昼顔

「八戒ちゃん? 」
 その日の昼間、たまたま烏哭は家に帰った。
なにもかもおかしかった。
 マンションには誰もいなかった。
 烏哭のたいせつな 『八戒ちゃん』 は煙のように消えていて姿を見せない。

 







 話は昼前にさかのぼる。

 幕張メッセで大開催中の 「科学機器展」 機器メーカーがさまざまな商品を並べる会場に、背の高い天才科学者の姿があった。

「実体顕微鏡のRXZシリーズでリサーチモデルってどれだっけ? 」
 顕微鏡やレンズの老舗メーカーのブースで、烏哭博士が呟く。
「はいっ先生。こちらになります。こちらが当社の研究用最高品質モデルです。このリサーチモデルは型番でRXZ12と申しまして、当社の最高級モデルとなります。蛍光タンパクによる蛍光観察にも最適ですし、いかなる細胞分画も同定できます」
「ふうん」
 本来なら最高品質の機器を買えばいいのだ。しかし最近、科研費はどの分野でも抑えられ気味だった。烏哭の研究所も例外ではない。
 烏哭のような天才科学者が在籍して輝かしい研究をしている研究室は例外中の例外だ。それこそ蘇生実験などやるチームには莫大な研究費が下りるが、他の研究室は微々たる予算に甘んじているところでいっぱいだった。
「ボクの研究室で使うんじゃないんだよね。隣の室長に頼まれちゃってサ」
 朱泱という名の室長から、実体顕微鏡を新調したいと頼まれていたのだった。
「さっそく近日、先生の研究所へご説明に寄らせていただきます」
 オリンパスの技術営業が丁寧な調子で頭を下げ、名刺を差し出す。慣例で烏哭も自分の名刺を灰色のスーツの懐からとりだした。営業がへりくだって烏哭の名刺よりも、より下の方から自分の名刺を渡そうとする。名刺と名刺が一瞬、上下に重なった。
「これはこれは先生、丁寧にありがとうございます」
 ちら、と営業が受け取った烏哭の名刺を横目で値踏みする。烏哭が渡したのは、極めて錚々たるこの国でもトップレベルの権威ある研究所の名刺だった。
 基礎研究に携わる人間として最上級の肩書きだった。Dr.から始まる麗々しい肩書きのついた国際的にも通用する名刺だ。National Research Institute と記された権威の象徴みたいな言葉が添えられている。
 すると。
「これは先生、ご高名な烏哭先生じゃございませんか」
 向かいのブースのNikonから声がかかった。烏哭の研究所、出入りの業者だ。
「何かお探しで。冷たいじゃございませんか。顕微鏡を探しておられるのに、当社にお声をかけてくださらないなんて。先生がお探しでしたら、納入価格を割引させていただきますのに」
「いや、実体顕微鏡を探しているのは、ボクじゃないんだけどサ」
「これはこれは、実体顕微鏡ですか。当社の十八番でございますよ。先生の研究所に納入させていただくなんて名誉にあずかれるのでしたら、それはもちろん勉強させていただきます。ごらんください。こちらのモデルはレンズはカールツァイス製、もちろん細胞分画も連続作業性も優れたモデルを、もちろんそこのオリンパスさんにも負けぬくらいのレベルで揃えさせていただいております」
 ちらり、とオリンパスのブースを横目にNikonの営業が口元をゆがめる。離れていてもイヤミが伝わったのだろう。オリンパスの技術営業が憎らしげにNikonの営業を真正面から睨みつけてきた。  
