花の葬列(5)

 日が暮れて、森の中。
 ジープを森の木の陰に横付けにした。ちょうどおあつらえ向きに湖があったのを幸い、野宿をすることにした。
「今日は追っ手、来ませんでしたね」
 八戒がやれやれとばかりに運転で疲れた腕を伸ばしながら呟いた。
「まーね。そう毎日じゃ敵さんも飽きるでショ」
 悟浄が軽口を叩く。
「悟空、火をおこしますから、枯れ木を拾ってきて下さい」
「えー」
「嫌なら、今日のご飯は全員サバの缶詰です」
「ええー」
「焚き火を起こせたら、カレーライスです。悟空には大盛りです」
「俺がんばる! 」
 たわいもない平和な会話が延々と続く。家庭的な空気が漂った。悟空は枯れ木を集めに行き、八戒は食事の支度をしだした。
「河童! 早くテント張れ。雨でも降ったら面倒だ。ぐずぐずすんな」
 三蔵が仕切りだした。
「……へいへい。人使い荒いねぇ」
「そこの突っ立ってるデカブツもだ」
 最高僧は捲簾を睨んだ。
「……えらそーだけど、アンタは何すんの」
 捲簾がごもっともな疑問を呟く。
「俺は監督だ。下々は俺の指図に従ってりゃいいんだ」
「…………」
 傲岸不遜の見本みたいな三蔵の態度に、捲簾が吸っていたタバコを口もとから落とした。
「ま、こういうお方なのよ」
 ポンと悟浄が捲簾の肩を叩く。慣れているのか顔色も変えない。
「なんか言ったか」
 低い声で三蔵が言い返す。
「いーえ別ッに」
 悟浄が真顔で首を横に振る。
「知ってるぞ。こういうのツンデレっていうんだろ」
 ぼそっと捲簾が言った。
「シッ。声が大きいっつーの」
 とぼけた会話をしながら、親子のように似ている二人はテントを張り、寝袋を並べだした。
 驚いたことに、ロープを結ぶのも、テントを引っ張るのも、捲簾はお手のものだった。鮮やすぎる手つきだった。
「すんごい。慣れてるね。オタク」
 悟浄が思わず賛嘆の声を上げる。
「あ? そうか? 」
 捲簾には自覚もなにもなかった。淡々と言われたことをこなしているだけだ。
「何? 今まで、結構こーゆーアウトドア系だったんだ? 」
 素人ととは思えぬ手際のよさに、悟浄が目を見張る。目の前で、捲簾は次々と的確にロープを結んでいった。
「いや、小隊を連れてりゃ、野営くらい……」
 ぼろっと捲簾は口を滑らせた。
「え? 『しょうたい』? 『やえい』? 」
 聞き慣れぬ『小隊』、『野営』という単語を捲簾が使ったので、悟浄が聞き返す。
「あ……」
 捲簾は突然額を押さえた。頭痛がした。
 もつれ合う記憶の糸が一瞬ほどけた気がしたのだ。
(そうだ。よくこんなことやっていた気がする)
 捲簾の脳裏に、いつも隣にいた秀麗な容姿の男が浮かんだ。肩までかかる長い黒髪に眼鏡をかけている。
(アイツと)
 もう少しで思い出せる、というところで。
「晩ご飯できましたよー」
 八戒がみんなを呼ぶ声が聞こえ、話はそこで立ち消えになった。
 夕暮れの空に細くたなびく雲がうっすらとかかり、どこからか巣に帰る鳥の鳴き声が聞こえる。平和で穏やかな夕飯どきとなった。







「食った食った! 」
 悟空が何杯目かのお代わりの後、やっと気が済んだらしくその場にひっくり返った。
「食い過ぎだっちゅーの」
 悟浄が呆れたように片眉を上げる。
「ご飯、二十合焚いておいて良かったですよ」
 のほほんとした笑顔で八戒が微笑んだ。湯のみを両手で抱えるようにして、食後のお茶を啜っている。
「腹壊すぞ」
 ぼそっと三蔵が低い声で呟いた。こちらは食後のマルボロを一服している。
「でも、このカレーライスうまかったな」
 捲簾が賞賛する。こんなに美味しいカレーは食べたことがなかったのだ。
「そうですか、お口にあって何よりです」
 八戒は料理の腕前を褒められて満更でもない。うれしそうに微笑んだ。
 その、優しげな笑顔に、捲簾はうっかり見とれそうになった。
(いけねぇ)
 脳裏に、やはり黒髪、眼鏡の綺麗な男の姿が浮かびかける。しかし、はっきりと像としては浮かばない。ぼんやりと影絵のように、存在が分かるだけだ。
「……アンタ」
 ついつい、捲簾はその笑顔につりこまれるようにして、呟いた。
「俺とどこかで逢ったことねぇか? 」
 捲簾の言葉に、八戒が驚いて目を見張った。捲簾の凛々しい切れ長の瞳と、八戒の綺麗な碧の瞳が絡み合う。捲簾の言った言葉は、八戒にとっても図星だったのだ。
 途端に、独特の空気が場に流れ出した。
「…………」
 最高僧の眉が不機嫌そうにつりあがる。
「ちょっとタンマ」
 悟浄が捲簾と八戒の間に割って入った。
「ドサマギに何口説いてやがるジジイ」
 三蔵が殺気を込めて牽制する。
「いや、本当に初めて逢った気がしないんだって」
 捲簾が困ったような顔をした。
「くをー! 何言っちゃってんの。目の前で口説くな! 」
 悟浄がどうにもならない気分を叩きつけるかのように、怒鳴った。
「いや、だから本当に」
 収拾がつかなくなった騒がしい場に、こっそり八戒はため息をついた。
「僕、後かたづけしてきますね」
 八戒は誰ともなしにそう呟くと、その場をそっと抜けて後にした。




