王招君(2)

 一方。
 遠く離れた玉門関でそのようなことが起こっているとは露とも知らぬ長安の都では、後宮の宮女達は朝から浮き足立っていた。
「ねぇねぇ。こちらに玄奘三蔵法師さまが来られるって本当?  」
「玄奘三蔵さまって? 」
「あなた知らないの、西域の遠い国のお偉い法師さまよ」
「もうすぐここを通られるそうよ」
「どこどこ。見えない」
 かしましい宮女どもが黄色い声でさえずり、廊下へと詰めかける。
「おさないでよ! あ、ほら」
 玉のきざはしを越えて、螺鈿らでんつくりの床を踏み、透かし彫りを施された柱の群れを抜けて、三蔵が姿を現した。供にたった独り、茶色の髪をした少年を連れている。
「……お見えになった……! 」
 三蔵が登場した瞬間、宮女達は我を忘れた。
 華麗と表現するのも追いつかぬような容姿だった。颯爽とした様子で、背を伸ばし法衣の裾を払い足早にやってきた。
 白地のひとえに薄紫色の最高位を示す法衣を着ている。それは彼の神秘的な紫暗の瞳とまるで対になっているかのようによく似合った。
 金色の髪をやや隠して頭巾ずきんを被り、その上から尊い金冠を嵌めている。金襴の袈裟をまとったその姿は夢か幻のようでこの世のものとも思われない。
 冷たいほどに整いすました横顔には、高貴な憂いがほのかに滲んでいるようにも見えた。それは、辺りを圧倒して匂うような華やかさだった。
 一瞬、後宮中が静まり返った。
 しかし次の瞬間。
「ごらん遊ばされた? あの瞳の色……! 」
「紫の宝石のような瞳……! 」
「何てお美しいお坊様なんでしょう」
「あの整った美貌……! ああ、私もういつ死んでもいいわ……!! 」
 つんざくような大歓声が雨あられと降り注ぎ、後宮中が震動するかと思われるほどの黄色い悲鳴がこだました。
「あの白い玉のようなお顔……あんな殿方がいらっしゃるなんて……! 」
「ああ、もう私駄目。見てるだけでもう」
「ちょっと待って! ホラこっちをご覧になったようよ! 」
「図々しい! なんで三蔵様があんたなんか見るのよ! 法師様がご覧になったのはこっちよ! 」
「ええい。何をいう、この……! 」
 後宮どころか、禽獣きんじゅうおりだってこんなにうるさくはないだろうというような様相になった。
 そんな風に一変させた元凶の三蔵といえばすっかり額に青筋を立てていた。こめかみを押さえながら悟空を伴って必死で歩く。できるだけ宮女どもの方は見ないようにしているようだった。
「なぁなぁ。三蔵、だいじょうぶ? 」
「あ、あああ」
 口元をゆがめながら、三蔵は悟空に返した。止めようがなく手元が震えている。我慢の限界が近かった。
 そして、とうとう我慢できなくなったのだろう。長い廊下の端までくると、収まりそうもないどよめきに決然と対決するかのように叫んだ。
「やかましい!! てめぇら。ブッ殺されたいか! 」
 一瞬、それを聞いて後宮の端から端までが、静まり返った。
 仁王立ちして叫んだその声は存外低く、凄みのある声だった。叫んだ拍子に頭巾がはだけ、襟足の長い金糸の髪が陽光を浴びて煌めいた。
 大音声で叫んだ後、三蔵は暫く肩で息をしていたが、ようやく静かになった周囲に安心すると、睨みをきかせて立ち去ろうとした。
 が
 そうは甘くはなかった。
「お、お聞きになった? 」
「あの、お声……なんって素敵なのかしら!!  」
「男らしい低いお声だけどそこがまた良いわ」
「ああ! もうっ。もっと叱られてみたいっ」
 どよめきが、もの凄い音量のどよめきが倍返しで三蔵を襲った。黄色い大歓声が最初の倍以上になって返ってきたのだった。辺り中、女達の悲鳴と叫び声が錯綜さくそうし、卒倒するものも出る始末だった。
 三蔵は完全に頭を抱え、よろよろと倒れそうになりながら、廊下を必死で我慢して歩いた。
 完全に処置なしだった。



