執着

 宿でのある静かな夜。廊下で三蔵は八戒とすれ違った。

「いい気なモンだな」

 三蔵自身もなぜそんな言葉を八戒に投げつけてしまったのか、よく分からない。
 ともかく自分とのことも、悟浄とのことも、一度閨を出ればまるで無かったことのようにふるまう八戒に対して三蔵が無性にイライラしていたことは確かだ。
 先日腕の中であんなに卑猥に腰を振って三蔵の雄をねだったことなど忘れ去ったかのように八戒は振る舞っていた。
 品行方正な昼の立ち居振る舞いと抱いたときの官能的な様子の落差には眩暈がするほどだ。

 八戒は一瞬、三蔵の皮肉に虚を突かれたような表情をした。しかし、次の瞬間どこか暗い笑みを浮かべて答えた。
「……ご挨拶ですね。そうそう、そういえば三蔵はこの間僕のことを淫売だって言いましたけれど」
 八戒は更に言葉を継いだ。彼の周囲だけ闇の色が濃かった。
「余計なお世話ですよ」
 八戒はその秀麗な口元をつり上げるようにして笑った。
「僕の価値は僕が決めます。三蔵、あなたじゃない」
 周囲の闇が密度を変えて凍ったようだった。挑戦的な言葉はどこか妖魔じみた今日の八戒によく似合った。
「昨夜僕が悟浄と同じ部屋で何をしていたか気になるんでしょう? 」
 八戒の気配が漆黒の闇色に染まってゆく。
「ずっと悟浄とセックスしてました。とってもよかったですよ」
 三蔵にとっては残酷な答えを楽しげに綺麗な笑顔で叩きつけてくる。三蔵は妖艶な八戒の表情に魅入られたように動けなくなった。
 ここにいるのは以前の八戒ではない。
 何かが変わってしまった。優しげで傷つきやすく繊細な八戒の陰にひっそりと隠れていた魔性。
 男を虜にして貪り喰らう、これはサキュバスの顔だ。淫魔の顔だ。どうして気がつかなかったろう。

 
 三蔵は発作的に八戒の首を締めた。

 三蔵は自分が八戒を目覚めさせてしまったのだと思った。

 もともと八戒にはこうした魔性めいたものが隠されていたのに違いない。

 理性で彼が隠しおおせてきたものを、暴いたのも三蔵なら、欲しがったのも三蔵なのだ。

 首を締められながら八戒は言った。
「僕を……殺したいんですか」
 三蔵は瞬間我に返り、手の力を弛めた。八戒が途端に咳き込んで廊下の床に崩れ落ちる。
「……いいですよ。殺したいなら・・・どうぞお好きに」
 八戒は咳き込みながらどこか投げやりに言った。

 次の瞬間、三蔵は八戒を自分の部屋へ無理矢理引きずり込んだ。
「……三蔵、あなた」
 部屋の中へ突き飛ばされて、八戒は床に崩れるように倒れた。八戒はどこか憎しみの滲んだ表情で三蔵を見上げる。
「服を全部脱いで脚を開け」
「三蔵! 」
「別にお前、俺に殺されても構わねぇんだろう。だったらそれ位簡単だろうが」
「……! 」
 ベッドまで八戒を引き摺っていく余裕すらなかった。硬い床に八戒を組み敷く。
 怒りと暴力的な衝動が、簡単に性的な衝動に繋がった。大切にしている筈の精巧なガラス細工を粉々に砕く。壊れるのを恐れているなら最初から壊してしまえばいい。
 大切すぎて自分の感情を持て余し、振り回される。相手を思っていること自体が苦しくて何もかも終わりにしたい。