 同業のライバル会社同士だ。
 烏哭の研究所に納入できれば、今後の売り込みにも 「あの研究所でも、そう、あの烏哭先生にも当社の顕微鏡をご愛用いただいておりまして」 とさりげなく口添えすることができる。権威と信頼性で顧客にダメ押しができるのだ。いい宣伝になるから、営業も必死だ。ライバル社を押しのけて烏哭の研究所に納入できれば今後の売れゆきの桁が違うだろう。それほどの権威がこの天才科学者にはあった。
「いやぁ、ごめんね。ボク、DNAシーケンサーの新しいの探しているからまたね」
 烏哭はひらひらと手をふった。会場は、ひといきれや人の波がすごい。どうにも息が詰まった。
Nikonの営業が 「後日、当社も伺わせていただきます」 と必死で呼びかけるのに、あいまいに手をあげて応じる。
 人が多すぎて、幕張メッセの会場はまっすぐには歩けない。「研究」 と書かれた札を下げたひとびとや「メーカー」と書かれた札の一群、「医療・生命系」 と書かれた札のひとなど科学研究分野に関与する様々な立場の人間が緑のカーペットを敷かれた上を行過ぎる。
「院長先生! こちらをご説明してもよろしいでしょうか」
 ひときわ必死な声が聞こえて、烏哭は顔を上げた。メガネのブリッジを人差し指で押し上げる仕草をしながら、あたりを見渡した。声がしたのは医療系機器メーカーのブースからだ。医療系だけあって、清潔な未来っぽい銀色と白を基調としたパーティション。その内側に幾つか商談用の椅子が置かれている。見るとひとりの営業が必死になってひとりの男を引きとめようとしていた。
「なんだ。時間がねぇ。早く言え」
 呼び止められて、男は金の髪を揺らして振り返った。その男の容姿を見て、思わず周囲の人間たちが息を呑んだ。
 『院長』 と呼ばれているのに、その男は非常に若かった。若すぎる。金の糸でできているような華麗な髪、紫暗の瞳、通った鼻梁に白皙の美麗な顔立ち。スーツ姿で振り返った様子は、まさに水が滴るなんとやらだった。こんな理系男ばかりのむさくるしい空間に、月の魔魅か死の天使でも降り立ったような夢幻的な姿だ。
「こちらの医療用分析機器は血液分画の多様性に特化し、最速で30サンプルの診断分析が一度に可能です」
「そいつはリースにすると幾らくらいになる。チッ、リース屋に計算させねぇとだめだな。とっとと、てめぇらは金額の見積もりでも出せ。話はそれからだ」
 白皙の死の大天使、そんな様子で 『院長』 は冷たく言うと、スーツの内ポケットから自分の名刺を取り出して投げるように業者に渡した。
「早速、明日にでも見積もりを持参して先生の病院にお伺いさせていただきます。ありがとうございます」
 営業が低身低頭へりくだっていう様子に、烏哭が鼻白んだ。金の髪をした院長。ひとをひととも思わぬいやな男だ。しかし若くて美しい。
「あーなんかヤなものみたよね」
 烏哭はひとり呟いた。その癖のある黒い髪を片手でくしゃくしゃと掻いた。
「もー、おうちに帰っちゃおうかな。東京はひとが多すぎて困るよね。こーゆー分析機器の展示会とかで、最新の研究用のモデルをいちど見ておこうと思ったけど」
 どうにも人が多くていやになった。もうすぐ昼なので、巨大な展示場はすぐそばの階上の中華料理屋だの、レストランだのにひとが吸い込まれてゆく。それを尻目に、烏哭はだいじな八戒ちゃんのいるスィートホームへとっとと帰ることにした。

