少年は、ピカソの夢を見る



 時計の針が、七時を刻んだ。図書室にはもう、僕と陣内さんの他には、惰眠を貪り一向に起きようとしない生徒だけ。
 まだ汚れの少ない制服が、僕と同じ一年だと辛うじてわかる程度の、ある意味老成したその常連。僕の記憶の限りでは彼がこの場所で、本を読んでいるところを一度も見たことがない。昨日は同じクラスの友達が元気よく、彼を引き取って帰ったのだけど。今日はもう、それも望めない。
 カウンターから立ち上がると、僕は気持ちよさそうな身体を揺り起こした。
「起きなよ」
「…ん……」
 こういう面倒な対処を、陣内さんは全部僕に回す。同じ空間に居られるなら僕は何でもするつもりだから、別に構わないけどね。何かを嫌がった時点できっと、すぐに弾かれるこのアンフェアな関係。時々、しんどいのは確か。
「もう帰る時間だよ。そんなに寝るのが好きなら、ここにおいて帰るけど」
「あー…」
 煩そうに彼は声をあげ、僕の顔を見ると眉を寄せた。まだ、夢の途中なのかもしれない。一刻も早く、現実の世界へ戻ってきてほしいんだけど。
「…ピカソ…」
「はあ?」
 何がピカソ?訳わかんない。寝言?思い切り不機嫌に返した僕に、彼はもう一度机の上に沈んでしまった。
 僕は振り向いて、陣内さんが何をしているのか確認する。司書室。これなら、何の心配もない。それから意地の悪い笑みを浮かべ、眠りこける彼に視線を戻した。
「………」
 バン!と大きな音を立て、力一杯机を叩く。
 彼はようやく飛び上がったように覚醒して、事の状況を理解した。
「おっかねー。オレの心臓止まったら、お前責任取れよな…」
「帰れよ、もう閉館時間だから」
 見たところ繊細そうには感じられないから、僕も猫を被らないで単刀直入に催促する。こういう対応をすると陣内さんは、もう少し相手の機微を考えて、振る舞ったらどうかな?なんて、耳の痛い忠告を寄せてくれそう。
 過ごした時間はまだ長くないけど、段々と僕は、陣内さんの人となりを朧気に掴んでいた。…攻略方法は、全然といっていいほどお手上げなんだけど。悲しいことに。
「そういえば、お前名前何ていうんだ?オレ、後藤真之。一C」 
「倉内静、A組。…人の話聞いてる?後藤。もう、下校時間なんだけど」
「静ね、静。はいはい、帰りますよ。つか閉館するなら、ついでだし一緒に帰ろうぜ」
「はああ?」
 どうして僕が呼び捨てされなきゃいけない上に、後藤と一緒に帰らなきゃいけないわけ?
 後藤はマイペースに欠伸をし、何かの動物みたいに億劫そうに席を立つ。
 眠さのあまり名字を聞き逃した、というのがこの男の場合、正解のような気がした。推測して、頭痛がする。正直、他人にペースを乱されるのはあんまり好きじゃないんだけど。
「いいじゃないか、静。戸締まりなら、私がしておくから。今日もお疲れ様」
 こんな時ばっかりタイミングよく声をかけてきて、陣内さんは僕と後藤を見比べた。さっきまで司書室にいたくせに、今日は僕とろくな会話なんて、してくれなかったくせに。
「陣内さん…」
 陣内さんは僕の逃げ場を無くし、どこか嬉しそうに微笑む。
 最近あまりに僕が周りをウロウロするから、正直迷惑だとはっきり指摘はされないけど、もっと色々なことに興味を持ってみるのもいいんじゃないかな。人でも何でも。そうやってこの間諭されたばかりで、後藤はあまりに都合の良い登場だったのかもしれない。
「…さようなら」
「ああ、また明日」
 これくらいで泣きそうになるなんて、なんて女々しい。
 僕は後藤の隣りに並んで、未練たっぷりに大好きな図書室を後にした。

