王招君(5)

 当の八戒は、その日の午後皇帝の使いによって突厥へ輿入こしいれせよとの命を受けたところだった。
 先々日、絵師にそんなことを言われていたから、多少の覚悟はあったはずだが、心のどこかでまさかと思っていた。あまりにも現実味のない話だったからだ。

 突厥は長安の都から何千里も何万里も離れている。文化果つる寒気吹きすさぶ荒々しい蛮地だと伝えられていた。
 遠い遠い、見たことも無いそんな恐ろしげなところへ、たった独りで八戒は送られるのだ。

 何も悪いことなどしていないのに。

 人生は本当に不条理だった。

 八戒は思わず、自分で自分の腕を組むようにして手を置いた。不安だった。上着の袖を握り締める。
 皇帝よりの沙汰を伝えにきた使者は、八戒の整った顔に目を剥いた。蛮地へ送られる者など、よっぽどヘマなことでもしでかしたか、醜いかどちらかだと思い込んでいたのである。
 それが、現れたのが水際立った容姿の八戒だったものだから、しばらく本当に本人かと首を傾げて呆けたように見つめていた。
 しかし、八戒が自分こそが八戒で間違いないと告げると、見る見るうちにその面を気の毒そうに曇らせたのである。
(こんな佳人がまたなんだって蛮地へ)
(もったいない)
 言葉に出さずともその顔にはそう書いてあった。

 八戒はため息を吐いた。
 ついてない。そういえば自分はずっとついていないのかもしれない。思わず果てのない自問自答をしそうになったとき、背後で軽い物音がした。
 何かと振り返ると、部屋の隅に飾っておいた薔薇が散っていた。美しい花弁がはらはらと床に舞っている。
「ああ、しょうがないですね。でも今まで良く綺麗に咲いててくれましたね。ありがとう」
 八戒は散ってしまった花びらを拾い集めようと、床に屈みこみ手を伸ばした。
(これは罰なんでしょうか)
 拾おうと思っても、指の隙間から軽やかな花弁がすべり落ちる。
(花喃が死んだのに生きている自分の)
 躰の内側から熱く込み上げてくるものに流されて、うっかりすると涙を浮かべそうになるのを八戒は必死で堪えた。
「……は。馬鹿ですよね。こんなことで……」
 しかし、中央の人間にとっては蛮地の突厥に送られるなど、身の毛のよだつようなことだった。流罪、遠島へ島流しと同じくらいのひどく重い罰である。
 しかも八戒に下ったのは輿入れせよとの命令だ。流刑の罪人だとて、刑期はあるだろうに、八戒の場合はそれもないのである。死ぬまでそこにいろ、蛮地に骨を埋めろと言われているのだ。
 それは無期懲役の宣告と同じであった。八戒は打ち沈み、うかぬ顔で散った花びらを拾おうと床に伏せていた。





