王招君(1)

 頃は漢の時代。北方では蛮族が跋扈ばっこし、大漢帝国の屋台骨が揺らいでいた頃の話である。
 姓は猪、名は悟能、字は八戒。絶世の美貌の佳人が後宮にいた。
 その瞳を廻らして一笑すれば、後宮佳人三千顔色なし。月の女神、嫦娥じょうがをも嫉妬させるような清雅な美しさが芳しく香るような男であった。
 八戒の整った顔立ちは見るものを否応なしに惹きつけ、史上美人として名高い西施せいし飛燕ひえんさえもが敵うまいと人々は噂した。
 しかし
 八戒はそのような宮廷第一の美貌ではあったが、いまだ皇帝陛下のお召しはなかった。
 それどころか、冷宮と陰で呼ばれる上陽宮じょうようきゅうに留め置かれ、長年幽閉じみた毎日を送っていたのである。

 そんなある日のこと。
 八戒は絵師を自分の部屋に招いていた。
 いや、押し売り同然に部屋に入り込まれて閉口していたのだった。
「下郎が! 」
 鋭い声が八戒の口から飛び出す。
 八戒は花梨材でできた華奢な椅子に腰掛けて絵師を睨みつけた。
――――八戒は宮廷画家として名高いこの男のことが大嫌いだった。
 とにかく生理的に嫌悪を感じる男だった。熱病にうかされたような目つきで、なめ回すようなその視線におぞけが走った。
「あなたなどに僕は肖像画なんて描いて頂かなくて結構ですと、前から言ってるじゃないですか」
「これは、これは、なんと気の強いお方だ」
 絵師はにやりといやな笑い方をした。
「私にそんな口を利いていいんですかな。陛下は私の描いた似姿の画帳から、伽をする方を選ばれるというのに」
 当時、後宮のものは直接陛下に目通りがかなわなかった。ものぐさな元帝は、絵師に佳人の似顔絵を描かせておいて、その中から伽をするものを選んでいたのである。
「だから、なんです」
 後宮にいるものにとっては、この似姿を如何に美しく描いてもらうかが、死活問題であった。皇帝の傍にはべるのも、すべては絵師の腕次第だ。
 そのため絵師は様々な賄賂を受け取っていた。自分の運命がかかっているというのに、絵師にこんな冷たい口が利けるのは、後宮広しといえども八戒くらいのものだった。
「貴方が選ばれるも、選ばれぬも私の胸先三寸だということがまだお分かりになっておられぬようですな」
 絵師は八戒の手を素早い動きで勝手に握った。つかまれた拍子に、八戒の金と玉髄ぎょくずいでできた腕輪が涼やかに鳴った。
「水心あれば、魚心と申します。決して貴方様のことを悪いようには致しません。ああ、なんてすべすべとした綺麗な手だ」
 絵師は八戒の手を撫で回した。白い花のような手だった。
「放しなさい。気色の悪い」
 八戒は眉をひそめた。
「そんな態度をとってよろしいのですかな? いかに美しい方とはいえ、私が肖像画を描いて陛下にお見せしなければ、貴方といえどもご寵愛を受けることはできませんぞ」
「いりませんよ。僕は皇帝の寵愛なんて! ――――放せ! 」
「相変わらずつれないお方だ。一度でいい、私にその身を委ねて下されば、この命に代えてもそのお美しさを描き写し、陛下にお目にかけましょうぞ」
「やめ……! 」
 八戒は手をついていた机帳を倒した。八戒の青い衣の袖が翻る。
 この絵師は前々から虎視眈々と八戒を狙っていたのだった。
 そして、狙っているのだからして、わざわざ八戒の美しさをその通り似顔絵に描いて、皇帝に見せるなどという自分の手の届かなくなるようなことをする筈がなかった。
 ずっと八戒はこの男の道ならぬ邪恋のために後宮で冷遇され続けていたのである。積年に渡る思いを遂げようと、八戒の躰に絵師が手をかけた。
 そのときだった。
「そこまでにしておけ。ゲス野郎」