「よっ、ご苦労さん。遠くから悪ィな」
「まったくだ。ひでぇところだな。ここは」
 憮然ぶぜんとして三蔵は返した。招き入れられた部屋では、先の大后……要するに先帝の后であった観世音が人の悪い笑みを浮かべて三蔵の挨拶を受けていた。
「ま、そういうな。住めば都、長安も都ってね」
 カラカラと笑いながら観世音は返した。権威の象徴である大后の椅子を降りると、そのまま軽快な足取りで三蔵の座っている卓に気軽についた。
「で、オレになんの用だ」
 紫檀の材に夜光貝を嵌め込んで造られた卓に、玉でできた椀が侍女達によって並べられた。蘭の花が咲くような香りとともに、高貴な茶が注がれる。
 流石に、大后付きの侍女達は行儀がよく、三蔵目掛けて黄色い声を上げたりはしないものの、茶の用意をしながらぼうっとしたような視線を向けてくる。
 三蔵は、先ほどの狂乱というか阿鼻叫喚だった廊下での悪夢のような一部始終を思い出し、肩を竦めると茶を受け取った。
 観世音が口を開いた。
「話ってのは他でもねぇ。三蔵、お前、還俗してこの朝廷に入ら」
「断る」
 三蔵の返答は早かった。
「……まだ、何も言ってねぇだろが」
「大体想像はつく」
 三蔵はむっつりと大后に返した。
「フン。読まれちゃしょうがねぇな。そうよ、ウチは大漢帝国なんざ言って威張っちゃいるが、最近は外むきゃ匈奴やら突厥やらの異民族に囲まれてひぃひぃ言ってる始末だ。そこでお前さんみたいな西域に詳しいヤツが是非必要なんだがな」
 三蔵は茶をすすりながら、横を向いた。
 聡明な大后のいう通りだった。
 いささか平和ぼけしている漢の都長安を、砂漠の民や草原の民は虎視眈々こしたんたんと狙っていた。そんな状況だというのに、漢では儒者や文人が宮中でも幅を利かせ、武人が才を振るう場が奪われている。
 急雲風を告げる西域の事情には目を瞑ったまま、宮廷内での権力闘争に血道を上げているのが、漢の宮廷人の実態だったのだ。
「んなの、皇帝がなんとかしやがればいいだろ」
「皇帝……かぁ。金蝉ねぇ……なんか最近アイツ変なんだよな」
 大后はぼやいた。
「いや、なんてのかな。アイツ妃だった斉天大聖に死なれてから様子が変っていうか」
 ため息を吐きながら大后が卓に肘をついた。
「なんでも、後宮の女を選ぶのも、似顔絵かなんかから選んでるらしいな」
「お前、詳しいな。どうしてそんなこと知ってんだ」
「まぁな」
 三蔵の脳裏に、花の陰から見た端正な佳人の姿が目に浮かんだ。
 黒い艶やかな髪にしなやかな躰。耳にはカフスを嵌め、手には華奢な腕輪をしていた。青い長衣が映える緑色の深い瞳が驚いたようにこちらに向けられたとき、三蔵はほとんど痛いような胸の疼きを感じたのだった。
「……三蔵」
 あのとき、どうして俺は相手の名を聞いておかなかったんだろう。
「三蔵! 」
「あ、ああ」
 瞬間、気が夢想で飛んでいた。
 三蔵が慌てたように返事をするのを見て、大后は首を傾げた。この男にしては珍しいことだった。
「ったくなんだよ。突然ボーッとしちまって。まぁいい。国に帰るまで、どうせ一週間くらいはいるんだろ。また来てく」
「断る」
 三蔵は眉根に皺を寄せて冷たく答えた。後宮の女どもの歓声を思い出すと心底げんなりした。あんな目に遭いながらこんなところへ来たくはなかった。
「分かったよ。分かった。……宮女どもが嫌なんだろ。分かった分かった。帰りはコレに送らせるから」
 大后は手をひとつ打つと、とばりの影に控えさせていた人物を呼び寄せた。
「お前は……」
 三蔵は目を見張った。華やかな鳳凰の刺繍ししゅうが施された絹の帳の陰からすらりとした痩躯が姿を現した。
 それは、絵師の毒牙から自分が救い出した、かの麗人。
 八戒だった。

「なんだ。お前ら知り合いか」
 大后はふたりの顔を交互に見やった。口元には例の人の悪い笑みを浮かべたままだ。
「い、いいえ。そういうわけではありませんが……」
 八戒が手を振ってしどろもどろになる。照れているようだ。
「うるせぇババア。詮索せんさくすんじゃねぇ」
 三蔵が口を歪めて手短に言った。やはりこちらもある意味照れているようだ。
「へいへい。分かった分かった。八戒、そういうわけで悪ィんだけど、この女ギライがキャーキャー言われねぇように抜け道、案内してやってくれねぇ?  」
「分かりました」
 八戒が静々と、大后の前に跪いて一礼した。優雅な仕草だった。長衣の裾が揺れる。
 瞬間、三蔵はその動きに見とれた。それを知ってか知らずか、その優美な容姿を翻して三蔵の方へと向きなおり、八戒は言った。
「ご案内します」
 至近距離で綺麗に微笑まれて、三蔵は目のやり場に困ったように返答に詰まった。
「ああ」
 そう答えるのが精一杯だった。





