ピンク色の雲(10)

 そのまた、次の日の昼。
 ふらり、と天に住む魔物か月人のごとき様子で八戒は階下の食堂へと降りてきた。いつもの緑の服を着ている。長身なのにひどく細い。一瞬、悟浄は八戒に絡み付く天女の羽衣の幻影を見た気がした。三蔵に抱かれれば抱かれるほど、濃密な何かがこの男からは濃くただよってくるのだ。
「心配かけてすいません悟浄」
 八戒が軽く頭を下げた。伏し目がちな目元がひどく色っぽい。モノクルのふちが銀色に光った。
「……なんか、ますます、調子悪そうじゃんオマエ」
 そうつぶやく悟浄は思わず八戒へ手を伸ばした。その袖口で革製のボタンが揺れる。熱でも出てないか、確かめようとするようなしぐさだった。
「触るな」
 突然、冷たい声がそれを遮った。
「うるせぇよ。鬼畜坊主」
 悟浄が口をゆがめて声のした方をにらみつけた。憎しみのこもった緋色の視線を送る。食堂の黒い大きな円卓。そこへ八戒と身をすり寄せんばかりの近さに、三蔵はさりげなく座った。好意があるのを隠しもしない親密な距離だ。
 いつもと、違う。
「熱なんか八戒はない。メシがあまり食べられないんだそうだ」
 ぶっきらぼうな言い方だったが、心配さがにじんでいる口調だ。以前より情を感じる。離れがたい様子をもう隠しもしない。
「てめぇのせいだろうがよ、全部。このハゲ」
 悟浄はケンカを売った。かなりの高値で売った。鬼畜坊主を思いきり、にらみつけた。
「……てめぇ」
 紫色の瞳が気短な苛立ちを浮かべる。秀麗な額に、たちまち青筋が浮いた。その双肩の魔天経文がひらめき、僧衣のすそがゆれる。悟浄をにらんだまま、立ちあがりかけた。
「さんぞ! 」
 そんな三蔵の白い衣の袖を、隣で誰かがひっぱる。八戒だ。「こんなところで、僕の悟浄とケンカをしないでください」 とばかりに、腕にすがりついている。
「八戒」
 一瞬、この男にしては珍しいことだが、三蔵は毒気の抜けたような表情を浮かべた。愛しいものを見る目つきで八戒へ微笑んだ。自分にしがみついた八戒の手へ、自らの手をそっと重ねた。
「ちょ……」
 悟浄は目を丸くした。確かに一昨日とは何かが違う。いや全く違う。八戒といえば、抵抗しない。それどころか、三蔵に優しく手を握られて、目元を一瞬赤くした。
「チッ」
 三蔵があらためて悟浄をふりかえり、舌打ちをする。うぜぇ。その顔にそう書いてある。そのくせ、今日は悟浄の相手をする気はないようだ。しかたねぇ、八戒の頼みだ、てめぇ首の皮が一枚つながったな、八戒に感謝しろ。
 そんな、目つきで悟浄をにらむ。

 ふいに、空気も読まぬ、明るい声がした。
「まー、いーじゃん。八戒、何食べる? 食べられそーなモンある? 」
 悟空だ。大好きな食事の時間だ。うきうきしている。
 八戒はスープと青菜の炒め物なら、と呟いた。
「このいやな天気が終わればいいんですけど」
 八戒がつぶやくのに、悟空が反応した。その額で金鈷が渋い金色の光を放つ。
「じゃあさ、早く西に行かなくっちゃだな」
 にっこりと無邪気に金色の目を細めて笑う。
「西の方に行っちまえば、こんな天気ともおさらばできんじゃねぇ? 」
 悟空の言うことは一理あった。
「まぁ、そのうち晴れることもあるっショ」
 悟浄が眉間にしわを寄せてハイライトの煙を吐きだした。なんだかなにもかも納得がいかなかった。


