「恋人の情景」



 X.未来へ


 学園祭は二日間にわたって行われ、一日目は出し物中心、二日目は出店中心の内容になっている。エドは初めての日本の学園祭に楽しそうに、オレたち(むしろ岡崎)についてまわった。
 育ちの良すぎる、血統書付きの犬。その飼い主は、まんざらでもない岡崎。…そんな感じ。
 修介が新聞部で、オレたちの対決を煽る号外を配る。全ページ、フルカラー。オレたちの写真ばっかり。ちなみに、今年の学園祭のテーマは「未来へ!」。ありきたりだけど、いい言葉だ。
 エドは勝利を確信しているのか何なのか、緊張も何もないらしく天真爛漫な元気の良さ。
 オレは正直緊張しすぎて、口から心臓が出てきそうだ。今まで生きてきてこんなに緊張したこと、ない。受験の時も自信満々で、人前で何かをすることは好きな方だったし…、ああどうしようどうしよう。
 失敗したらというか、オレ、ちゃんとできるんだろうか。岡崎の足を引っ張らないで、あの曲をみんなに伝えることができるんだろうか?エドや、連城さんに。聴いてくれる、みんなに。
 すげえ怖くなってきた…。正直もう音楽室にこもって、練習しまくりたいくらいに。練習しないと、練習。ここ数日のオレは強迫観念みたいにそんなことばかり考えて、何度か岡崎に注意されてしまった。
 君が一生懸命なのは知ってるから、そんな風に思いつめないでくれ。俺のために。
 岡崎のため、そう告げられると頭がハッとしたようになって、そうだ。これは良くない、オレらしくない。我に返ったんだけど、いざ時が迫るともう、グルグル廻っている。気持ちが?うう、気持ち悪い。
 オレは、こんなに弱い人間だったっけ?大切なものができるとどうしてこんなにも、人は脆くなるんだろう。岡崎なんて、強く強くオレの前を走り続けているというのに。その距離はひらくばっかりで…。
「渚、ちょっと」
「岡崎?何」
 エドはいつのまにか、居なくなっていた。トイレにでも、行ったんだろうか。
 人がまばらな廊下の隅で、岡崎は真面目な顔でオレを見つめる。今日も岡崎は、最高に格好いい。 
「俺は君が好きだ。君のすべてが好きだ」
「えっ?いきなり、なななにを…嬉しいけど、岡崎、」
「俺のことだけ、考えてくれればいい。君に失敗は似合わない。俺たちは上手くいく」
 怖いほど真剣な声が、そうオレを励ました。オレが隣りでイッパイイッパイになってることに、岡崎が気づかないわけなかった。…うん。
 そうだよな。オレ、自分で言うのもなんだけどいい男なんだもんな。岡崎に負けないくらいには。
 すぐ調子に乗るオレはそう気分を切り替えようとして、見事失敗した。無理だ。
「膝が震える…。岡崎と一緒だ、って思うと失敗は赦されない気がして。オレが笑われるのは別にかまわないけど、オレのせいで岡崎が馬鹿にされたらって、考えるともう、」
「俺は、笑われることは怖くない。失敗することも怖くない。ただ、渚がいつもと違うことだけが怖い」
「岡崎…」
「その恐怖を越えてくれ、一緒に。手を取るから、俺を信じて」
「………う、うん」
 岡崎は本当に、オレと手を繋いだ。すれ違った生徒がもう一度オレたちを振り返ったけど、オレも岡崎もその手を振りほどかなかった。
 途中鉢合わせた羽柴が、女子校みたいでかわいいね!とよくわからないコメントをして、一緒にいた後藤に俺たちも手、繋ぐ?と尋ねて、断固拒否されていた。
 話を元に戻すと、トイレから戻ってきたエドはオレたちを見て、問答無用で岡崎の空いた手を握り、オレと岡崎が手を繋いでいると、えっ?て感じなんだけど、そこにエドが加わると、妙なメルヘン感が醸し出されるのか何なのか、エドなら何故か赦される。そういう雰囲気が、この男にはあった。

 そしていよいよ、運命の時が来た。


   ***


 体育館の中には、沢山の人がつめかけている。在校生だけじゃなく、きっと菊池先輩のようなOBや、連城さんのように、岡崎やエドの演奏を聴きに来た人もいるんだろう。今年の盛り上がりは、なかなかのものだ。
 オレはもう、手のひらで何十人の人を飲み込んだのかもう記憶にない。岡崎が、呆れるほどに。
 エドが鮮やかな衣装で舞台に現れると、歓声が上がる。たかだか一礼する仕草すら、映画俳優の如く優雅だった。エドが一番輝くのは、ピアノの前に向かった時だ。
 見せる、というより魅せる、と表現した方が正しい。
 きらきら星変奏曲。
 エドがそういう選曲をしてくるとは思わなくて、オレはただ呆気にとられて、そのすべてを聴いていた。
 ただただ、圧倒的にきれい。こういう時、自分の語弊の無さが嫌になる。それくらい、何も考えられなくなるくらいに、エドの演奏はオレの心も打った。多分、沢山の観客の心もだ。
 この曲なら誰でも知っている。馴染みやすいかわりに、超絶技巧や大曲と比べると派手さにかける。それなのに、どうしてなんだろう?技術なのか、本来の性質か。