 外から声がした。若い男の声だ。
 八戒の部屋の回廊から通じている庭からその声はした。おりしも夜香花イエライシャンが咲き誇っている時期で、芳しい花の香気を浴びるようにして、その男は姿を現した。
「あなたは……? 」
 八戒は突然現れて自分の窮地きゅうちを救った男に目を見張った。
 若い有髪の僧……なのだろうか。僧衣を着ている。そのくせ、その姿は華麗だった。
 どことなく眠そうで、面倒そうな表情。かったるそうなのを隠しもしない様子で、その男は絵師にずけずけと言った。
「出ていけ。ぐずぐずしてると殺すぞ」
 凄みのある声に、これは敵わぬと思ったのか、舌打ちをひとつすると絵師は逃げるように八戒の部屋から出て行った。
 自分の恋路の邪魔したその男を振り返る目には憎しみがこもっていた。
「ありがとうございます。あなたは……」
 八戒は戸惑った。
 自分のことはさておき、なんといってもここは、普通の男は滅多なことでは立ち入れぬ後宮なのだ。しかもその男の姿は目立った。
 このあたりでは珍しい金色の髪をしている。高貴な紫の瞳が美しい。恐らくこの国のものではあるまい。
「翰林院とやらに行きたかったんだが、迷った」
 愛想のない素振りで告げるその声は低かった。
「三蔵ッさんぞー!」
 突然、夜香花の匂いの立ち込める甘い空気を引き裂くように、遠くから呼ぶ声がした。少年とおぼしいその声はだんだんと近くなってきた。
「ちっ」
 その男はひとつ舌打ちをした。
「あいつがくるとうるせぇからな。じゃあな」
 そういうと、その男は衣をひるがえ翻した。
「あのう」
 思わず八戒はそのきびすを返した背に呼びかけた。椅子から立ち上がった拍子に足首につけた金環が密やかな音を立てた。
「あなたのお名前は……」
「三蔵」
 綺羅きら、星の如く。煌めくような紫暗の瞳で一瞥いちべつを送ると彼はなおも言った。
「三蔵だ」
 そう告げると、その男は夜香花の鬱蒼うっそうとした群生をかきわけるようにして庭の向こうへと姿を消した。
 八戒はその姿をいつまでも目で追っていた。




 その頃。
 突厥突厥(とっけつとの国境境、最前線の玉門関ぎょくもんかん。古来より要衝の重要な関所であるこの場所で、ひとりの男が絶叫する声がした。
 隣国、突厥から逃げ帰った使者が巨大なその門前で叫んでいたのだった。
「開門! 」
 使者は伯楽が手ずから選んだかのような素晴らしい馬に乗っている。一日千里を走ると称される汗血馬の如き見事な馬だった。
 しかし、その馬に乗る使者の背には何本もの弓矢が刺さっていた。それでも彼は背から血を滴らせたまま必死で叫んでいた。
「開門 呵! 」(開門しろ! )
 使者を乗せたまま、馬が天に向かって鋭くいなないた。走るためだけに生まれてきたような誇り高い馬だった。夜も昼もなく駆けどおしだったが、手綱を握る使者の気迫が乗り移ったかのように気が荒ぶっている。
 目的の場所である関所に着いたというのに、左へ右へとその足を踏み鳴らしながら、まだ命が尽きるまで走るつもりで唸っている。
 玉門関は要害の地である。漢はいうに及ばす、今までの歴代王朝は全て異民族からの脅威に曝されると、このような使者の絶叫がこの関所に響き渡ったのであった。そしてそれは、どの王朝にとっても不吉な、破滅への序曲であった。
「開門……! 」
 使者が何度目かの絶叫をしたとき。
 やっとその巨大な大門が開いた。数人で引かねば開かぬ門は重々しい音を立てて内側から開いた。見張りの兵達が、戻ってきた使者を迎えようと駆け寄った。それは確かに半月ほど前に、突厥への親書を携えて出ていった使者だった。
「ご苦労。中へ入られい!」