「倉内っ、俺とつきあってくれ!お前が委員終わるのを、俺ここでずっと待ってて…」
 
 渡り廊下に差しかかったところで、スポーツ刈りが、耳まで赤くして僕たちの前に立ちふさがる。切羽詰まっていたのかその声はとても、後藤の癇に障ったらしい。
 突然の出来事に硬直する僕の隣りで、後藤はじろりとそのスポーツ刈りを睨んで煩い、と呟く。
「誰だよお前、いきなり。名を名乗れよ…」
「お前こそ誰だよ!?」
 スポーツ刈りの意見は正しい。一年のくせに、新入生らしさのかけらもない後藤は、失礼にもこの場面で欠伸を連発した。その態度はない、と思う。なんていうか、コイツ、普通じゃない。変人だ。
「一年C組、後藤真之。よろしく」
 …あ、挨拶するの。そこで!?何の関係もない後藤が?
 僕はツッコミを入れたかったけど、どうにもスポーツ刈りの真剣な空気が、そうはさせてくれなかった。後藤が眠そうな目で告げると、相手も毒気を抜かれたらしく、お、おう。そう返事をする。
 何この空気?僕は妙にむず痒い気持ちになって、溜息を殺した。
「で、静はオレと帰るから。また今度にして」
「それって…」
 絶望的な声はもう、途中から僕の存在を忘れているかの如く…。
 もう、この展開は滅茶苦茶すぎる。陣内さんに見られなくて良かった、せめて。僕は心の底から、それだけを思った。もし見られていたとしたらきっと、あの人はあれで悪趣味だから、爆笑していたかもしれない。
「行こうぜ、静」
「ごめんなさい」
 なんだか色々、訂正しなきゃいけないことはあったんだけどまあいいかと思って、僕は後藤とゆっくり夕暮れの道を歩いていった。
 どうせ僕には陣内さんという好きな相手がいるんだし、断る理由なんてはっきりいってどうでもいい。スポーツ刈りには悪いけど、僕を好きになる相手なんて大抵、一時の気の迷いなんだろうし。
(後々、この事件が妙な誤解を生む原因になったから、やっぱりちゃんと事実を言えばよかったのかもしれない。そんなこと、後悔したって時間は巻き戻し出来ないけど)
 後藤の歩くテンポは、驚くほど遅い。それは寝ながら歩いているんじゃないかと心配するほどで、僕は吐き出すように呟く。
「変な奴」
「ああ、さっきのな。お前のどこがいいんだろうな…」
「お前だよ後藤のこと!」
「どこが?」
 心底わからない、といった様子で顔をしかめる後藤は、本当に不思議な男だった。
 不遜な態度が何故か苛立たない、そんな雰囲気が流れている。
「大体、何なの?人の顔見るなり、ピカソって」
「オレ選択授業、美術なんだけど。教科書に載ってたピカソの絵が、静の顔にそっくりだった」
 確かに今日の六限目の授業は選択科目で、僕は書道だったから、その絵についてはわからない。ピカソってよく知らないけど、確か抽象画を描くあの有名な画家だよね?
 僕は表情を引きつらせ、歩く速さを後藤に合わせていた足を止めて立ち止まった。
「…そう。僕、ここで右だから、お別れだね」
「よく見ると、お前、きれいな顔してるんだな。笑ってみたら?」
 自分はずっと、今にも眠ってしまいそうな表情を崩さないくせに。
「……………」
 本当に、よくわからない男。
 何の脈絡もなく後藤は初めて僕に笑みを浮かべ、思わしくない反応に興味が薄れてしまったのか右手をあげて、バイバイと笑顔のまま続けた。
 僕たちのファーストインプレッションは、おかしいくらいに会話が噛み合っていない。
「ねえ、明日も来る?」
「来て欲しいのなら、毎日でも」
 気障な言葉は淡々とした口調のせいで嫌味がなくて、この男は一体何を考えているのかいないのか…多分、後者なんだろうけど、僕はやっぱり不思議と、嫌な感じはしなかった。
 何かを言おうとして、まあ明日も来るならいいかその時で。と自分を納得させて、反対側の道を行く。
 
 その夜僕は、ピカソの夢を見るのだった。


  2006.12.21


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