1.優しくしないで



 一点のみ集中。
 できないかもしれない、叶わないかもしれないなんて、どうしても考えられなかった。考えたくなかった。

 実力を鑑みるに挑戦するのは厳しかったけど、そうしたいって自分が決めてしまったから、逃げ出したくはなかったんだ。誰かに言われたからじゃなく、俺が俺で、どうしたいのかを決めたから。

 だから、やっぱりそれが叶わないことでも、苦しくても、格好悪くても。
 俺は、結果を受け入れないといけなかった。

「大学、落ちた」

 不本意な現実は俺だけに与えられたもので、報告を待っていたみんなの空気を凍りつかせてしまった。

 あらためて自分の口から出た言葉は、すごく乾いた塊みたいで、気持ち悪い。死刑宣告されたような気分だった。残念ながら、これはゲームじゃないから。リセットして最初からやり直し、というわけにはいかない。

まだ続くんだこんなしんどいものが、そう思うとうんざりする感情と小さい絶望感と、どうしようもないほどのやるせなさに涙が出そう。こんな理由で、皆の前で泣くのは絶対に嫌だった。

 誰かの慰めの言葉を聞く前に、立ち上がる。

「羽柴っ!」

 渚の声が聞こえて、正面に座っていた倉内と目が合った。形の良い唇が(行って)いいよ、と確かに動く。爆弾を落としていく俺の、フォローはしてくれるって意味だろうか。ありがたい。

マサの方を見ることはできなかった。そんな勇気は、俺にはない。
 せめて精一杯小さく頷いて、俺は逃げ出すようにその場を後にした。
 
 ……俺に、春なんて来なかった。

(日頃の行いが、悪かったのかな…)

(俺にもちゃんと春が来るなんて、渚の嘘つき)

 実力不足を棚に上げ、優しい友人に心の中で八つ当たりしながら、唇が歪む。ピアノのド素人だった渚は、無謀と思われた音大に奇跡的に合格。いや、ちゃんと練習も勉強もしている渚の頑張りを奇跡だ、なんて失礼な言葉だ。努力だけではなく、音楽センスも兼ね備えて。

「はぁ…」

 わかっていても、それでも羨ましいと感じる。世の中は平等なんかじゃなくて、こんな風に簡単にふるいにかけられて、落とされる。

 自分が情けなくて、馬鹿みたいで、とりあえずもう何も考えたくなくて、今までの睡眠不足を全部取り戻すかのように、俺はひたすら泥のように眠った。


   ***


 時間と曜日感覚が乱れると、生活のリズムはどんどん狂っていった。
 ダラダラするのって好きじゃないけど、今はそうすることが自分に課せられた義務のようにさえ感じていた。

 なにもかもどうでもいい。部屋から一歩も出たくない、家族の顔も見たくない。誰にも会いたくなかったし、何をしていいかわからなかった。
 何も、したくなかった。もちろん、いつまでもこのままでいいなんて少しも思ってはいなかったけれど。

 メールや電話にSNS、全部無視。だって、どう反応したらいいのかわからない。
 慰めを受け入れるだけの余裕は、今の俺にはない。

「稜ちゃん。倉内君よ」

「え?」

 突然ドア越しに上機嫌な母の声をかけられて、鍵なんてついていない俺の部屋は、いとも簡単に来客を迎え入れる。

 倉内もマサも俺の家族には気に入られているから、なるほどこれが一番早い方法かもしれない。そこまで頭が回らなかったから、友人を通さないでくれなんてクギをさしておくことを、俺は思いつきもしなかった。

「倉内…」

 倉内はいつも通りの姿で、目の前に立っていた。俺に睨まれても平然としている。

「いきなり来て、ごめん。羽柴」

 ただ軽く頭を下げて謝っただけなのに、それだけで絵になってしまう倉内。

 あ、かっこいい。こんな時なのに、一瞬見惚れた自分を振り払った。

 毎日見慣れていたキラキラ感が、久しぶりだったせいかもしれない。
 出逢った時は天使みたいに可愛かった倉内は、三年の高校生活の中でみるみるうちにいい男へと変貌を遂げていき、マサよりも背を抜いて、近付き難いくらいの雰囲気をまとうようになっていた。

 自分の近くに並の女の子より可愛い友人がいると、他の女の子達が色褪せて感じる。恋愛に興味が持てないことを、倉内のせいにしたってしょうがないけど。
 ……なのにその可愛さは、今は微塵も見当たらない。詐欺みたいだ。

「何しに来たの。帰ってよ。今、人と会いたくないし」

 辛辣に追い返そうとすると、倉内は困ったような表情で溜め息をつく。

「嫌だ。帰らない」

「………」

 俺が視線を逸らしたのは、その目力の強さに流されそうな気がしたから。

「俺じゃなくて、後藤が良かった?」 

 俺を煽るのも超一流。煽るっていうか、傷を抉りにかかってる。

「その言い方〜、最悪だよ?
 そんなわけないじゃん、わかってて言わないでよ」

 後藤真之。通称・マサは俺の大好きな友達で(倉内や渚も、もちろん大好きな友達なんだけど)なんていうか、俺が医者を目指そうと思ったきっかけがマサだったから。
 そんなマサに、医大を落ちてズタボロになってる俺の姿なんて、格好悪すぎて見られたくない。