『俺とどこかで逢ったことねぇか』
 捲簾の声が甘く耳朶(じだ)に残る。
 訊かれたとき、心臓の鼓動が跳ね上がった。不思議な感覚だった。
「やだなぁ」
 唇に苦笑を浮かべ、八戒は頭を振った。
 いつの間にやら頭上には丸く美しい月が出ていた。







 確かに月が美しい夜だった。一夜の宿と決めた場所は、気持ちのよい草原に森と湖を備えており、綺麗な公園を連想させる。森の木々も煌々とした月の光を浴びて、幻想的な影を地に落としていた。
「さてと」
 すっかり皿を洗い終わり、水切り棚に置き終わると、八戒は濡れた手を布巾で拭いた。
 眼前には美しい月がある。綺麗すぎて寂しいほどだ。湖水にもそれは姿を映し天と地ふたつに月があるように錯覚させる。
 爽やかな風が通り抜けてゆく。
 八戒はちらと後ろを振り返った。仲間たちは、賑やかに談笑しているようだ。ご飯も食べて、後は寝るばかりという束の間のひとときだった。
 そっとそんな輪を離れて、八戒は湖に向かって歩き出した。背後で、焚き火の明かりがゆっくりと遠くなる。
 まだ、誰も八戒がいなくなったことに気がついていない。食後の後かたづけでもしているものだと思っているだろう。
 八戒は湖に面した大きな楡の木の根元にそっと腰掛けた。湖の水面が、手に届くほどに近い。
「水に映った月……か」
 独り言を呟いた。水面に映った月は虚像だ。本物ではない。でも本物に見える。
 八戒は寂しげな表情を浮かべた。ときおり、自分の辛い過去をついつい思い出してしまうことがあった。
 最近は宿に泊まっても相部屋だ。ひとりきりになる時はない。そんなときはずっと忘れたふりをしているから、誰もが八戒は忌まわしい過去をきっぱりと清算し、もう一区切りつけたのだと思っているだろう。
 でも。
 いや確かに区切りはつけていた。ついているつもりだった。
 
 それでも、ときおり罪深い自分の過去や、自分の心の傷を見つめ直したくなるのは、どうしようもなかった。
 業というものだろうか。忘れようとしても忘れられなかった。薄れてゆくことはあっても完全に忘れ去ることはできなかった。
 守れなかった約束。守れなかった綺麗で細い手。思い出せは未だに狂いそうになった。

 湖には、相変わらず月が映っている。
「虚像か」

 表向き、帳尻を合わせて形を保ってるけど、その実は何も何もない。

 一瞬、どこか僕みたいだ。と続けそうになって、八戒は自嘲に口を歪めた。
 こんな表情は、確かに、軽々しく仲間にだって見せてよいものではなかった。特に悟空などは、露骨に心配するだろう。こうやってひとりで味わうのがふさわしい薄暗い感情だった。

