ピンク色の雲(2)

 まだ、昼と呼ぶには早い時間。いつの間にか森の間をジープは走っていた。
「休憩だな」
 金の髪の男は無愛想な調子でつぶやいた。前ばかり見て、八戒の方は見もしない。
「え、僕なら、まだまだ大丈夫ですよ」
 渋い緑色のバンダナ。八戒の額にはまっているそれは、繊細なまでに整った美貌によく似あっている。額へ片手を当て、彼は三蔵にむかって優しく微笑んだ。
「休憩っしょ」
「きゅうけいーきゅーけい」
 後部座席も休憩の大合唱になった。
「……本当に心配おかけしてスイマセン」
 八戒はジープのハンドルを握りしめたまま、目じりをさげて情けなさそうに笑った。

 長雨の合間の晴れ間。
 森はそれこそ、したたるような美しさをはらんでいた。葉の一枚一枚が昨日まで降りつづいていた雨に洗われ、葉が陽にすけて輝いている。木もれ日がそこかしこに光のカーテンをつくり、うっそうとした空間にアクセントを添えている。 
 悟浄がジープからレジャーシートを降ろした。
「僕なら、運転席のシートを倒して、少し休むだけで十分ですよ」
 八戒が、本格的に休憩場所をつくろうとしている仲間にむかって微笑んだ。
「うんにゃ、それじゃ、休んだことにならないでショ」
 傷のある顔に、珍しくも生真面目な表情を浮かべて悟浄が言う。
「レジャーシート敷こうぜ! 悟浄」
 力自慢の悟空が、何故か積まれているクッションやら毛布やらを取りだして肩にかついだ。ついでにキャンプ用品まで出そうとしている。
「お前は遠慮しなくっていーの」
 こつん、と茶色がかったバンダナをはめた額を、八戒の額に軽く当てて言った。まるで恋人どうしのように親密だ。
「なんだか、本当にすいません」
 そのまま森の小道をみんなで進んだ。下草を踏んだ足元から青いにおいがはじけるように立つ。小道から、ほんの少し行くとかすかな水音がした。やわらかい森の下草が足にまとわりついて少し歩きにくい。
「あれ、この花って何」
 頭上では木々が、あちらこちらで小さな白い花をつけている。
「さぁ、僕も知りません。あまり見ない花ですね」
 薄黄色の可憐なベル型の花をつけたつる性の植物が低木の枝にからみつき、透明感のある花の匂いを濃くただよわせている。
「なかなかキレイなトコじゃん? 」
 水音はますます大きくなってきた。近くなってその正体がわかった。
「川だ! 魚とかもいる。うまそうーーー! 」
 せせらぎの音だった。水遊びに手ごろな小川だ。浅くて水が澄んでいる。金眼を丸く見開いて、悟空が川を覗き込む。
「最近、雨続きなのに濁ってもねぇし、増水もしてねぇってのは変だがな」
 三蔵が首をかしげる。
 悟浄と悟空は、ちょうど大きな木のしたにレジャーシートを広げていた。強烈な日ざしも遮られて涼しくてちょうどいい。カラフルな縞模様の布製のシートは、大きくて八戒が横になっても十分だった。シートには木漏れ日が落ち、こずえや木の葉の影が影絵のようで美しい。
「フン」
 三蔵は、八戒のために悟浄が置いたクッションだの毛布だのを邪険に押しのけた。どかりと八戒のそばで胡坐を組む。肩にかけた魔天経文と僧衣のすそがゆれた。ちらと、その紫の視線が八戒の背へ気づかわしげに走る。
「あんまり、はしゃぐと転びますよ。気をつけてくださいね」
 それに気がつかず、八戒は川へと入る悟浄と悟空へ、片手を口元へそえて声をかけているところだった。心配そうな表情を浮かべている。
「へいき! へいき」
「寝てろって、八戒さんは」
 川の流れはそんなに激しくはない、浅いくせにゆったりと流れている。遠目とはいえ、危険ではなさそうだった。
「寝ないのか」 
 ぼそり、と声が後ろからした。あわてて振りむいた。
「三蔵」
 ふたりきりになると何故か気まずかった。この地域の不安定な大気は熱病のごとく八戒に伝染し、精神や身体を深く蝕んでいた。そして不安定になったこの男を三蔵は何度も抱いた。それなのにふたりの間には独特の緊張感があった。
「……お言葉に甘えます」
 悟浄が用意してくれた、クッションに八戒は頭をあずけて横になった。やせて上背ばかりあるしなやかな身体をレジャーシートの上でひかえめに伸ばす。
「じゃまじゃありませんか。僕」
「うるせぇ」
 本当にそっけない。これが悟浄だったらあれこれと心配して話しかけるだろう。どーよ、そんなクッションじゃなくって、このごじょたんが、ひざ枕してやろっか? そんな冗談とも本気ともつかぬことを言うはずだ。
「いや僕、結構、背ありますし」
「関係ねぇ」
 三蔵はまた、タバコへ手を伸ばした。八戒の方は見ない。横になった八戒は気をつかって三蔵へ微笑んだり、話しかけたりしてくる。それなのに、三蔵ときたら憮然とした表情をくずしもしない。
 冷たい。
 そのくせ、八戒のそばから離れようとしない。
「やっぱり、最近調子、悪ィのか」
 ぼそり、と三蔵がつぶやく。そっけなさすぎる口ぶりだったので、自分へむけられた問いだと最初気がつかなかったが、一拍おいて八戒が微笑んだ。白い花のような笑顔だ。
 しかし、横に寝たままの八戒へ、三蔵は視線もあわせない。
「ははは。面目ありません」
「なんでだ」
 説明不足すぎる問いだったが、八戒には分かった。この美しい僧侶は下僕がどうしてそんなに精神的に不安定なのか、心の底から疑問なのだ。
「どうしてでしょう。ここの……この地域の空気とか気圧のせいでしょうか」
 八戒は横になったまま、モノクルの光る右目へ手をそえた。義眼だ。天気が悪いと、身に出来た空洞や古傷が疼くように痛む。
「……うっとおしい雨ばかりの地域ですよね……合わないんでしょうね僕」
 古傷を意識すると、残酷な過去の記憶へと連れ去られてしまう。忘れるためには、何かが必要だった。この男にとって、セックスとは自傷行為のひとつなのかもしれない。
「今夜もきっと雨が降りますね」
 くぐもった、どこか無防備な調子で言葉をつづけた。黒髪がさらさらと川を渡ってきた風を受けてそよぐ。気持ちがいい。
「分かるのか」
 三蔵が白く光る川面に視線をむけたまま言った。
「分かりますよ……また、嫌な雨が……」
 そのまま、八戒の言葉はとぎれた。頭上を飛ぶ、小鳥の羽ばたきが静かな森の中で響き、むこうの川から、悟浄と悟空のにぎやかな声がする。
 静かだ。
「八戒」 
 三蔵が低い声で呼びかけたが、答えはない。代わりにかすかな寝息が聞こえてきた。
「……やっと寝たのか」
 三蔵は独り口中でつぶやいた。そっと視線を八戒へ送る。長めの前髪がバンダナをはめた額に散りかかり、どこがどうとは言えぬが、ひどくなまめかしい。閉じられたまぶたの皮膚は静脈がすけて見えそうだ。顔色が良くなかった。白すぎる。きちんと着こんだ、露出の少ない緑の服。白い肩布をその上からつけている。悟空の家庭教師の頃と、その真面目なたたずまいは変わらない。
 しかし、ここ数日というもの。
 三蔵はこの黒髪をした従者の正体を知った。ひどくなまめかしい肉体だった。抱きつくさなくては、承知できぬほどに甘い。着こんだその緑の服のしたが、どれほど淫らなのか、三蔵は知っている。まるで媚薬を煮つめて擬人化したような男だったのだ。
「……ッ」
 その、男にしては長いまつげが伏せられ、その下で濃い翳をつくっている。半開きになった、形のよい唇。そんなのを見ていると、たまらない気分にさせられる。
「チッ」 
 三蔵は視線をそらした。たとえ八戒が寝ていても、そのキレイな顔をずっとは見つめていられなかった。見続ければ凶暴な自分のどこかが疼いて暴れ、また欲しくなってしまう。今は静かに寝させてやりたかった。
 三蔵は黙って僧衣のふところに手をやるとマルボロの箱を取りだした。金襴の袈裟が音を立てる。最近、タバコの量がてきめんに増えていた。その美麗な髪を揺らして自嘲するが、どうにもならない。本当にどうしょうもなくイライラするのだ。しかし、何にイライラしているのか、三蔵自身にも、うまく答えられなかった。

