とんび



 おれの名前は、槙 昴冶(まき こうじ)。変態の兄は、真一(しんいち)という。兄弟仲はすこぶる良くない。
「昴冶、お前最近変じゃねえか?」
「どの辺が?」
 幼なじみで隣人の塚本 亮太(つかもと りょうた)が、夕暮れの帰り道、そう言っておれの顔を覗き込む。亮太は背が高いので、不自然に背中を折り曲げてのご心配。おれはそっと目を逸らして、それから溜息を殺した。
「放課後になると共になんていうか、テンション下がるっつーか…。普通、逆なのでは?」
「亮太の勘違いじゃない?学校終わって嬉しいなー、早く家に帰ってダラダラしたいなー」
「…うわ。引くほど棒読みなんですけど」
 最近拍車がかかってきた兄の変態プレイに付き合わされている可哀想なおれは、放課後が来るのが心底つらい。家なんか帰りたくないし、兄の顔を見たくない。
 だけどこんな兄でも亮太にとっては、気のいい兄貴分だったりするから悪口なんか言いたくない。
 何よりおれたち兄弟がそんな関係に至ってしまったと知ったら、亮太は驚きのあまりショック死するんじゃないだろうか。言えない。
「別に何でもないよ。心配してくれるのはありがたいけど、おれのことは放っておいてくれ。亮太もさっさと彼女作ったら?結構モテてるでしょ、実は」
 おれは心にも無いことを言った。
 亮太に彼女ができる?それは喜ばしいというか、むしろ素直には歓迎できない事態だ。羨ましくて、妬ましい。まあ、この幼馴染は恋愛にまったく興味がなさそうで、その手の話は聞いたことがないのだけれども。
「ん〜。昴冶はさ、好きな女いないの?」
「いない。どんな女子でも、絶対、お兄ちゃんの反対にあうことを考えたら…、恋愛なんか出来ない」
 冗談じゃなく下手したら、警察沙汰になりそうだ。想像するとおれは絶望的で死にたい気持ちになってきて、今度こそ深く溜息をつく。
「真にいのブラコンはガチだからな…。けど、いつまでもそうやって一緒にいるわけにはいかないだろ?昴冶だって」
「そうなんだけど、あの人、全然そういうことに頓着してないよ。常識とか、世間の目とか?おれの気持ちなんていつも無視だし」
「相手が俺でも駄目かな〜。男だから、余計反対されそ。『お前にやるなら、僕がこうと付き合うよ』とか言われそう」
「はあ?」
 亮太の奴、いきなり何を言い出すんだろう。
「俺、昴冶のことをそういう意味で好きだよ。今まで、言ったことなかったけど」
「なな、な、何言っちゃってんの〜!?頭大丈夫?全然知らないし!そんなの!!」
「ほらぁ、その反応だよ!かっわいいなーもう。超好きなんだって、本気で。他に相手がいないなら、俺と付き合ってよ」
 頭をぶんぶんと横に振る。
「い、いや無理だって!そんなの出来ないから!!おれ、亮太のことそんな風に思えないし…」
「徐々にでいいんだよ、昴冶だって俺のこと嫌いじゃねーだろ?イチャついてれば、そのうち、そういう気分にもなってくるって」
「ひゃっ…!や、やだ!!やめてよマジで!おれは…お、おれ…なんかっ」
 兄の顔が浮かぶ。どちらが好きかというレベルで問われたら、おれは間違いなく亮太の方が好ましく感じるけど。
 あの兄を説得して、亮太と付き合うなんてのは絶対に無理。おれだって、最低な内容で明日のニュースに載りたくはない。穏便に、平和に何事も無く暮らして生きたいと常々思っているんだから。
 理由を説明できなくて、泣きそうになって言葉が詰まった。
「昴冶?ごめん、突然困らせるようなこと言って。でも、俺本当にお前のことが好きなんだ。大切にしたいし、ずっと一緒にいたいって思ってる。
 キスもそれ以上のこともやりたい。二人でいるとムラムラして、それを我慢するのがもうだいぶ限界で…」
「ストップ!それ以上聞きたくない。悪いけど、無理だよ。おれ、亮太の気持ちは受け入れられない」