 例えそれが絶望的な答えだったとしても。

「三蔵! 」
「お前が嫌がんのは最初だけだろうが! 逃げんな」
 三蔵にとっての真実は、この前無理やり抱いたときの八戒の熱い喘ぎ声だけだった。

 どうしてこうなってしまうのだろう。

「やめ……」
「単なる性欲処理だ。難しく考えずに相手しろ」
 そうとでも言わなければ三蔵は自分というものを保てないような気がした。性欲処理だと自分自身に言い聞かせる。これ以上こいつにのめりこんだら危険だと。
「ひ……」
 あおむけで、三蔵の暴力的な行為を受ける八戒は顔の前で両腕を交差して抵抗した。
「いやです! どいてください! 」
 しかし、以前この同じ口が自分を求めて艶めかしく喘いでいたのを三蔵は覚えていた。肉体の記憶というものはそう簡単には消えない。
 八戒から早く理性を奪わなければ。そうすればまた忘我の淵で自分をねだってくれるに違いない。そして三蔵は八戒の理性を奪う術は一つしか知らなかった。
 八戒の服の襟元を三蔵は崩していった。相変わらず禁欲的にきっちりと着込んでいる。留め金の多いその服を、舌打ちをしながら引きはいでいった。
 その様はどこか皮の硬い南洋の果実を思わせた。皮は硬いが、それを剥けば白く芳醇な果肉が姿を現して人を誘うのだ。服を剥ぎ取った肌は冷たく、ひどく甘かった。吸い付くような肌だ。
 上着を脱がしたときに、外した肩布で八戒の手を縛り上げた。剥製用の美しい獣を狩る射手にでもなった気がした。
 しかし、三蔵は八戒の躰を見て眉を顰めた。
 八戒の躰は悟浄との情交の跡だらけだった。紅い鬱血が花弁のように全身に散っている。
「何回やった。河童と」
「関係ないでしょう。あなたに」
「言え」
 もの凄い力で押さえつけられ、全身を羽交い絞めにされながらも八戒はふっと笑った。まるで天から降る花のように蟲惑的な微笑だった。しかしその天とやらにはおそらく悪魔がいるに違いない。
「……いちいち憶えていませんよ。あなたよりは回数が多かったことは確かだと思いますがね」
 次の瞬間、三蔵の平手が鳴った。八戒はしたたかに頬を打たれていた。
「……っ! 」
「後悔するぞ。一晩で河童の記録を抜いてやる」
 三蔵は地の底から響くような低音の声で、八戒に囁いた。




「ぐ……が……! 」
 苦しい。八戒はひどく苦しかった。
 三蔵は先日のように、八戒を快楽に突き落としてから犯すのを選ばずに、自分の埒を先にあけることにしたらしい。舌で濡らすこともしないでそのまま突き入れようとする。
 八戒は恐怖で身を竦ませた。躰を捻って逃れようと暴れた。それを引き摺り戻されて押さえ込まれる。
 後ろに三蔵の熱くて硬いものが当たる。かすかには湿ったものも感じるが、三蔵の先走りの体液などでは潤滑剤として到底足りないだろう。それでも無慈悲に三蔵は躰を進めた。
「……!! 」
 息を詰めて八戒は耐えた。ちりちりとどこかが引き攣れて焼けるようだった。背を海老反らせて躰を無茶苦茶に捻る。苦痛だった。拷問に等しかった。
「苦しいか」
 三蔵が綺麗な顔を顰める八戒を見つめながら言った。
「少しは俺の気持ちが分かるか」
 八戒は苦痛のために歯を食いしばりながら首を振った。三蔵が何を言っているのか理解する余裕などどこにも無かった。
 何かにつかまってこの痛みに耐えたかった。しかし両手は肩布で縛り上げられている。
 八戒は仕方なしに爪を手の平に食い込ませるようにして握りしめ、三蔵の行為に耐えた。
「……っ! 」
 三蔵が躰を震わせた。八戒の体内に熱い精液の感覚が広がる。相当早く責め苦が終わったことに安堵のあまり八戒の躰が弛緩した。
 しかし、硬度の落ちない三蔵の楔は躰の中から抜かれる気配は無く、そのまま再び蠢きだした。
「……ひっ……あ」
 八戒にはぴくぴくと三蔵が体内で蠢くのが良く分かった。放たれた精液を掻き混ぜるようにしてそれは蠢いていた。
「これならもうゼリーだのなんだの面倒くせぇの使わなくていいだろう」
 自分の放った快楽の証を潤滑剤代わりにして三蔵は緩々と八戒を貫きだした。
「……随分乱暴ですね」
「河童は優しいのか」
「そんなこと……ばかり……は……あっ……ああっ」
 繊細な粘膜が切れてしまったかと恐れていたが、そんなことにはならなかったらしい。
 強引な行為で快楽を感じられなかった八戒の躰だが、突き入れられ、白濁した液に肉筒を潤されると、まるでそれが媚薬か何かのように作用して、淫らな感覚に侵食されつつあった。
「うっ……あっ……あ……ん」
「……ッ……は……いいみたいじゃねぇか」
 八戒の快楽は容易に三蔵に伝わった。八戒の下の口が三蔵を締め付け、自分の意思を裏切るようにして悦びを素直に語りかけてしまっていた。三蔵が口元を緩ませる。
 躰を激しく求められて奪われる行為の連続に意識が焼き切れそうだ。
 繋がる箇所がぐちゅぐちゅと淫らな音を響かせる。されるがままに暴力的な性行為をなす術もなく受け入れていた八戒だが、そのうち腰奥から背筋へ抜けるようにして快楽が電撃のように駆け上がってくるのを感じていた。
「あ、ああっ……もう……やめ」
 三蔵は八戒の首筋を舐め上げるとその胸を飾る小さな蕾に唇を近づけた。舌で蕩かすようにして嬲り、次に舌先を尖らせて触るか触らないかの繊細な愛撫を施した。
 脚を広げられ、後ろに男の雄を埋め込まれたまま、抜き差しされるのと同時だったので、八戒は自分が快楽に飲み込まれるのに抵抗することができなかった。
 八戒の性的に敏感な躰はその精神を裏切りつつあった。