 そんな、ふるいつきたくなるような佳人が悲しみに打ち沈んでいる部屋の外。壁一枚隔てたそこには怪しい影がふたつあった。
 瀟洒しょうしゃたたずまいの部屋から灯りが漏れてくるのをたよりに、狼が二匹外壁に張り付いていたのである。
「見えねぇ」
「角度が良くねぇ。……おい、こっち側からならなんとかなりそうだぞ」
「あ、本当だ」
 八戒は全く気づいていなかったが、部屋の外には何とか八戒をひとめ見ようと、捲簾と悟浄がいたのだった。
 ちょうど部屋の東南の隅にある、明り取り専用の飾り窓から捲簾と悟浄は中の様子を伺っていた。
「あれか? なんか床に座りこんでねぇか? 」
「床に座んのやめてくんねぇかな。顔が見えねぇよ」
 そんな軽口を闇のなかで捲簾と交わしながらも、悟浄は相手のしなやかな躰つきに目が釘付けになっていた。
 薄暗い蝋燭ろうそくの灯りだけでも分かる。その黒い絹糸のような髪に、白い襟足。面を伏せているために目立つすらりとした首の線と、やや広い肩の線。
 それにぞくぞくするようなしなやかな体が繋がっている。思わず抱き寄せたくなるような細腰が目の毒だ。
 一体何をしているのか、床に散った薔薇の花びらを拾おうとしたまま、その動きを止めていた。
 そして、
 八戒は自嘲するかのように首を振ると、ようやくその顔を上げた。
「……! 」
「お……! 」
 捲簾と悟浄が息をのんだ。
 八戒の緑色の瞳が蝋燭ろうそくの灯りを映して反射した。緑色の玉髄ぎょくずいで出来ているようなその瞳は大きく切れ長な弧を描いている。優しい柔らかな印象の瞳だった。
 細面の輪郭は狂いひとつない精巧な工芸品のようで、目立たずに整った鼻梁びりょうがその顔の印象をさらに非の打ち所がないものにしていた。派手さを感じさせるものは何もない。
 しかし、見つめているうちに、その唇も、瞳も、爪の先までもが綺麗に整い、全てが完璧だということに気づく。
 それは、見るものを唖然あぜんとさせる美であった。控えめでかつ、非の打ち所のない美貌。捲簾と悟浄の見ているのはそういう種類の美であった。
 のぞき見られていることも知らず、八戒はその優しい面に愁いを滲ませて軽く首を振った。うつむき気味になると、睫毛まつげが部屋の灯りを反射して雲母うんものような煌めきをまとい、頬に長い影を落とした。
 そのうれいを帯びた様子は思わず悟浄に立場も忘れて駆け寄らせそうになるほどのものだったが、なんとか思いとどまった。
「……捲簾」
 どこか魂の抜けた虚ろな声で悟浄は言った。その視線の先は八戒に釘付けになっている。
「コイツ連れて俺、明日にでも国に戻る」
 悟浄はきっぱりと言った。その声は有無を言わさぬ決意に満ちていた。
「悟浄」
「手違いだろ。絶対これ。俺、漢の奴等の気が変わらねぇうちに、とっととコイツ攫って国に帰るぜ」
 悟浄の声は確信に満ちていた。
 大漢帝国がいかに大国だとはいえ、このような佳人が山のようにいるとは思えない。
 長安入りするときに、悟浄は街道を行き過ぎる女達の顔を注意して見ていた。確かに紅おしろいで器用に着飾ることには長けているようだったが、悟浄の見たところ基本的に無骨な草原の女どもと大した差はなかったのだった。
 男は言わずもがなであった。突厥の古老に「漢の武帝は美女三千に飽き飽きして最後は男を寵愛した」と聞かされていたので、漢では男の方が綺麗なのかと思っていたりもしたが、そんなことは特になかった。恐らく寵愛を受けたとかいう男は例外中の例外なのだろう。
 そう、いま眼前にいる八戒のように。
「捲簾。そうと決まりゃ話は早ええ。とっとと帰るぞ。あのいけすねぇ元帥といけすかねぇ皇帝にそういっとけ」
「おいおい。悟浄! 」
 やんちゃ坊主そのままの口調で喚く悟浄を慌てて諌めながら、長居は無用とばかりに捲簾と悟浄はその場を退散したのだった。


 しかし、もう少し捲簾がその場に長くいたら、その後とんでもない人物と鉢合わせしていたかもしれない。
 それは
 西域はいうに及ばず漢土までその高名が轟く
 第三十一代東亜、玄奘三蔵法師。
 三蔵は捲簾や悟浄と入れ替わるようにして八戒の元へと訪れていたのだった。






 鬼畜坊主の金糸の髪が光る。
「何、やってやがる」
 こちらは突厥の狼どもと違って身を隠す必要もない。何しろ八戒の亡き姉に経を読むという大義名分付きだ。堂々と正面の入り口から部屋に入ってくる。三蔵の僧衣が蝋燭ろうそくの灯りで柔らかく浮かび上がった。
「あ……」
 八戒は、自分が床にいつの間にか座り込んでいるのに気がついた。
「す、すいません。お出迎えもしないで」
「別にいい。どうした」
 三蔵はまるで八戒を助け起こすかのように屈み込んだ。
「こうしてお会いできるのは、もう今夜だけかもしれません」
 八戒は思わず呟いた。まるで流刑人のような自分の立場が後ろめたかった。突厥に送られるのも嫌だったが、何よりも嫌なのはひょっとしたら三蔵に二度と会えないことかもしれなかった。
 唐突に出てしまった自分の言葉に思わず八戒は自分の口を自分の手で押さえた。遅かった。一度声に出した言葉は戻らなかった。
「何言ってやがる。まさか」
 三蔵の紫暗の瞳が蝋燭の灯りを映して剣呑けんのんな光を帯びた。
「もう俺に会いたくねぇってのか」
「いいえ! 」
 瞬間的に八戒は応えていた。その強い調子に、三蔵が目を丸くする。
 思わず隠していた自分の本音をこぼしてしまって八戒はその目元に朱をいた。三蔵はその口元に人の悪い笑みを浮かべた。一見、貴公子めいたこの男の本性が透けて見えるような嗜虐的な笑いだ。
「……じゃあ、俺に会いたいってのか」
 三蔵はまるで八戒との距離を詰めるようにして、床に腰を落として隣りに座った。三蔵を避けるように、八戒が後ろへといざって逃げようとする。
 逃さないとでもいうように、三蔵がそれを追い詰めた。
「どっちなんだ。てめぇは」
 八戒は後ずさり過ぎて、とうとう背後の壁にぶつかった。その上に三蔵が覆い被さる。
「いけません! 僕は! 」
「うるせぇ。黙ってろ。この間の駄賃じゃとても足りねぇ。ワケの分からねぇこと言ってるから仕置きだ」
「な……! 」
 仕置きのわりにそれはとても甘美だった。