「…真にいの方が、俺より、いいの?」

 拒絶するおれの耳に、亮太の低い声が責めるように聞こえた。
「えっ!?」
 考えたことのない問いかけが、おれの思考を停止させる。
 亮太は思いつめたような表情をして、
「昴冶は気づいてるかどうか知らないけど。お前じゃなきゃ、あの人の横暴をそんな風に赦さないよ。
 何かを諦めながらお前が優先させるのは、いつも真にいだ。ご飯を作ってくれるから?家事して、世話をやいてくれるから?それとも他に理由があんの」
「……亮太……」
「お前が傷ついてるのは、図星だから?」
「………」
 おれの心の奥底を、冷たく的確に指摘するのだった。


   ***


 物凄く家に帰りたくなかった。兄と会って、自分は何を思うのだろうかと考えると怖いような気がした。
 おれの最優先は、いつも間違いなく兄なのだ。亮太の言葉を借りるなら、おれが諦めたくないのは兄、ということになるのだろうか?
 まさかそんな。散々罵って、なじって、それなのに気づいてしまったなら、自分だって同じ穴の狢じゃないか。
 それは簡単にショック、という軽いものではなく重い衝撃となっておれに圧し掛かった。
「あれ?こう、おかえり。帰ってたんだね」
「………」
 一言でも言葉を発したら、なんだか泣いてしまいそうで唇を噛む。
「目がうさぎさんだ。こうを泣かす奴は、お兄ちゃん絶対に赦さないからね。僕が守ってあげる、だから元気出して」
 誰が原因でこんなになっていると思っているのだろう、人の気も知らないで。
 なんだか滑稽でせつなくて、おれはぐちゃぐちゃな気持ちに混乱する。泣きたいって思った。
 …ああ、今まではこんな風に感じたことなんてなかったのに。
 泣いて、その胸にすがりついて甘えて優しく慰められたいって、そんな自分の気持ちに気がついて苦しくなる。
「こう?」
 衝動は我慢出来なかった。おれは兄を必要としている、その感情にもう見ない振りはしたくない。
 子供みたいに飛びついたら、ひどく安心して、やっぱり嗚咽がこみ上げてきた。どうしよう、もう離せなくなってしまった。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「…んでも、ない」
 何かを飲み込んだ理由は、多分、おれの中の臆病さと優しさと愛情がごちゃ混ぜになった、複雑なもの。
 よしよし、と優しく背中を撫でる兄はいつもと違ってまっとうな雰囲気でそこに在ったから、よくわからないものは全て消えてしまって、このまま解けてしまえばいいのにとおれは思った。

