ピンク色の雲(1)

「あっ……っ……」
 安宿の薄い壁のむこうから、
悩ましい声がする。
「ちっ」
 思わず、悟浄はタバコをアルミの灰皿の上で揉み消した。面白くなかった。愛煙するハイライトの深く重い匂いが部屋にただよう。ベッドサイドのテーブルの上で、燃えさしがたなびき、不吉に白い煙をくゆらせている。
「はぁっ……あっ」
 シミの浮いた、すすけた安宿の古ぼけた壁。そんな壁の向こうから漏れ聞こえる声は、悟浄も良く知っている声だ。淫らな肉を穿つ、粘凋な水音や振動まで伝わってくる。
「ああ、ああっ」
 くぐもった、でも興奮して悶絶しているいやらしい声。そんなに感じるのだろうか。あの金の髪をした男に抱かれるのはそんなにいいのだろうか。悟浄は親友の黒髪が、どんなふうに艶を放ってきらめいているのか、目の前にありありと浮かぶ気がして、そっと目を閉じた。
「あ、あああっああ、ああっ」
 耳をふさいでも感極まった喜悦の声が聞こえてくる。聞きたくないのに聞こえてくる。犯されているに決まっている。あのお高くとまった最高僧さまが、半妖である悟浄の親友を、無心に愛しているとはとても思えない。
 
 そう、悟浄の親友はここのところ、あのいけすかない最高僧さまに毎晩のように犯されていた。




 あれは、いつの頃だっただろう。


 雨が、ずいぶんと降りつづく頃だった。低気圧が空をおおい、沈鬱な厚い雲が頭上をおおいつくす。湿度をはらんだ大気が重い。じっとりと身体にまとわりつく。いやな天気だった。
 ジープで先を急ぐこともできない。
 そんな、ときだった。ずぶ濡れになりながらも、たどりついた宿で八戒が言ったのだ。2人部屋が2つ空いていた。その肩で白い竜が小さく鳴いていた。
「今夜の部屋わりはどうしましょう」
 ひかえめに下をむき、うつむいたまつげが震えている。仲間へ告げながら、恐らく八戒はこころづもりをしている。自分と一緒に、同じ部屋に泊まって欲しい相手がいるのだ。こんなふうに気圧が低くて、古傷が疼き、頭が痛くなるいやな夜は、昔の記憶をぶり返してしまうようなこんな日には、一緒に泊まって欲しい相手がいるのだ。悟浄には良くわかっていた。
「ご……」
 八戒の唇は、確かに 『ごじょう』 と形をとろうとしていた。空を描いた唇の軌跡は、赤い髪の親友の名をつむごうとしていた。
 それなのに。
「明日からの、行程を地図で確認したい」
 横合いから三蔵が冷たい声で告げた。感情の入らぬ、冷静な声だった。
「ここからの道のりはジープでは厳しいかもしれん。検討が必要だ」
 否やを言わせぬ硬い声だった。他のものの意見を拒む口調だ。白い僧衣を着た白皙の美貌。 震えがくるほどに整った、その姿は人間ではないかのごとく麗しい。紫の、美しいとしか表現のしようのない瞳が、まるで月に住む天人か魔物のようだ。
「さん……」
 八戒の舌が絡まった。思いもよらぬ提案だった。悟浄と同部屋を告げようとした言葉は空に浮いた。
「じゃあ、八戒と三蔵でひと部屋な。決まりじゃん」
 悟空の無邪気な声がした。純粋で明快な精神のみが出せる無垢な声だ。
「それと俺と、悟浄でもう一部屋な」
 大好きな保父さんと大切な養い親は、だいじな大人の相談ごとがあるのだ。そう信じて疑わない澄んだ表情だった。
「ご……」
 八戒が言葉をにごす。間違いない。この男は、こんな宵は、惑う自分の精神や肉体を、赤い髪の親友にあずけたかったのだ。色事に長けた男に預けて甘えたかったのだ。そうに決まっている。それなのに。
 モノクル越しに悟浄にすがるような目をむけていた。
「ああ、頼む」
 三蔵は、この冷たいほど美麗な僧は、そんな八戒の気も知らず、指にはさんだマルボロの煙をゆっくりと唇から吐きだした。
「おう、分かった。行くぜ悟浄」
 茶色く短い髪がゆれる。黄色いマントをひるがえすと、悟空は悟浄へ声をかけた。
「あ、ああ」
 あっという間のことだった。しかし、確かに否を唱えるにも至らぬようなことだ。
「八戒」 
 心配になって、ちら、と悟浄は横目で親友を流しみた。緑の目をした、整った顔立ちは、どこか所在なさげだった。
「はは、確かにここから先のルートは、ちょっと考えた方がよさそうですからねぇ」
 眉尻を下げて、ひとのいいお兄さんふうに、笑っている。
 悟浄はそんな親友を横目に首をかしげて思案した。肩先でさらさらと赤い髪の毛が音を立てる。
 もし、どうしようもなければ、悟空が寝しずまってから、部屋のドアを叩くことだろう。眠れないんです悟浄。そう言うだろう。そうしたら、夜の街へとこのしどけない男を連れ出すだけのことだ。
 目の前にいる、良識ありげで控えめな黒髪の男が、タガが外れると、どんなに淫らになるのか悟浄だけは知っていた。月の宵や、天気の急激に変わる夜などは、独り寝が耐えられないらしい。昔、長安で一緒に過ごした家での日々のごとく、ドアがたたかれ、『眠れないんです、悟浄』 と苦しげに告白される。 そんな夜は、八戒はどんな行為も拒まない。いや、拒めない。どんなに卑猥でいやらしい行為でもその長い両脚を開いて受けいれ、悟浄の身体の下で喘ぎ蕩けてしまう。メガネをはずした素顔の八戒のなまめかしさ……それは悟浄だけが知っている八戒だった。