 躰が心を裏切る。

「んぅっ……あ! ああっ! 」
 八戒は仰け反るようにして三蔵が無理矢理与える快楽に耐えた。嫌だと言っているのに蜜を垂れ流す快楽に弱い自分の躰が憎かった。
 当の本人も知らない間に男を誘うように蜜が滴り、まるで蟲のように相手を引き寄せてしまう。八戒の業のようなものなのだが、本人に自覚などない。
 そのうち三蔵は八戒の均整のとれた脚を掴むとそれを肩へと担ぎ上げた。秀麗な顔に快楽の汗を滲ませ、八戒を責め立てる。
 そのうち何を思ったのか、八戒の足首を掴むとそれに舌を這わせはじめた。確かにそこには悟浄のつけた跡は全く無かった。
「ひ……! いや! それは……やで……」
 八戒の哀願が混じった嬌声には取り合わず、三蔵は八戒を貫いたまま足の指を口に含んだ。
「……!! 」
 声で快楽というものが逃がしきれるものなら逃がしきりたい。八戒は口も閉じられなくなって悶え狂った。
 敏感な粘膜に突き入れられ、擦り上げられながら、足の指までねっとりと舐めまわされる。
 濃厚な愛撫に腰を捻って逃れようとした。しかしそんなことで快楽は逃げてはくれなかった。かえって腰を捻ったことで、三蔵に突き入れられる角度が変わり、二乗された悦楽に躰を痙攣させた。
 既に八戒の粘膜はひくひくと蠢いて三蔵に絡みついている。もうどうしようもなかった。
 饒舌に語りかけてくる八戒の淫らな肉体を三蔵は抱きしめた。他の何が嘘でも、この感覚だけは真実だ。
「は……やめて……やめて下さい」
「何がだ」
「その、舐めるの……」
「すげぇよさそうじゃねぇか。遠慮するな」
 きつく貫くと同時に足の指ひとつひとつに舌を這わせる。耐え切れず八戒は躰を痙攣させて達した。
 白濁した八戒の淫らな液体が三蔵の腹部と自らの古傷にかかる。三蔵は構わずに力の抜けた八戒の躰を貫いた。
「や……やめ……」
 快感のあまり生理的な涙が眦を伝って落ちてゆく。三蔵は一度動きを止めて八戒を上から眺めた。
 どんなに汚してやったと思ってもやはり彼が綺麗なことに変わりはなかった。まるで、孔雀が毒蛇を食べても死なず、その身を汚すことのないように。
 これほどの淫らな姿で男に貪られていても、八戒の本質は何も変わりはしないようだった。
 動きを止めていると、ひくひくと八戒の粘膜が悦び、収縮し痙攣するのが良くわかる。三蔵は悦楽に眉を顰めると、それでも八戒を貪るために再び動いた。
「あ……! い……ま……ッ」
 八戒が腰をくねらせて三蔵に取りすがった。快楽に耐性のない淫らな躰だった。
「奥に……僕の……あたっ……」
「なんだ。奥がいいのか、じゃあ奥にくれてやる」
 三蔵はそう言うと舐めていた足を再び肩にかけなおし、交合がより深くなるように躰を前傾した。途端に八戒の躰が跳ねる。
「やぁ……あっ……ああっ……っ」
 手首は縛められたまま、床に縫い付けられるような苦しい体勢で三蔵を受け入れているのに、八戒は強烈な快楽に押し流されていた。
 一瞬、どこか頭の片隅にそんな自分を恥じる気持ちがよぎったが、三蔵に思考することを許さないとばかりに責め立てられ、八戒は自分を失った。
「あ……さんぞ! 」
 八戒が痙攣する。感じやすい淫らな躰にはとうに限界は過ぎていた。既に三蔵の目の前にいるのは 「八戒」 という名の美しい獣だった。夜にだけしか見ることのできない翡翠色の瞳をした獣。そして三蔵はそれを、むさぼり喰いながら自分もむさぼり喰われている。
「僕の……奥に……きて」
 例え、この瞬間だけでも構いはしない。
 三蔵は再び逐情するべく腰使いを激しいものにしていった。
 果てても、果てても充足することがなかった。終わりの見えない交合の中、夜はひたすら更けていった。