 
 しかし、
「八戒ちゃん? 」
 昼過ぎの2時ごろ、烏哭が自宅にたどりつくと、ひとの気配はなかった。鍵で開けて、リビングに入る。きちんとどこもかしこもきれいに片付けられているが、黒髪のかわいい恋人の姿はない。
「あれ」
 なんとなく、心がざわめいた。いやな予感がした。
いない。烏哭のかわいいひとはいない。

 今日、彼がどこかに出かける予定があるなんて、聞いていない。

 烏哭は呆然とリビングのソファーに腰掛けた。あの黒髪の美青年がいないだけで、ひどく家が空虚だった。オリーブ色の皮製のソファー、それに合わせた渋い色味の、中央アジア製のラグ。刺繍の入った毛足の長い敷物が床を覆う。エキゾチックな観葉植物が窓際で大きな葉を広げ、濡れたような、みずみずしい緑が美しい。
 そのまま、どのくらい過ごしていたのか。
 ぼんやりと窓の外を眺めていると、陽の光が射しこみ、窓ガラスが虹色に光っている。もう陽も傾いてきていた。けだるい午後の気配が部屋にただよう。

 そんなときだった。
 ガチャ、ドアノブが不意にまわされる音がした。

 すらり、とした細い長身が、姿をのぞかせる。烏哭は横目で認識すると、思わず身構えた。
 いかにも疲れたような表情で、烏哭の愛している黒髪のきれいな青年がリビングに現れたのだった。
 もう、時刻にして夕方の4時を回っている。烏哭の買った、薄青の、ペールブルーの品のいいシャツを羽織って、下には生成りのチノパンを身につけている。烏哭が既に帰っていることなど、認識していないのだろう。玄関には烏哭の脱いだ靴があるはずなのに気がついていないのだ。おそらくそれほど疲れているに違いない。
 なんで、疲れてなんかいるのか。
 八戒は仕事もしていない。学校も通っていないのだ。疲れることなどひとつもないはずだ。
それなのに、ため息をついて、リビングルームに入ってきた。
「……お帰り」
 烏哭は声をかけた。かけざるを得なかった。身を隠す暇もなかったからだ。
「烏哭さん!? 」
 振り向いた八戒の顔には、明らかな驚きと警戒が浮かんでいた。なんでこんなに早く、この家にいるのか、驚いている表情だ。
「早めに帰ってきちゃったよ」
 烏哭は八戒を注意深く見つめながら言葉を継いだ。いやな感じだった。美しい石の下をひっくり返したら、毒虫がひそんでいたような感覚だ。
「き、気がつきませんでした。早く帰るなら、朝、言ってくれればいいのに」
 八戒の口調がしどろもどろになる。かすかに語尾が震えて、烏哭を責めるような口ぶりだ。
「朝、わざわざ、言わなかったら、昼間、どうしているつもりだったの? 」
 胡乱げに漆黒の目を光らせて烏哭が呟く。メガネのレンズが白く光った。何かがおかしかった。
「どこに行ってたの」
 思わず問い詰める調子になるのを、どうしようもない。
「い、いえ、何も別に」
 八戒は烏哭と目を合わせない。秘密めいた気配がその全身から香る。烏哭に隠し事をしているのだ。体液という体液すら、交換するような閨を共にしているのに、そんな烏哭相手だというのに、この青年ときたら何かを秘密にしているのだ。烏哭はかけたメガネのレンズを光らせ、ちり、と痛む胸のあたりを、着ていたシャツごと握り締めた。
 許せなかった。
「八戒ちゃん」
 痛むような胸を抱えて、それでも烏哭はそれ以上、八戒のことを問い詰められなかった。

 愛しているからこそ、真実を知りたくない。




――――昼間、烏哭のマンションに八戒はいない。
 あの美しい黒髪の青年はいない。

 極めて奇怪なことだった。
 烏哭から渡されたカードキーのひとつを手に、自宅マンションに鍵をすると、八戒は昼間、どこともともなく出てゆくようだった。もちろん、夕飯の下ごしらえはしてあるし、夕方の4時には帰るようにしているらしい。几帳面な彼らしかった。

 烏哭が突然、家へ帰らなかったら、気がつかなかっただろう。

 そのまま、違和感を抱いたまま、日々が過ぎた。
 何度か、烏哭は出張の機会などに、途中、家に立ち寄ってみた。昼間、八戒はやはりマンションにいなかった。烏哭に秘密でどこかにこっそり外出しているのだ。


 不安な心地がした。













 そんなとある日の午後。

 研究所の薬品庫の一角。天井を覆う、蛍光灯の明かりもつけず、薄暗いままたたずむ人影があった。
 烏哭だ。
 博士は古い分析試薬の棚の前に立っていた。ほこりを薄っすらと被った、スチール製の薬品棚。この棚自体が高価な品だった。頑丈でこれ以上ないほどの品質でつくられ、何十年もたっているのに錆びひとつ浮いてこない。さすがのつくりだ。それなのに、その薬品棚自体が打ち捨てられているような気配に満ちていた。