 その夜、兄はおれの大好きなシフォンケーキを焼いてくれた。ふわっとした甘さが喉に柔らかく広がって、添えられた生クリームにつけて食べるとこれがまた絶品。こういう瞬間に、おれはこの時間の今以外すべてのものがふと、どうでもいいなんて感じることがある。
「美味しい?」
「すごく…。忘れられなくなるくらい」
 素直な感想を告げると、兄は嬉しそうに微笑んだ。この時ばかりは、昔から、ずっと変らない笑顔だ。いつもおれは、この時間にかえってくる。そういう感じ。
「大人しいこうもいいけど、僕は元気につっかかってくるこうの方が安心するよ」
 勇気を出そうと思ったのは、その声音がどこか寂しげだったからかもしれない。昔から、おれは兄の機嫌を損ねるのが怖かった。軽口を叩くのとはまた違う、本気で嫌われるようなことは絶対に出来なかったのだ。その理由。
「お兄ちゃん、おれ、おれ…ねえ。あのね、お兄ちゃんがいいのかも。今まで、わかんなかったけど」
 口に出したら気が抜けて、思わず笑ってしまったんだけど。
「こ、こう…」
「うん。お兄ちゃんがいいや」
 兄が戸惑った表情を浮かべる。いつも惑わされるのはおればかりだったから、なんだか新鮮だ。まだおれが、知らない兄なんてあるのかな。十七年も一緒にいるのに、初めて知ることが残っている?
 そうだとしたら知りたいと、素直に思った。
「なんだよー。嬉しくないの?もっと喜んでくれるかと思ったのに」
「こう、お兄ちゃんは目を開けたまま夢を見ているのか!?ちょっと、僕の頬をぶってくれないかな…」
 その疑問はわからなくもない。今までのおれの態度は、とても、はいそうですかとすぐに信じられるものでもないだろうから。
 おれは遠慮なくグーパンチをした。愛とは時に痛みを伴うものなのである、なんちゃって。
「痛い…。夢じゃ、ない」
「夢なんかじゃないよ。…まだ現実が信じられないのでしたら、お兄様をつねって差し上げても宜しいですけど?」
「あ、鼻血が出た」
「はい。ティッシュ」
 差し出したティッシュは、すぐに鼻血と涙でぐしゅぐしゅになってしまう。
 もう、こんな兄が愛しくてたまらない。こんなに、おれのことを大切に想ってくれている兄のことが。
「こう〜〜〜!!!どうしよう、嬉しくて、う、は、鼻水も出てきた…」
 おれの一挙一動で、こんなに喜んでくれる人はこの兄以外に一生現れないだろう。
「いつもありがと。大好きだよ。恥ずかしいから、一回しか言わないけど」
「うん。うん、お兄ちゃん、その一言で残りの人生元気に生きていける気がするよ…うう……」
 …本気泣きだ。もしかしたら兄の本当の望みは、聞けばおれが驚いてしまうくらい、ささやかなものだったりするのかもしれない。きっと、おれが一つ一つ叶えていってあげられるような。
「もう…。ほんと、しょうがないんだから。お兄ちゃんは」
「うん。ごめんね、こうが帰ってきた時はもう、亮太んちに殴りこみに行ってやろうかと思ってたけど、我慢するから許してね」
 兄はしれっと恐ろしいことを言った。おれの揺れている原因が、何でバレてるの?怖すぎなんだけど。
「そこでなんで、亮太が出てくるのさ!こわっ、どこに目がついてんの」
「こうがいつも亮太と帰ってることくらい、さすがに誰でも知ってるでしょう。昔から、アイツに言われたことは気にするもんね。こう」
 兄の眼光がゆらりと揺らめく。嫉妬を含んだ冷たい口調に、弁解するようにおれは続けた。
「そ、そっか。でも、亮太のおかげでおれは…、自分の気持ちに気がついたんだよ」
「あっそう。それには感謝するけど、もう僕の前で他の男の名前呼ぶのは禁止にしていい?すごく面白くない」
「おれが信用ないみたいで傷つくんだけど」
「お兄ちゃん、こうのこと大好きだよ」
 兄の笑顔は、おれとこんな風になる前の懐かしいような穏やかさで、なんだかそれを見ながら、兄なりに不安だったのだろうか。そんな風に思って、そっと濡れた頬を指で拭った。
「わかってる」
 これからはおれも、お兄ちゃんのことを大切にするよ。


   ***


 翌朝。兄とのいきさつを話すと、亮太はひどく落胆した表情で明後日の方を見た。
「あのさあ俺はね、お前が幸せなんだったら別に真にいでいいよ。ほんと、何も言えないっつーか。あーちくしょう振られた…!マジつらいんですけど。でも、昴冶の笑顔が可愛いから、許してやる」
「うん。ありがとね」
「軽っ!…真にいに泣かされたら、俺に言えよ。泣いてるお前を、せいぜい笑わせてやるくらいはできるから」
 こんな時でも、自分のことよりおれを気遣ってくれる優しい幼なじみはそう言って、鼻水をすするのだった。


  2011.03.07


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