 忘我の時というものは、本人達にとっては一瞬だが、相当時間の流れというのは早い。あっという間である。
 性感に支配されのたうち回っている間というのは、本人にとっては時が止まっているように感じられるが、実際は飛ぶように時間というものは過ぎ去っているのだ。快楽に囚われた本人達だけを置き去りにして。
 例に漏れず、八戒が意識を取り戻してみると、夜が白々と明けようとしていた。
「う……」
 いつの間にかベッドにいたが、いつ移動したかさえ記憶にない。どんな体位でどんな淫らな声を放って三蔵と躰を絡ませ合っていたのかが飛び飛びに記憶によぎるが、もう思い出したくもなかった。
 驚くことに相変わらず三蔵は自分の躰の上にいた。
「も……いいでしょ……? 」
 八戒は自分の声が完全にかすれているのに気がついた。長い時間、快楽に耐えているうちに喉を痛めてしまったのだ。
「ひ……! 」
 いまだに三蔵のを咥えこんだそこを覗き込んで八戒は躰を硬直させた。呆れるほどの長時間、三蔵に突かれ、貫かれ、抜き挿しされたそこは一見白っぽいもので汚れていた。
 しかし、単純に精液というわけでもなかった。どろっとして乳化したような、要するに泡だってクリーム状になったそれを認めたとき、自分がどのくらい長時間飽きずに三蔵と繋がりあっていたのかをまざまざと見せ付けられた気がして、八戒は天を仰いで嘆息した。
 三蔵のものとも八戒のものとも知れぬ、おそらくは二人分が混ざりあった淫らな液体は二人の躰の間で完全に泡だってしまっていた。
 緩いが粘性のあるそれは卵白と同質のものであるから、こうした状態になるのは不思議ではない。
 しかし、これほどになるとは相当のものだ。
 ようやく三蔵は八戒から自分を引き抜いた。抜かれる淫らな感覚に八戒は躰を震わせる。三蔵に構わず、床に散らばった衣服を身に着けようと、立ち上がろうとした八戒に三蔵は言った。
「立てねぇだろ」
 相手の言葉に構わず身を起こして八戒は眉を顰めた。
「う……」
 滅多にあることではない。八戒は悔しげに呻いた。
「今日の出発は延期だ」
 三蔵がマルボロの封を切りながら言った。