(俺はただ、マサを助けられるような人になりたかった)

 そこを起点に、医者になりたいって夢が生まれた。それくらいはちゃんと、自覚している。
 それに、誰かに寄り添うためには、医者になるという選択肢が必ずしも必要ではないということも、今ならわかる。

 ダッシュして、ぶつかって転んで。
 俺がやるべきは、ただここから立ち上がること、なんだろうけど。

「ごめん」

「…いいけど。それより今、俺って言った?倉内は、ずっと僕って言ってたのに。
 高校卒業したらもう、今までとは違うってこと?」

 今までは毎日顔を合わせていたのに、久しぶりに会うせいかな。制服じゃないからかな。いつもと、何かが違う気がするのは。

「いつか自分で店を出したい、っていう話はしてるよね。店長になった時、僕よりも俺の方が様になるかなって思ったんだ。
 いきなりは無理だけど、俺も使っていこうかなって。練習だよ」

 進路を決める時、倉内はみんなが集えるような店を作りたいという夢を話してくれた。空間創りに興味があるのだ。それは何となく理解できる。今までは図書室だった場所が、自分の店に変わるだけ。倉内らしいなって思う。

「ふうん…。そうやって、みんな変わってく。俺はまだ、ここにいるのに」

 さみしいな。置いていかれたような気持ちになって、弱音が口をついて出る。

「羽柴」

「な、なに」

 突然抱きしめられて、問いかけた声が上擦った。倉内はいい匂いがする。

 毎日走っているだけあって、倉内の胸は頼れそうな感じがする。委ねても大丈夫な、安心できるような…。

 ドキドキしたのは、思いの外強い力だったことと、倉内が尋常じゃなくいい男だからで、多分男女関係なく俺の立場なら自然現象でそうなる。

「羽柴を一人にしたりしないよ、俺」

 しみていくような優しい声に、今まで張りつめていたものが溢れ出し、泣きたくなった。

「大丈夫」

 麻痺して放置するしかなかった心が、グラグラと揺れ始める。
 自分一人では対処も出来なかった、悔しさや腹立たしさや情けなさが、倉内の温もりによって、ゆっくりと氷解していくようだった。

(ドキドキするけど、落ち着くなあ…。気持ちがいいや)

 優しさに寄りかかりたくなる。どれだけ居心地が良くて、安心するか、俺は倉内のことをよく知っているから。
 でも、だからこそ、甘えたくないような気もした。

「優しく、しないでよ…。帰って。俺、ひどい言葉しか出てこないんだよ今。でもそれはただの八つ当たりで、俺が本当にそうしたいわけじゃない。
 ぐちゃぐちゃで、混乱して、疲れてて、だから、もう…帰った方がいいよ。倉内」

「いいんだよそれで。無理に笑わなくていいし、怒っていいし、泣いていい。
 お前はお前でいいんだ、羽柴」

 赦されると反発したくなる。
 くすぶっていた行き場のない感情が、少しずつ漏れ出していく。

「俺は。俺が俺でいることに、倉内の許可をもらおうなんて思ってない」

「僕の許可じゃなくて、羽柴が自分にOKを出せてないだろ」

「…鬱陶しいなぁ、もう。
 何なの?俺は帰れって言ってんの」

 カチンときたのは、図星だったからなのかもしれない。
 直接的な言葉を使って、俺は倉内の好意を精一杯拒絶した。

(本当は、こんな傷つけるようなことが言いたいわけじゃないのに) 

「羽柴…」

「倉内の優しさ、破壊力強すぎだから俺には使わないでくれないかな。
 そんなの俺、いらないから。癖になりそうで怖いよ」

 自然に手が伸びて、俺の頭をなだめるように撫でる。倉内が、妹によくやる仕草だ。今はただ、その優しいリズムが気持ちいい。

「無理だよ。俺は羽柴のこと、大事だから」

 …はあ。俺はおかしいのかもしれない。まるで、口説かれてるような気分になってくる。そんなわけないのに、倉内の友情の深さって、結構な深度があるから。

 俺の思考回路は、大分末期。でも勘違いしない自信がない。これ以上優しくされたなら、陥落してしまいそうだった。

「ああ〜〜〜、もう!倉内って自分のこと、全然わかってない!
 ほんとやめて…そういうの。はっきり言うけど、俺が倉内に惚れちゃったらどうしてくれんの?俺、今は心に隙間が空いてるからマジやばいんだって」

 今までは、生徒会の仕事もあったし勉強も頑張っていたから、恋愛をする余裕なんて微塵もなかったのだけど。今、俺、癒されたいんだもん。

「別に問題ないでしょ。その責任なら喜んで取るよ?
 俺、卒業前に振られたばっかりだし。ゲイだし。恋はしたいし」

(一体、何を言っているんだろう……)

 何でもないことのように、倉内は笑っている。
 予想外なその断定に、俺は頭が真っ白になった。


  2015.07.05


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