「裏庭を通れば、宮女達にはあわずに帰れますよ」
 八戒はそう言って、三蔵の前に立った。
「そういや、悟空を次の間に待たしといたんだが、あいつはどうした」
「随身の方でしたら大后さまが直々に御用とかで、お引き留めになりました。ご心配ですか? また後で逗留なさっているお部屋まで送らせるそうですが」
 八戒の耳元でカフスが光を受けてきらめく。
「……ならいい」
 後宮の花の咲き乱れる庭を三蔵と八戒は歩いていた。
 散り際の花がはらはらとこぼれ、池の水面に浮かんでいる。たゆとうようにそれが揺れて、流れていく先には、池に浮かんだあずまやが見える。六角形の瀟洒なその建物は、如何にも東洋風な華やかさに満ちていた。
「こちらです。どうかお足元にお気をつけ下さい」
「ああ」
 三蔵は、自分の前を歩くすらりとしたその痩躯から目が離せなくて困った。
 八戒は甘く匂うような端麗な男で、三蔵といえども国元でもこんなに整った容姿の人間はいないと断言できるほどだった。その存在自体が驚きだった。
「どうかなされましたか?」
 八戒が優しく微笑んだ。柳の柔らかい緑を背景にして振り返ったその姿は一幅の絵のようだった。
「なんでもない」
 不躾に眺めていたことを気取られたかと、三蔵はいささか慌てた。うっかり足もとの花を踏みそうになる。
 微笑みとともに振り向かれる度に心臓が跳ね上がるような気がする。こんなことは初めての経験だった。
 落ち着こうと、煙管きせるを探して懐に手を入れながら、三蔵は所在なさから、つい八戒に尋ねた。
「お前、なんでこんな後宮なんかにいるんだ?」
 八戒は美しかったが、皇帝に媚びを売っておもねりながら世を暮らす女どもとは別世界の人間のように見えた。
 それが証拠に、どこかその存在は浮いていた。
「別に居たくて居るわけじゃないんですが」
 八戒は頭に手をやりながら苦笑した。
「僕には双子の姉がいましてね。本当は彼女が入る予定だったんですけど……僕はその代わりなんですよ」
 思いもかけぬことを彼は言った。
「その姉さんとやらはどうしたんだ」
 思わず三蔵は足を止めた。その足もとをかすめるようにして、咲き誇る花々がそよいだ。
「死にました」
 寂しげな微笑みを口の端に浮かべて八戒は答えた。その表情は様々な事情があったのだろうと、即座に想像できる憂いに満ちたものだった。
「……悪い」
 珍しく素直に三蔵は謝った。
「いいえ、いいえ何を言われます……すみません。こちらこそ」
 花の香りでむせるような芳しい庭を二人して無言のまま歩いた。
 花の咲く木々の間を小鳥がさえずりながら遊んでいる。そんな天上界を思わせる華麗な庭を、控えめな様子で先に立って案内する八戒は、天人そのものに見えた。
 三蔵は唐突に口を開いた。
「分かった。今度その姉さんとやらに経を読んでやる」
 三蔵のその言葉に驚いたように八戒が振り返った。涼やかな音を立てて、その足首に嵌った金環が鳴る。
「約束だ」
 きっぱりと三蔵は言った。赤や黄色の薔薇の花びらが風に煽られて二人の間で舞った。
 花びらは、三蔵の白皙の顔に陰を落とし、その颯爽さっそうとした姿をより華やかに見せた。薄紫の法衣の袖に、花びらが散り掛かる。
 貴公子以上に貴公子めいて見えるそんな三蔵の様子に八戒はうっかり見とれそうになった。
「……お前、名前は?」
 観世音が呼んでいたから、名前は既に知っていたが、やはり三蔵はこの男の口から直に聞きたかった。
「八戒」
 そのを溶かしたような唇が動いた。
「僕は八戒です」
 濡れた翡翠に似たその瞳がまたたいた。優しげな声で告げられるその名を聞いたとき、今までの世界は色褪せ、劇的に世界は一変したように三蔵には思われた。


 でも、まだ。
 ふたりとも自分達の間に魔法のように生まれた、この感情につける名前を知らなかった。







 「王招君(3)」に続く