 エドの奏でる音色は美しくて優しく、清らかだった。

 エドの演奏が終わった後、体育館は一瞬静まりかえり、それから地鳴りのような拍手が響く。
 プロの演奏。オレはそういうようなことを実感し、あんまり興奮したせいで岡崎との手を繋いだ時でさえとけなかった緊張が、すっかり自分の中から失せていることに驚き、そして感謝した。
 エドのきらきら星が聴けて、よかった。本当にそう思った。感動しすぎて勝負のこととか、岡崎の葛藤を忘れた。ドキドキしていた。
「すごかった、きれいだったよ!エド」
 大興奮してオレが舞台袖で声をかけると、エドは演奏家の顔のまま、異国の言葉で礼を言う。
「次は、俺たちの番だ。渚」
 岡崎は驚くほどオレを冷静にそう促すだけで、エドへの言葉は何もなかった。
 オレたちが舞台へあがると、渚先輩がんばってくださーい!岡崎ー!!とか、心強い応援が飛ぶ。なんだか妙に照れくさく、そしてありがたい気持ちになった。多分岡崎も、同じなんだろうけど。
 今回は、オレがプリマで岡崎がセコンダ。岡崎と練習することで、オレはテンポを正しく保てるようになり、自分の欠点も見えるようになった気がする。
 岡崎との連弾は刺激的で、大変だけど、一人の時とは違う楽しさがあった。何よりもオレにとっては、岡崎と同じものを目標にしている、というこの状況が嬉しくてたまらなかった。
 夢がある意味叶ったと、表現してもいいかもしれない。今日は本当に、記念日だ。
 ピアノの前に座る。勝敗は頭から消えて、ただこの演奏を少しでも、岡崎と気持ちを合わせること。曲に近づけることだけを、集中する。岡崎の気持ちが、つまったこの曲。

 オレは弾きながら、岡崎との出会いを思い出していた。あの時は今こんな風になるなんて、オレも岡崎も思ってなかった。哀切のメロディ。
 いつのまにか岡崎を好きになって、岡崎もオレを好きになってくれて、そしてすぐに離れたオレたち。
 岡崎を感じたくてピアノを弾き始めて、ピアノごと好きになっていた。恋の威力は凄まじかった。
 再会した時、オレたちは確かに同じだけどどこか違っていて。くすぐったいような、嬉しいようなそんな幸福な気持ちで、もう一度岡崎の音を聴いた。
 オレが岡崎と同じものを見たいと言って、喜んでくれた岡崎。
 オレの世界は岡崎とピアノでいっぱいで、岡崎もそうだったらいいな。
 大抵のことは何でもできた器用貧乏なオレが、やっと見つけた、全身全霊で打ち込めるもの。
 あの朝すごいと感動した気持ちを、原点を、オレはきっとずっと忘れない。
 岡崎はオレに、新しい世界をプレゼントしてくれた。オレはそれを大事に、ずっとずっと守っていきたい。二人で一緒に真っ直ぐに前を向いて、ゆっくりと。

 ひじと手首を柔らかく、親指を送りこむように。美しいアルペジオ。
 なあ岡崎、オレたちは今、同じことをきっと願ってる。


   ***
 

 終わった時、オレは気が抜けて放心状態になっていた。目が合った岡崎は、笑っていて。その笑顔を見て、オレは泣きそうになる。今、岡崎はどんな気持ちでいるんだろう。
 オレたちの本番はどの練習の時よりも、一番にいい出来だった。
 遠くで、拍手の音が聞こえる。みんなの顔が、さっき、エドの演奏を聴いたオレみたいになっている。オレにはもう、その拍手がエドと比べてどうなのかなんて、ちっとも判別できないけれど。
 アイツらすげー、と誰かの声がして。とうとう、オレは泣いてしまった。何か伝わったんだろうか、そうだとしたら。こんなにまだ未熟なオレでも、岡崎と一緒だったから。
「嬉しい」
 ぽつりと呟いたオレに、岡崎はずっと黙り込んだまま。
 その視線は一点を見つめていて、辿っていくと連城さんの姿があった。連城さんの表情は、オレにもわかるくらい言葉にするよりも雄弁に、岡崎の何もかもを認めていて。その微笑みが何年ぶりに弟子へ向けられているのか、本人以外にはわからない。
「ありがとう」
 岡崎の第一声は、それだった。
「ありがとう、渚。どんなに俺が、君に感謝しているか…」
 この場で今すぐ抱きしめて、キスをしたいくらいだ。さすがに小さい声で、岡崎は続ける。
 なんだか色んなことが走馬燈のように頭を過ぎり、消えていった。岡崎と出会えて、良かったなあ。しつこいくらいに、そういう想いが込み上げる。この人が、オレの恋人で本当によかった。
 エドが舞台に戻ってきて、オレたちに握手を求める。視界の隅で、ずっとシャッターを押しまくっている修介が見えた。この歓声は、きっと一生忘れない。
 羽柴と生徒会のメンバーが、生徒代表ということなのか、オレたち三人に華やかな花束を差し出す。薄紅、ベージュ、白、桃、黄色。色とりどりの花が、そっと鼻をくすぐる。この恋を、祝福されているような気分になる。羽柴が格好良かったよ、と笑った。
「素敵な演奏を聴かせてくれた三人に、もう一度盛大な拍手を!」
 羽柴の盛り上げ方も心得たもので、体育館はもう一度、拍手の波に包まれる。