 古い試薬の類が並んでいる。分析方法や分析機械類が新しくなると、それに基づいて試薬の類も新しいものになる。
 しかし、途中まで開封していたものを突然捨てるというわけにもいかない。いや、本当はまめに申告して捨てればいいのだろうが、医薬外毒劇物だったりして廃棄にも許可がいる。
 そんなわけで、相当まめな研究員でもいない限り、研究所というものは廃棄するしかない古い試薬の類がたまりがちなのだ。
「メチルオレンジ、メチルブルー、メチルレッド」
 烏哭が呟く。細胞の組織片を染色するための試薬たちだ。メチルブルーなど発がん性は1Aであり取り扱いには注意が必要だ。
「……ブリリアントグリーン」
 染色液の中では珍しく美しい緑に発色する試薬を眺めながら、思わず烏哭博士は呟いていた。
 緑。きれいな緑色は年若い恋人の瞳の色を連想させる。
 しかし、あの美しい青年が昼間、何をしているのか、烏哭はちっとも知らないのだ。一瞬、目の前に白昼夢のようにいやな光景が浮かんだ。あの若い肉体を他の男に任せているかわいい恋人の図だ。烏哭の目を盗んで、どこの誰とも知らない男に抱かれている、八戒の姿を想像した。
 ありえないことではなかった。あんなに美しいのだ。烏哭の知らない昼間、誰かに誘惑されたに違いない。額に薄っすらと汗を浮かべ、烏哭の贈った高価な服を脱いで脚を開き、烏哭以外の雄を嬉々として受け入れている。
 あの秀麗な唇が、どんな声を放つのか、もう考えたくもない。烏哭が抱くときと同じように甘い声をあげて喘いでいるのだろうか、それとも。
「烏哭」
 背後から、不意に黄博士に呼びかけられた。いつの間に後ろにいたのだろう。まったく気がつかなかった。かなりの時間が経過していたらしい。
「アナタ、顕微鏡買うの? 業者呼んだ? いまメーカーの営業が事務室に来てるわよ」
 ようやく、烏哭は我に返った。白衣を着たまま、ゆっくりと振り向いた。





 家に帰りたくない。
それは、最近の偽らざる烏哭の本音だった。
 いや、帰れば八戒が待っている。きれいに家を掃除して、おいしい夕食をつくって待っていてくれる。
 しかし、昼間はいないのだ。しかも昼間いない理由を言ってくれない。秘密にしている。いやな想像ばかりしてしまう。
 ため息をつきながら、マンションの正面玄関で暗証番号を打ち込み、中に入るとエレベータに乗った。そしらぬふりをするために、心構えが必要だった。苦しかった。
 それでも、問い詰めたくなかった。それでも傍にいて欲しかったから。

「おかえりなさい」
 ドアをあけると弾んだ声がした。長めの前髪が艶やかで匂うようだ。八戒だった。烏哭のプレゼントした青い縦ストライプの爽やかなシャツを着て、玄関先で優しく微笑んでいる。
「ず、ずいぶんと、早かったですね」
 何かを隠している様子だ。無理に微笑んでいるようにも見える。黒髪が玄関の照明を浴びて光を放つ。
「ああ」
 思わず暗い声が出た。玄関の照明は明るいのに。革靴を脱ごうと屈んだ瞬間、ふいに何か衝動的なものが胸に込み上げてきた。
「昼間、キミどこに行ってるの」
 思わず、といった調子で言ってしまった。硬い声が出た。だめだった。限界だった。我慢できなかったのだ。もう終わりだ。
「え」
 八戒が目を見開く。それはまるで悪戯が露見した子供のような表情だった。烏哭は確信した。この美しい青年は、烏哭に言えない秘密が確かにあるのだ。恋するものの哀しい本能で烏哭には分かった。
「昼間、何しているの、ボクがいないときに。誰と逢ってるの」
 漆黒の瞳をメガネのレンズ越しに光らせ、正面から八戒を見据えた。哀しかった。
「え? 」
 緑色の瞳が驚いたようにいっそう見開かれる。思いもよらぬことを言われたひとのように、その可憐な唇が小さく開いた。
「他の男とヤった? そいつのこと、好き? でもダメだよ。別れてなんかあげないからね」
 嫉妬がべったりとにじんだ薄暗い声だった。銀鼠色のスーツ姿に紺色のネクタイをきっちり嵌めた烏哭はどこからどう見ても聡明なエリートに見える。それなのに、この自分よりはるかに年の若い黒髪の青年に振り回されて苦しんでいるのだ。
「烏哭さ……! 」
 八戒は腕をつかまれた。すごい力だ。烏哭は真剣だった。
「キミ、今日はなんかやけにうれしそうじゃない」
 ねっとりとした言い方だった。じわじわと相手を真綿で首を絞める言い方だ。賢くて粘質な男の悪い特徴が全部出ている。
「なんなの。今日こそキミが隠している相手のこと、白状させてあげるよ……ベッドでね」
 そのまま、引きずっていこうとするのに、八戒が必死で呼びかけた。腕をつかまれてシャツに包まれた細い身体をくねらす。そんな仕草が体の線を強調してなまめかしい。ますます、烏哭はつかんだ腕の力を強くした。八戒が悲鳴をあげる。引っ立てるみたいに、マンションの部屋から部屋へつきまわした。
「烏哭さん! 」
 烏哭は八戒を逃がさないとばかりに、腕をつかんだまま、引きずっていってリビングに続くドアを開けた、するとそこには。