 おそらく、今夜はそんな夜なのだ。

 しかし、その夜、悟浄の部屋のドアが叩かれることはなかった。
 いや、その夜以来、ドアが叩かれることはなくなった。
 どんな、雨の宵だろうと嵐の日だろうとだ。

 あの男が、悟浄に向けてのばした八戒の腕を、押さえつけて力づくで抱きよせたのだ。

 明らかだった。


 
「さん……」
 細い痩躯を震わせて、安宿のベッドの上で黒髪の男が気を失う。
「八戒」
 金の髪をした最高僧が、その額に唇を押しつけるようにしてくちづけた。





――――そんな西への旅の途中。

 とある、朝。

 宿の食堂は、きらきらとした朝の光に満ちていた。
「よお、八戒。具合だいじょーぶ? 」
「え? 僕は具合なんか悪くありませんよ、だいじょうぶですよ悟空」
 八戒が詫びる。心なしか顔色が紙のように白い。豪華でもなんでもない普通の食堂だが、白米の炊けるほの甘い匂いが空気にただよい、スープのおいしそうな香りがする。八戒は悟空の向かいの席へ椅子を引いて座ろうとした。
 そのとたん、
「っ……」
 その痩躯がふらついた。黒い前髪がゆれる。いつも着ている緑色の上着。その腰のあたりを覆う、すそがめくれた。切れ目のはいった布地ごしにしなやかな腰が一瞬みえた。そのまま、よろけそうになったのを、円形の卓へ手をついて倒れそうなのをかろうじて支えている。
「八戒! 」
 目の前の悟空があわてたように金色の大きな目をみはった。
「大丈夫か」
 横から、革の上着を身につけた力強い腕がのびた。男っぽい手で八戒の肩を強引にささえる。
「すいません。悟浄」
 ほっとしたような口調で八戒は礼を言った。
「まったく」
 悟浄の手で椅子が2つ分、引かれる。床と椅子の間で鈍い摩擦音が立つ。悟浄は八戒の隣の席へ座った。丸いテーブルに椅子は5つか6つ置かれているのに、そこを八戒と空間も空けずに隣へとくっつくようにしてぴったりと身体を寄せてきた。
「ナニ、ふらふらしてんのよ」
 不安定な八戒を横から支えている。
「ははは、情けないですよねぇ。すいません」
 運ばれたお茶のひとつを、悟浄がさりげなく八戒の前へ置く。陶器の湯のみが、木の卓と触れて、硬く澄んだ音がした。お茶のこうばしい香りがふわりとただよう。
「ありがとう悟浄」
 そっと八戒が横から手を伸ばして受けとる。両手で暖をとるようにして包むと、口をつけだした。
 その細い指の間から、湯のみの模様が、見え隠れしている。よくある、中華風の赤い渦に似た模様だ。小さな螺旋が無限につながっているかのような縁起ものだった。
「朝ごはん、八戒の分はお粥(かゆ)にしてもらう? 」
 悟空が金色の目をきらきらさせながら言う。
「おう、サルにしちゃ、気が回るでないの」
 にやり、と傷のある頬がいたずらっぽい笑みを刻んだ。
「うっせーよ悟浄。悟浄は食うなよ」
 たちまちふくれっつらになる悟空の背後から声がした。
「うるせぇ。静かにしろ」
 金の糸のような豪奢な髪をゆらして、現れた人影は、誰何する必要もなかった、こんな男はひとりしかいない。
「さんぞ! 」
「遅せぇじゃん」
 下僕どもが口をとがらす。
「うるせぇ」
 その紫の視線は悟浄と八戒の方へ真っ直ぐにむけられた。必要以上にくっついて座っている、いかにも親友同士といった男ふたりをにらみつける。まるで恋人同士のように仲がよさそうなふたりを見て、形のよい眉を嫌そうにひそめている。
「……チッ」
 三蔵は椅子を引いた。背に中華風の模様の彫られた木の椅子だ。八戒のちょうど向かい側に座る。そちらだとむしろ悟空と席が近い。イライラとした調子で白い僧衣のふところを乱暴にさぐっている。マルボロでも吸いたいのだろう。
「おい、灰皿」
 その声に反応したのは八戒だった。素早く目の前のテーブルの上を見わたすと、アルミ製の簡易な灰皿へ手を伸ばそうとした。
「ほらよ、鬼畜坊主」
 八戒の指が灰皿へふれそうになった瞬間、横あいから悟浄の手がそれを取った。邪険な調子で三蔵の前へ投げるように置く。
「……てめ」
 紫暗の瞳は剣呑な光を浮かべている。白い僧衣の袖から、手の甲まで黒い布地に包まれた腕。いつもおなじみの格好だった。しなやかな手がすらりと伸びて美しい。しかし、指先にはさんだタバコは心なしか震えている。
「てめぇら。まだ、朝メシ頼んでねぇのか。タラタラしてんじゃねぇ。すぐ出発するぞ」
 遅れて来たくせに、三蔵さまは勝手なことを言った。あいかわらず気短な男だ。
「すいません。僕、ぼーっとしちゃってて」
 そうだった、というように、八戒が手をあげて店のひとを呼ぼうとする。宿のチェックインや食事の注文はいつの間にやら八戒の役目になっていたのだ。
「いーって。病人がナニ言っちゃってんの」
 それを悟浄がすばやくさえぎった。すらりとした細めの眉に、切れ長の目。いたわるような視線を八戒へ送る。
「ちょっと、注文、いい? 」
 手をあげると、革のジャンパーの袖がゆれる。いくつもある丸いテーブルの向こうから、店員が笑顔でうなずいて歩いてきた。
「僕は病人じゃありませんよ」
 八戒が小声で悟浄の耳元へささやく。
「でも顔色悪ぃじゃん」
 悟浄もささやき声で返した。ぴったりと寄りそうようにしているので、悟浄の赤い長い髪と、八戒の黒い前髪が、重なって触れた。八戒の着ている緑の服に悟浄の赤い髪が良く映(は)える。
「はーい。注文なににいたしましょう」
 店員の快活な声に、悟浄と八戒の会話は中断されたようだった。その代わりのように、すかさず悟空がわめきはじめる。
「えーっと、これとこれとこれとこれと……」
 嬉々として悟空がメニュー片手に、ものすごい量を注文している。
「チッ」
 朝から三蔵さまは何度目かも、分からぬ舌打ちをした。その目には、鮮やかな緋色と緑が、寄りそうように映っていた。