 舞台を降りると、岡崎は真っ直ぐ連城さんのところへ向かった。
 元々、オレたちの演奏目当てで学校に訪れた連城さんは、もう用事もないせいか校庭の隅を歩いているところだった。岡崎が声をかけると、連城さんは黙って振り返る。
「連城先生。俺はずっと、あなたに認めてもらいたかった!あなたのことを、尊敬しています。その音楽性も、真っ直ぐな性格も。だからこそ、嫌われるのが辛かった」
「………」
 今更手が震えている岡崎は、その拳をギュッと握りしめる。
 オレは何にもできないから、ただ隣りにいて、そんな師弟を見つめるだけ。頑張れ、岡崎。気持ちはきっと伝わっていると、そうであってほしいと祈るように、息を詰める。
「俺は確かに、辛いことから逃げ出すような、臆病な人間でした。これから先だって、もしかしたら同じようなことを繰り返すかもしれない。ですが、好きなものは好きだと、胸を張って堂々といられるようにずっと意識していきたいと思っています」
 オレの知っている岡崎は、ずっと好きなものに対して、堂々としていると思うんだけど。
 堪えきれなくなったような笑みを浮かべて、連城さんは優しく目を細ませて岡崎を見つめる。
「…いつから君は、そんなに暑苦しい性格になったのだね。渚くんの影響だろうか」
「渚の影響は、受けていると思います。俺はこの人と出会って、確かに変わりましたから」
 いつも思うけど、多分、岡崎はオレとの関係をカミングアウトしてもかまわないというかむしろ、周りに知っていてほしいとすら、考えているんじゃないだろうか。
「いい曲だった。私は好きだよ。演奏も、押しつけがましくなくて…息もピッタリ合っていたようだね。先日、君を侮辱したことを赦してほしい。渚くんも伸びしろがある。将来が楽しみだ」
「連城先生…。あ、ありがとうございます!」
 お世辞かもしれないが褒められて、オレもなんだか嬉しくなる。一緒に、岡崎と一礼をする。
「謝罪というか…、今度二人を、私のコンサートに招待させてくれ。話したいことは沢山ある」
 その時の岡崎の表情は、オレが今まで見た中で一番、驚きと喜びに満ちていた。
 岡崎は目に涙をいっぱい溜めて、もう一度、ありがとうございます!深く深く、頭を下げる。連城さんがいなくなっても俯いたままで、泣いているのを隠しているんだと、暫く経ってから気がついた。
 …それから。オレの大好きで真摯な声が、夢みたいなセリフが、確かに耳に届いた。
「渚、君にプロポーズさせてくれ。俺はいつまででも待つから、将来は一緒に、こんな風にデュオを組んでコンサートをして廻らないか」
「え…?」
 まさかそんなことを言われるなんて、思ってもみなかったから。練習中、オレはやっぱり何度も岡崎の足を引っ張ってばかりだったし、そんな自分が歯がゆくて悔しかった。
 一生に一度あるかないかのことなんだから、そう決意して悔いのないように。
 でも、岡崎が口にした未来は。
「俺、ピアノは孤独な楽器だってずっと思いこんでいたよ。でも違った、忘れていたんだ。勿論、一人で弾くピアノだって好きだ。ただ渚と一緒に弾くと、弾くたびに、もっとピアノが好きになるんだ。一人で弾くよりずっと楽しくて…こういう気持ちは、俺だけが感じているんだろうか?俺だけが浮かれて、」
「お、か、ざ、き!言ったろ?オレは、岡崎と同じものが見たいって…今もこれからも、その気持ちは変わらない。一生離さないからな。岡崎も、ピアノも。二人で頑張ろう」
 岡崎が努力するなら、オレはその倍頑張って、いつか隣りに恥じないように。
 オレと岡崎の、好きだと告げる声がハモった。うん、この気持ちはずっと絶対に変わらない。
 ここが、学校の校庭じゃなければ。そういう気持ちを我に返らせたのは、エドの拗ねたような言葉だ。
「二人の愛を、祝福します」
 もはやオレたちに、自分以外の敵は無し。
 二人の未来が、どうか、祝福されるべき輝きで満ちていますように。


   FIN.


  2007.03.08


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