 珍しくその日の昼食は、ケンカすることもなく静かに終わった。

 
 食堂から出ていくとき、ちら、と悟浄は切れ長の瞳で流し見た。三蔵と八戒が寄り添うように歩いている。
 一昨日とはあきらかに何かが違った。空気が違った。長年の誤解がとけたとでもいうような暖かい雰囲気だ。お互いを尊敬し、尊重しあっている。
 ふたりで並んで肩を寄せあっているようすが、なんというかひどくむつまじい。目のやり場に困るとはこのことだろう。
「あ」
 八戒が、またふらついた。たたらを踏んで、壁に思わず手をつく。木の壁を打つ音がした。緑の服のすそがゆれる。
「だいじょうぶか」
 すかさず、三蔵が八戒の背を支えた。とはいえ、密着するようにして歩いているのだから、八戒は実のところ倒れようがなかっただろう。
「す、すいません。僕みたいなデカイのが。あはは、こんなところでふらついちゃって」
 いかにも子供に優しい保父さんっぽい笑顔で八戒が笑う。人畜無害の、ひとのよさげな表情だ。モノクルがずれたのか、手をあてて、なおしている。
「めまいとかも、するんだろうが。隠すな」
 三蔵が眉間にしわを寄せる。心配している。ものすごく心配している。長い指で、八戒の黒い前髪をかきあげて、その整った顔をのぞきこんだ。モノクルをはめた右の目をじっと見つめる。
「あはは。三蔵って意外に、心配性なんですね」
「うるせぇ」
 紫色の視線と緑色の視線が正面から絡みあう。なんだか、うっとりするような陶然とした多幸感のようなものに、三蔵と八戒のいる周囲の空気が満たされている。バラ色の空気だ。
「すいません。貴方に心配かけて」
「悪いと思ってんなら、もっとメシを食え」
 見つめあったまま、そんな言葉をささやきあっている。そのうち、三蔵は、そのまま八戒のあごを指でとらえ、唇をそっと近づけた。
 悟浄は頭を殴られたような気分だった。思わず、
「……なんか、ピンク色の雲、みてぇなのが、アンタらのまわりをふわふわしてんだけど」
 呆然と呟いてしまった。
「うわ。悟浄。いたんですか。ここ、通りたいんですね? 前で、グズグズしちゃって。邪魔してすいません」
 後ろに悟浄がいることすら忘れていたらしい。八戒が恥ずかしそうな笑顔で詫びる。その目元が照れたように赤いのを悟浄は見逃さなかった。
「なんだバ河童。うぜぇ、こっち見てんじゃねぇよ」
 八戒の肩を抱いたまま、三蔵が口をゆがめた。くちづけをしようとしていたのを、隠しもしない。悪びれないようすで、悟浄を紫の瞳でにらみつけた。
「ったくなんなワケ」
 思いっきり悟浄は口をゆがめた。わりにあわなかった。心から心配していた親友は、いけすかない鬼畜坊主と見つめあったりしちゃって、すっかりうれしそうなのだ。エロ坊主の方も、態度が以前とまったく違う。八戒を守るかのように優しい態度で寄りそっている。以前よりも堂々としている。旦那みたいな立ち居ふるまいだった。納得がいかなかった。
「なんなの、これ」
 呆然とつぶやく悟浄に三蔵が吐き捨てるように言った。
「俺と八戒は部屋に戻る。てめぇ、聞き耳たてたり、のぞいたりすんじゃねぇぞ」
 こんなセリフを、三蔵様は極めて麗しい真面目な表情で言ってのけた。美しい肉食獣が、獲物の奪いあいで相手を威嚇するときに出す声に似ている。
「さ、三蔵」
 八戒が耳まで、ゆだったように赤くなる。恥ずかしいらしい。きちんと首までとめたえりの立った服、そのえりの陰から、三蔵のつけたくちづけの跡がいくつもいくつもうっすらのぞいている。
「な……」
 理不尽だった。悟浄は何も間違ったことなどしていない。きわめて不条理で理不尽だった。悪いのはあの馬鹿坊主のはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか、まるで分からなかった。
「アンタがヤりまくるから、八戒が良くなんねーんだよ。このエロ坊主」
 階段をあがって遠ざかってゆくふたりの後ろ姿へ、悟浄は思いっきり毒づいた。前髪のひときわ長い2筋の髪がふるえる。
 毒づくしかなかった。






 「ピンク色の雲(11)」に続く