 宿をチェックアウトして外に出た。いつもの年中行事。毎度おなじみ出発の時間だ。
「ジープ! 」
 八戒は小さい竜の名を呼んだ。中華風の服を着た背筋は、わざとらしくぴん、と伸びている。カラ元気に違いない。悟浄がその背へ困ったように声をかける。
「おいおいおい。本当に運転大丈夫かよ」
 悟浄は思わず頭をかいた。長めの赤毛が肩先でゆれる。夜、雨が降ったのだろう。足元の草がまだ濡れていた。朝日を受けて、かがやいている。美しい。
 忠実なジープが1回転した。大型の車へと変化する。カーキ色の車体が光を反射して輝き、小気味のいいエンジン音が周囲に響き渡った。
「大丈夫ですよ悟浄。問題ありません」
 しかし、運転席側のドアを開けて乗り込む八戒は、さっそうとしているとはとても言えなかった。どこか儚げな細い身体。それなのに、無理して気丈に笑っているといった様子だ。本調子でないのがあきらかだった。
「さんぞーサマ、無理して出発しなくてもいいんでない? 」
 切れ長の赤い瞳で、助手席を見やる。そこには、マルボロの白い煙がたなびいていた。金の髪をした男はすでに助手席に座っている。
「天気が今日しかもたねぇそうだ。しょうがねぇ」
 あくまでも、この男は冷淡だった。冷たい口調に、凍れる美貌。白皙の美貌と評される中でも極上の一級品。そんな三蔵だったが、本当に今日は取りつくしまがなかった。本当にそっけないようすだ。
 悟浄は口中でつぶやいた。
――――この冷血漢が。

「八戒、もしなんだったら、俺、運転かわるからな」
「ふざけんなバ河童。てめぇの運転なんざ乗ってられるか願いさげだ」
 三蔵の声の抑揚には険があった。いつもよりも、いくぶんか低かった。機嫌が悪いのだ。
「大丈夫ですよ悟浄。今夜、泊まる街は近いみたいですから。そんなに長く運転しなくてすみそうなんです。ね、三蔵」
「フン」
 三蔵はふいに横をむいた。酷薄なまでに整った横顔だった。高い鼻梁に秀でた額。形のよいやや肉厚な唇が、彫刻のごとき端麗な線をつくっている。そんな助手席の主へ視線を送ると、八戒は一瞬、ひどく切なげな表情を浮かべた。
「……ったく」
 後部座席から、舌打ちの音がした。悟浄だった。そう、そんな八戒の表情を見逃すほど、悟浄は抜けてはいなかった。







 「ピンク色の雲(2)」に続く