 八戒が倒れたと聞いて悟空は転がるように部屋にやってきた。
「八戒! 八戒ってば、調子悪いんだって? 大丈夫? 」
 八戒はいつもと同じ穏やかな笑顔でそれに答える。
「ああ、たいしたことはないんですよ。心配かけて申し訳ないですね。悟空」
「よかったぁ! でも顔色よくないよ。休まなきゃ。でも、ここ三蔵の部屋だよね。一体どうしたの? 」
 確かにこの部屋は三蔵に割り当てられた部屋だった。悟空の疑問はもっともだった。三蔵が口を開く前に八戒が答えた。
「僕、三蔵の部屋の前で気分が悪くなっちゃったんですよ。いやぁ面目ないですねぇ」
 かすれてはいるものの、いつもと同じ優しく丁寧な口調で八戒は悟空に答えた。
 昨日あれほど快楽に喘いでいたのと同じ口から出たとはとても思えない台詞だった。性の残滓など微塵も感じさせない清廉な立ち居振舞いだ。
 昨夜のことは全て夢だったのではないだろうか、三蔵でなくともそう思うだろう。
 まるで幻のように消え失せる儚い交わり。どれほど相手の奥に繋がったと思ってもそれは次の日には残酷に断ち切られている。全ては泡沫のように。
「ねぇ。三蔵? 」
 三蔵の顔も見ずに八戒が同意を求めた。
(あなただって悟空に悪く思われたくないでしょう? )
 八戒の虫も殺さぬような横顔にそう書いてある気がして、三蔵はどこか憎しみを覚えながら肯いた。
「そんなわけで出発は延期する。悟浄のやつはどうした」
 三蔵が悟空に問う。八戒の背中にどこか緊張が走るのが分かった。
「あー! 悟浄のヤツ、昨日の夜から帰ってこないよ。どうせ朝帰りだろ。三蔵いいのかよあれで、アイツの分わざわざ部屋借りる意味ねぇじゃん! 」
「ははは。申し訳ありませんね。悟空」
 どこかほっとした口調で八戒が答えるのを三蔵は黙って不機嫌そうに聞いていた。
「八戒が謝る必要ないだろ! ダメだよ甘やかしちゃ! 」
「あんまり、病人を疲れさせんな、行くぞサル」
 これ以上ここにいたら再び八戒の胸倉を掴んで引き摺りまわしたい衝動に駆られる気がして逃げるように三蔵は言った。
「そうだね、三蔵! 朝ご飯行こ行こ。八戒の分も取ってこなきゃ」
 部屋を立ち去る三蔵の背に向かって駄目押しのように八戒は言った。
 
「どうもありがとうございました。三蔵」

 三蔵は黙ってドアを閉めた。





 悟空と宿の廊下を歩く。
「クソが……」
 三蔵は思わず呟いた。
『どうもありがとうございました。三蔵』八戒のこの言葉を聞いたとき、三蔵には分かった。またあの男は自分との行為をこの言葉で無かった事にしようというのだと。
 そしてまた次の日からはあの全てを漂白したような笑顔で何事も無かったかのように振る舞い続けるつもりなのだと。
 そして三蔵の存在は葬り去られ、全てを手に入れられない独占欲に苦しめられる。幾ら征服しても征服した気がしない。
 まるでそんな男の性質を見透かしたような八戒の振る舞いに三蔵は苦しめられていた。
 綺麗な蝶々が二、三歩先からこちらを振り返って嫣然と笑う。
「まったく気がないわけじゃないとは思うんですよ。でもね、僕、貴方に駆け寄るような真似はしません。だって自由でいたいですからね」 そう言って腕の間からすり抜ける。
 つかまえようとしてもつかまえきれない。つかまえたと思えば陽炎のように消え去る。砂漠で乾き死にする人のように三蔵は八戒に飢え、どこまでも充たされなかった。
 昨夜の行為は何だったのかと三蔵に問いただすこともしない。非難することもない。
 そうした関心を向けることすらもったいないとでも思っているのではないだろうかと勘ぐりたくなる八戒の行動。
 曖昧なまま、まるで全て無かったことのように振る舞うあの優しくて冷たい微笑み。
 そして情欲は凍結される。あの微笑を引きちぎり、地に引き摺り落としたい欲望にとても勝てない。

 陵辱したのは三蔵の筈なのに。

 三蔵は知らないうちに引き摺り回され、振り回されて、その脳髄の隅から隅まで、八戒のことだけで塗り潰されていた。

 他に何にも考えられなくなり、天国と地獄の両方に突き落とされるような。味わい過ぎたら廃人になるような。そんな感情を三蔵は嘗め尽くしている。

「クソが……」
 三蔵は再び呟いた。





 了



 「恋情」に続く