 尋常とも思われぬ、味方の使者の声に不吉を感じながらも、数人の兵達が近寄った。その前で馬上の使者の姿がぐらりと傾ぎ、どうとばかりにその場で落馬した。
「な……!」
 兵達は駆け寄って唖然とした。使者は絶命していた。使者の背には何本もの弓矢が刺さっていたが、最後に叫んだことが止めとなって、その矢が肺を突き破ったのだった。なんともいえない凄惨な死に様に声もなくその場の誰もが立ち尽くした。
 そのとき。
 空を切る鋭い音とともに一本の矢が飛んできた。それは、倒れた使者と駆け寄った兵達の間を裂くように地面に突き刺さった。
 この狙いすましたような弓の腕に、驚いて矢の飛んできた方を漢の兵達が見やると、大門の彼方に五百騎ほどの騎馬部隊が関所を取り囲むように佇んでいる。
 草原の民族特有の美々しい戦装束に身を包んだ騎馬の群れに、見事な紅い長い髪の男がいる。その姿はひどく目立った。こちらに向かって弓を引いた格好で黒馬に跨っていた。漢兵達に向って飛んできた矢は、この紅毛の男が放ったに違いない。
「あ、あれは」
 漢兵達の間から声が上がった。その声は畏怖に包まれていた。
「と、突厥の新王……! 」  
 ざわめきが拡がった。それは、玉門関を守る兵たちの関心と恐怖の的である人物だった。
 長い紅い髪をひとつに束ね、燃えるような目をしている。飄然ひょうぜんとした長身を黒装束の戦闘服に身をつつみ、アラブ産らしき黒い駿馬しゅんめ駿馬に跨り、美々しい羽根飾りを随所につけたその姿は、味方の士気を煽り、敵を恐怖させる軍神のようだった。
 まだ若いその横顔は端正と呼ぶには野性味がありすぎたが、男らしい颯爽さに溢れて輝くようだった。まさに精悍な草原の若い狼のような新王がそこにいた。
 その新王が大音声で玉門関の漢兵達に向かっていった。
「漢王に伝えろ。これが突厥の返事だとな」
 新王の周囲の精鋭部隊からどっと大歓声が上がった。彼等の流儀である感極まったときの絶叫がこだまする。
単于ぜんう! 」
「単于!! 」
「単于! 」
 単于ぜんうとは草原の王の尊称である。
 玉門関に血気盛んな騎馬民族の絶叫と興奮した馬の嘶きが響き渡った。
 その様子を見て慌てた漢兵達が、大門を閉めようと号令をかけた。
「檄を飛ばせ! 早く都へ知らせろ! 早くしろ! 」
 早馬の仕立てられる慌ただしい気配とともに、玉門関の大門が地響きとともに閉められた。





 一方、恐れおののく漢兵達に比べ、突厥の騎馬部隊は暢気なものだった。
「ま、挨拶はこんなもんでいいんでない? 」
 剽悍な彼等の王は気さくな口ぶりで味方の騎馬達を振り返った。
「悟浄様、あなた様がわざわざ出られなくとも我々でなんとかしましたのに」
 精鋭部隊の長が最敬礼しながら言った。「単于」でも「王」でもなく「悟浄」と呼ぶのは、王太子時代から妾腹である悟浄を守って苦労を共にした、この精鋭部隊の兵と守役だけだ。
「うんにゃ。オレが 「買え」 って親父に言われた喧嘩だしィ」
 悟浄はそういうとカラカラと磊落に笑った。そんな、悟浄の仕草を、周囲の兵達は心酔しきった目で見つめている。
 悟浄には圧倒的な人気があった。何しろ分かりやすい明快な男らしさと強さが彼には溢れていた。その竹を割ったようなさっぱりした気性も草原の男達には好かれていた。面倒見のよさも、物事に拘らない奔放さも、卓越した武芸の腕も、全てにおいて草原の王として相応しかった。
 妾腹の出自のため、紅い髪をしていること以外は悟浄が後継者となるのは当然と思われたが、悟浄にとって継母にあたる大后が最後まで反対をしていてやきもきする状況に長年なっていたのだった。