 
 意外な光景が広がっていた。








 台所から続く大きなテーブルの上に、ごちそうが並んでいた。

 色鮮やかな花が食卓に飾られている。華やかだが邪魔にはならないくらいのお祝いにぴったりな花束だ。青いトルコキキョウや黄色いコスモスが可憐だ。そのすぐ傍には、小さいキャンドルが火を灯して揺らめいている。筒状をしたガラスの覆いを被せられ、暖かいオレンジ色の火をテーブルの上へ反射させている。
 シャンパンが氷の入った金属製のいれものに入れられて冷やされ、とりどりの鮮やかな緑色を見せてサラダが美しく皿に盛られている。前菜なのか、スモークサーモンやオリーブがつやつやと輝いていてとてもおいしそうだ。モッツアレラチーズが美しく切り分けられ、緑色のバジルの葉や、赤いトマトとともに挟んで並べられ、金色のオリーブオイルをまわしかけられている。テーブルの上は華やかだった。
 ふたり分の白い大皿が向かい合わせに並び、銀色のフォークやナイフが光っている。
 台所の方からは食欲をそそるいい匂いが鼻をくすぐる。ソースをかけられたローストビーフだのの香ばしい匂いだ。
「これは……」
 今度は烏哭が目を丸くする番だった。思わず、八戒をつかんでいた腕を放す。
「もう。まだ僕、お祝いのカードを書き終わってなかったのに」
 腕の中で、八戒が口を尖らせた。つかまれた手首が烏哭の指の跡で赤くなっている。痛そうに片手で押さえている。骨まできしむくらいの力でつかまれていたのだった。
「これって」
 思わず烏哭は片手で口元を覆った。驚いていた。
「あはは、びっくりしてますね。烏哭さんったら」
 カラスが突然、豆鉄砲でも食らったかのような顔をしている烏哭を見て、八戒が愉快そうに笑う。してやったりという顔だ。この顔が見たくて内緒にしていたのだろう。
「最近、昼間」
 八戒は笑顔で続けた。
「僕、子供塾で塾の講師のバイトをしてるんです」
 きれいでかわいい小さな顔を下にうつむけた。長いまつげが下まぶたに影を落としている。
「たいしたバイト料じゃないですけど、どうしても貴方の」
 八戒は優雅な仕草で、烏哭の席の方を指し示した。白い大皿の前に、青いリボンをかけられた、白い包みがあった。
「お誕生日にプレゼントしたかったから」
 頬をほんのりと上気させて、八戒は言った。照れている。清潔そうなその笑顔に、縦の青い縞のあるシャツのえりが映える。

 




