだ。
 それなのに、
「…………あ! 」
 八戒は腕をひっぱられ、部屋に連れこまれた。





 部屋の明かりは暗い。スイッチをつけるのももどかしく、ベッドに押したおされる。
『もうこんなか。それなのに、俺と同じ部屋になりたくないのか』
 だからこそ、同室になりたくない場合もある。
 しかし、そんな繊細な機微には三蔵は気がつきそうもない。美麗すぎる外見とは別に、三蔵はどこまでも男性的だった。
 三蔵の華麗さとは、装飾品というよりも、磨きこまれた銃や刀の、ひとから命を奪う魔性じみた武器のきらめきに似ている。美しいのに彼は少しも軟弱ではなかった。
 八戒はセックスのみの関係と、三蔵とのことを割りきれきれていない。割りきれなかった。そう割りきるには心が痛んだ。
 それなのに、最近の天候やこの地域の気候のせいで、これ以上、三蔵にすがれば軽蔑されそうな気がするのだ。もう散々、自分が、自分の身体が淫らなことは教えてしまっている。
 それでも、もうこれ以上は耐えられない。惨めすぎた。
「やめてください! 三蔵! 三蔵ッ」
 あらがおうとして、手首をシーツの上に押さえつけられる。
「うるせぇ黙れ」
 でも悟浄なら、悟浄なら優しい。
 以前だって悟浄は八戒のことを救ってくれた。あの森の家、長安の悟浄の家で、いつだって不安定な八戒を受けいれてくれた。そして、そ知らぬ顔をしてくれたのだ。優しいから全て忘れてくれた。いや忘れたふりをしてくれた。八戒の男としてのプライドを傷つけないように。

 でも、三蔵はそうじゃない。

「貴方の部屋は隣です。悟空と一緒ですよね? 」
 ほとんど声は悲鳴になった。白いシーツの上に引きたおされ、着ているシャツを乱暴にはだけられる。
「てめぇが勝手に決めただけだろうが。下僕の癖に生意気だ」
 抵抗しようとして失敗した。三蔵は八戒の口を、端麗な自分の唇でふさいだ。










 「ピンク色の雲(5)」に続く