 しかし先日、年老いた前国王が、臨終の際に後継者として正式に悟浄を指名し、そんな状況に終止符が打たれると、全突厥が快哉を叫び、熱狂的な歓声に包まれたのであった。
 そして、年老いた父単于が、亡くなる前に悟浄に託したことがたったひとつだけあった。
「ったくさぁ。舐められたモンだよな。まぁ、親父も親父なんだけどよ」
 悟浄はぼやいた。
「ふざけた奴等であります。漢の奴等は」
 憮然とした面持ちで先王をかばうように隊長が言った。
「まぁでもアレかな。親父も親父だよなぁ。なんたって友好条約の代わりに、お前の娘よこせっていったんだもんなぁ」
「別におかしなことではありません。正式に漢の公主を妃に迎え、漢王に姻戚として礼を尽くされようとしたのです」
 生真面目な調子で隊長が返す。
「でもなぁ。あのトシでさぁ娘を嫁にくれなんて。色ボケ爺としか思われないよな。しかも断られちまってカッコ悪ぃ。でもだからって遺言でまでいうかね。結婚の申し込みを断った漢王に一矢報いろなんて。色ボケもいいとこだよな。親父も」
「悟浄」
 将軍兼、守役の捲廉が嗜めるように傍に寄ってくる。鋭い刃物の光のような男だ。
 悟浄とよく似た黒い馬に乗り、戦装束で手綱を握ったその姿は颯爽として水際立っていた。やや立ち上がった短い髪に、精悍な顔立ち。俊敏な手綱さばきが目を見張るほど華麗だった。
 そんな捲廉が悟浄の間近に馬を寄せると、無言でその顔を睨みつけた。
「ええー? なに? そんなカオしちゃって。ごじょこわーい。……分かってるよ。オレも似たようなモンだっていいてぇんだろ」
 悟浄は片眉をつり上げて、お道化たように守役の捲廉を見やった。
 確かに勇猛果敢で知られる騎馬民族の精華そのもののような悟浄だったが、唯一無二の弱点というか欠点は女癖が悪いことだったのだ。
 まぁしかし、そんなことはご愛嬌とばかりに周囲のものは大目に見ていた。英雄色を好むのは洋の東西を問わずよくあることであったし、新王が精力的なことは別に困ったことでもなんでもなかった。たまに人妻にまで手を出すのは困ったことだったが、強さこそ正義を地でいく彼等の論理では、女など寝取られる方が悪いのである。いままで特に問題になったこともなかった。
「それに、捲廉だって人のこといえるのかよ! 」
 悟浄はいたずらなガキ大将そのものの表情で、自分の傍らの捲廉を見つめた。
 幼い頃から守り役として悟浄と苦労をともにした捲廉だったが、やはり女癖は人に言えたものではなく、「暴れん坊将軍下半身含む」 だのいろいろと結構な評判であったのだ。
 悟浄の言葉を受けて、周囲の兵達がどっとばかりに笑った。
「お守り役様が体を張ってお手本を見せてるんだものな! 」
「下半身に人格無し! こればっかりはしょうがねぇよ」
 野卑な野次が次々と飛び、とうとう捲廉は眉間に皺を寄せた。
「てめぇら! 」
 睨みをきかせて捲廉が怒鳴った。
「くだらねぇことばっかり言って、はしゃぎやがって……ったくもう、引き上げるぞ!野郎ども!! 」
 それを聞いて騎馬の群れから即座に退却の掛け声がかかった。軽快な叫びが上がる。
「退け! 退け! 」
「ハイハーイッ! 」
「ヨーヨーヨー! 」
 まるで号令ともいえぬような捲廉の一声だったのに、見事な統制で兵達は動いた。一糸乱れず機敏に。
 それは驚異的な軍容だった。まさに人馬一体というにふさわしい様子で馬を駆り、天翔けるようにして草原を駆け抜け、玉門関を去ってゆく。あとには砂煙のみが残った。
 これが
 正史に 「通り過ぎた後には草木一本も残らぬ」 と記され恐れられる、その名も高き草原の狼ども――――最強の騎馬軍団であった。









 「王招君(2)」に続く