「……よく考えたら、そんなふうに僕、思われていたんですね」
 八戒が細長いシャンパングラスの中から立ち上る、細かい泡を見つめながら呟く。
「昼間、浮気してるって」
「は、はっかいちゃん」
 烏哭がしどろもどろになった。どうにも今や立場がまずい。スーツを脱ぐことも忘れて八戒の顔色をひたすらうかがっている。
「昼間、他の男と……なんて」
 八戒の表情におどろおどろしい影が差した。
「は、はっかいちゃん」
 こんなに怖い八戒ははじめてだった。いつもみたいに平手打ちされる方がましだ。
「僕が貴方にプレゼントを贈りたさに、一生懸命になってアルバイトしてたのに貴方ときたら」
 小姑めいたぐちぐちとした陰険な口調がおそろしい。その癖、口もとには、依然としてほのかな笑みを浮かべたままなのがこわい。額に血管まで浮きそうなくらい怒っているのに、顔は笑いの表情をとったままだ。それはまるで、十一面観音の裏の顔。人々の愚かさを嘲笑う恐ろしい面の表情を連想させる。
「は、はっかいちゃん」
 突然、烏哭が目の前で頭を下げた。
「ごめんッ本当にごめんなさい」
 テーブルに額をつけんばかりに平謝りしている。
「だってっ。愛してるからッ。つい心配になっちゃって! キミかわいいし、ボク心配で心配でつい悪い想像しちゃって」
 顔をあげると両手を合わせて拝むようにした。必死だ。
「なんでもする。なんでもするよ。なんでもボクするから許して」
「今度、デートしたいです」
 ひっく。赤い顔をして八戒は呟いた。珍しく酔っている。テーブルの上には、ターキーやらウィスキーやらあらゆる酒瓶が空いている。腹いせに片端から飲み干しているらしい。
「今度、貴方とゆっくりデートしたいです。ふたりきりで、どこか行きたいなぁ」
 酔ってないと、こんな言葉は言わないに違いない。
「どこ! どこでもいいよ連れてくよ。どこがいい? 」
 必死になって博士が叫ぶ。烏哭の言葉に、八戒はちょっと考えると、はにかむような表情をうかべて指を折りだした。
「ええとぉ、水族館とか本屋さんとかぁ、鳥のいっぱいいる動物園とか」
 無邪気でかわいい仕草だ。目元がほんのりと赤い。確かに酔っ払っている。
「全部連れてく! お願い八戒ちゃん、だから捨てないでボクのこと! 」
 まだ着替えていないスーツ姿のまま、烏哭は八戒にすがりついた。
「デートなのにホテルとかに直行したりぃ、そんなのはいやだなって僕ずっと思ってて」
 かわいい口元を八戒が尖らす。マンションだと行為の間中、声を抑えがちになる八戒だったが、外のホテルなどだと、警戒がゆるむのか甘い声を大きめにあげてくれる。反応も大胆になる。 烏哭はそんな八戒に夢中だった。
 ついつい休みの日などは長時間、そんなところで抱いてしまっていた。そして普通のホテルはやはりセックスに特化していないのでまだるっこしい。
 しかし、便利だからってラブホばかりに連れ込まれては、段々虚しくなる。愛されている実感がわいてこない。身体だけが目的なのかな、と思われたってしょうがないところだ。
 烏哭は立場がなかった。天然鬼畜ないつもの行状を、この機とばかりに責め立てられた。
「分かった、全部ボクが悪かった。本当に悪かったよ許して」
「あー僕、こんな貴方のためにはりきって手作りのバースデーケーキなんか焼いちゃって……馬鹿みたい」
 ふらりと立ち上がると、台所から何か大きなものを抱えて戻ってきた。
「こんなに一生懸命に貴方なんかを祝おうとしてたのに、ずっと浮気してるなんて思われてたなんて」
 言葉もあやしいが足元もふらついていてあやしい。ふらつく手で抱えているのは、八戒手作りのバースデーケーキだ。
「こんなもの、もうこんなもの捨ててや……」
「うわああああボク全部! 食べるからっ食べるからっ。おねがい八戒ちゃんっやめて!! 」
「飾りつけとか苦労して」
「うっわ。この生クリームの絞り方とかイチゴの載せ方とかプロみたい。さすがだねェ八戒ちゃんってば」
 必死だ。
「この、お祝いのプレートとかも、苦労して」
「あ、ありがとう。 『烏哭さんおたんじょうびおめでとう』 って。きれいだね。チョコレートで書いたのコレ? すごいすごい! うれしいよ! 」
「それなのに、貴方は僕が昼間、浮気してるって」
「ああああ本当にごめんってばごめん許してェ愛してるよ! 」


 そんなかんじで烏哭博士の誕生日の夜は過ぎていった。






 
やっぱり続いちゃう。