 そんな物思いに耽っていたときだった。
「何、たそがれてんだ」
 不意に暗闇から言葉を掛けられた。
「……え」
 驚いて目をみはった。闇の中、最初タバコの火だけが紅く揺らめくのが見えた。背後の木の陰から捲簾が姿を現す。
 闇に溶けているかのようでその癖、闇の数倍は華やかだった。黒く短い髪に黒い服、光を裂く闇のように鋭く、精悍な姿。声を掛けられなかったら、存在に気がつかなかったろう。
「……見てたんですか」
 決まり悪そうに八戒は笑った。
「いや? うるせぇ奴等から離れてココでタバコ吸ってたら、アンタがやたらとセンチメンタルな顔してっから、なんだと思ってうっかり寄っちまっただけだ」
 捲簾が遠慮容赦ない態度でずけずけと言った。
「……ご挨拶ですね。デリカシーってものがないんですか。貴方には」
 八戒が心持ち冷たい口調で呟き、きびすを返そうとした。
「ったく」
 しかし、捲簾はそんなことには怯まず、意に介さなかった。その大きな手を無造作に八戒へと伸ばした。
「鬱は健康によくねぇぞ。鬱は」
 ぐしゃぐしゃっと手で八戒の髪を掻き混ぜるようにして、頭を撫でた。
「何、落ち込んでやがる。アンタ結構」
 捲簾は八戒の顔を間近で覗きこんだ。眉間の徴(しるし)が精悍な顔立ちを引き立てる飾りのようだ。
「繊細だな」
 八戒の前に、その黒曜石にも似た切れ長の瞳が大写しになる。ごまかしの効かない、何もかもを天空から見通す、鷹のような目つきだった。
「……勝手にひとのこと決め付けないでもらえます? 」
 八戒はことさら憎まれ口を利いた。無防備な表情を、こんなどこの馬の骨とも知れぬ男に見られていたかと思うと、恥ずかしくて、言葉がきつくなった。
「アンタ、負けず嫌いだよな」
 くっくっと捲簾が喉で笑った。気ばかり強い年下の八戒を宥めるような笑い方だった。
「でもよ」
 捲簾は軽く背をかがめた。八戒だとて、背は低くない。それなのに捲簾の方が、少し背が高かった。
「たまには負けたっていいじゃねぇか」
 上ばかり伸びて、肩幅のわりに痩躯の八戒に比べ、軍人の捲簾は鍛え上げ完成された男の肉体を持っていた。
「……! 」
 そのまま、腕の中に八戒を抱きしめる。
「泣くなって」
「僕は泣いてなんか……! 」
「泣いてるみてぇな顔だったぞ」
 叱りつけるように告げられ、強い力で正面から抱擁される。八戒は金縛りにあったように動けなかった。
「なんでだか知らねぇ。俺はあんたにそういう顔されるのが、イヤっていうか……すげぇ辛い」
 耳元に囁かれる。
「初めて逢った気がしねぇ。確かに、今の俺には昔のことは思い出せねぇ。だけど……」
 捲簾の表情が真剣になった。精悍に整った輪郭線がよりいっそう鋭くなった。
「ずっと、ずっとアンタを知ってる気がする。それだけは確かだ。ずっとだ。ずっと俺はアンタを知ってる」
 かき口説く、真剣で熱い声に、八戒はびっくりした。
「アンタはどうなんだ。俺に、こうされるのはイヤか」
 八戒は唾を飲み込んだ。突然の出来事にびっくりしていたが、それより驚いたのは、男にこんな風に抱きしめられても、何も嫌悪感が湧かない自分に対してだった。
 ごく自然に捲簾の腕の中に抱かれている。当然のことのように。
「……放して下さい」
 それでも、八戒は喘ぎながら告げた。どこかで本能的に相手の行動を許してしまいそうな自分に衝撃を受けていた。
「そうか」
 案外あっさりと捲簾は手を放した。途端に八戒は思い切り息を吸った。呼吸も止まるような、劇的で、甘い抱擁だった。
「ま、今夜どうこうしようってワケじゃねぇ。だが、まぁ」
 捲簾は何もかも心得た年嵩の男の表情で呟いた。
「今度、落ち込んでて、何もかも忘れたくなったら、俺んトコ来い」
 伊達な、ひとたらしの表情を浮かべながら、捲簾が囁く。
「何もかも忘れさせてやる……ベッドで」
 甘い毒のようにカフスの嵌まった耳元に囁いた。
「な……! 」
 八戒はびっくりした。思わず顔を朱に染めて睨んだが、捲簾は素早く背を向けひらひらと片手を振った。
「じゃ、またな」
 にやりと伊達に微笑まれる。男っぽい色気のある笑顔だった。






 捲簾はとうとう、八戒の落ち込む理由も、過去も訊かなかった。それは、あの男なりの優しさなのだろう。
 美しい月夜に、憂鬱な物思いに陥っていた八戒だったが、もうそれどころではなくなった。
「あの人って……一体」
 以前にも、こうして抱きしめられたことがあるような気がする。奇妙な既視感があった。妙に懐かしい。ずっと抱かれていたいような。
「バカな」
 八戒は自分でも分からぬ心の動きに戸惑いながら、のろのろと湖のほとりを引き上げることにした。
 賑やかな仲間のいる場所へ行き、寝袋の取り合いの仲裁でもしてこの不思議な気持ちから逃れたかった。
 その夜。
 八戒の目の前には、捲簾の鋭くも優しい視線がちらついて、いつまでも離れなかった。




 「花の葬列(6)」に続く