 それから、どのくらい時間がたっただろうか。

「あ……」
 八戒の長いまつげが小刻みに震え、緑色の瞳がゆっくりと開かれた。一瞬、ここはどこだろう、とでも問いたげな光を目に浮かべている。
 すっ、と視界のすみから何か、きらきらしたものが、外れた。あわてたような動きだった。ずっと顔をのぞきこまれていたような気がしたが、さだかではない。
「……すいません。すっかり寝てました」
「そうか」
 気がつけば、すごい至近距離に三蔵が座っている。てっきり寝ている八戒から離れてタバコでも吸っているだろうと思ったのに、そうではなかった。奇妙な緊張感が空気にあった。
「さん……」
 自分がいると、くつろげないのだろうか。不安に思って八戒が声をかけようとした、その瞬間。
「さんぞー! はっかーい! 」
 ビニール袋をかかげた悟空と悟浄の声がした。
「さかな! 」
 ほら! とでいうように、魚が入っているらしいビニール袋を頭上に突きだした。
「魚つかまえたぜ」
「食べよーーーー! 八戒ぃ。昼ごはんっ塩焼きっ塩焼き」
 にぎやかな声と、ざわめきと笑い声で、周囲はいっぱいになり、三蔵はさりげなく八戒から離れた。









 「ピンク色の雲(3)」に続く