「だめ……なのに……」
「何か駄目だ。それより足開け、服が抜けねぇ」
 薄い蜻蛉かげろうの羽のような絹布で作られている八戒の服を三蔵は肌蹴はだけさせていった。象牙のような白い肌が、誘うように官能的だった。
 三蔵は滑らかなその白い首筋に噛み付くようにくちづけた。
「あ……! 」
 三蔵の腕の中で八戒は躰を震わせた。朱鷺色ときいろの胸の突起が震えている。三蔵はそれを塗り込めるように舌でねぶった。
「や、やぁ……」
「なんで会えないのか、教えろ。ったくてめぇの言ってることはわかりゃしねぇ」
 三蔵は八戒の両頬を優しくその両手で囲むようにしてとらえた。
「僕は……」
 八戒は喘ぐようにして言った。恐ろしい言葉を実際に音にすると、その恐ろしいことが現実のものになってしまう気がして怖い。そんな様子だった。
「――――突厥に送られるんです。だから」
 三蔵がその予期してなかった言葉に一瞬目を見張る。
「もう、僕はあなたにお会いできません」
 苦しそうに眉根を寄せて八戒は告げた。
「なんで――――」
 言いかけて、三蔵は思い当たった。自分が退治した碌でもない絵師のことを思い出したのである。
「絵師が……僕のことを醜く描いて陛下にお見せしていることは……知っていました。今回、突厥との縁組の話が来て……陛下は戯れに僕を輿入れさせようと思ったらしいのです」
 八戒は三蔵に組み伏せられたまま、淡々と説明した。男の躰の下に引き込まれ、ところどころ素肌をさらした艶めかしい姿だった。
 黙ってしまった三蔵に向かって八戒は無理な笑顔を浮かべた。
「やだな。そんな顔しないで下さいよ」
 三蔵が口を開いた。重い声色だった。
「てめぇはそれでいいのか」
 八戒はそれを聞いて更に明るい声を絞り出すようにして言った。
「ははは。突厥のところだろうとどこへだろうといきますよ。どうせ後宮にいたって飼い殺しにされるだけですからね。かえっていい話ですよ」
 まるで、つまらないことを聞かせた忘れてくれとでもいいたげな、本心を隠したその強気な様子に三蔵が眉をひそめた。
「……ったく」
 八戒が床に倒されたまま横を向いた。無言でその表情を隠すようにする。まなじりに涙が伝っていた。
 それを袖で隠そうとするのを、三蔵は腕をつかんで止めた。
「やせ我慢しすぎなんだよ。てめぇは」
 三蔵はまるで叱りつけるように言うと、八戒の頭を乱暴に片手で撫でた。
 黒い絹糸のようなその髪が、鬼畜最高僧の照れを含んだ愛情表現でぐしゃぐしゃになる。
「俺に会えなくなるわけないだろが」
 三蔵は呟いた。その言葉に八戒が思わず首を傾げる。
「……? だって僕は、もう早ければ明日、遅ければ一週間もすれば突厥へ」
 三蔵はその言葉に逆らうかのように、八戒の躰を引き寄せた。
「約束する。一緒だ」
 きつく八戒の躰を抱きしめる。
 再び八戒の眦に涙が溢れてきた。それを指先で拭いながら三蔵はなおも囁いた。
「約束する」
 八戒の頬を銀のしずくのように伝うそれを舐めとりながら、三蔵は八戒の躰の上へ再び身を屈めた。八戒が拾い損ねた薔薇の花びらが舞い上がって飛んだ。
「あ……」
 甘い八戒の吐息が闇に響き出した。微かな衣擦れの音が立ち、切れ切れに蕩けるような悲鳴が混じった。
 外では相変わらず夜半の月があたり一面を煌々と照らし出し、庭園に咲き誇る夜香花の香りはより一層強くなったようだった。




 「王招君(6)」に続く