三蔵×悟能(1)

 「おい、そこのガキ」
 三蔵は眉間にしわを寄せて顔をそむけ、うっとうしそうに少年を呼んだ。
 静かな庭だ。
 どこからともなく、何かが池の上を跳ねる音が聞こえてくる。
「『ガキ』じゃなくって僕は『悟能』です。いつになったら名前を覚えていただけるんでしょうか」
 不機嫌さを隠しもしない幼い声が返事をする。――――声変わり前だ。
 緑色の瞳をした少年が睨んでいる。背は三蔵より頭ひとつ分は低い。
 前髪は目にかかるくらいの長さだが、後頭部の髪の毛は綺麗に短く切られ、襟足から白い首が伸びている。
 悟能は黒縁のメガネをつけた、敏捷で賢い小鹿みたいな少年だった。
「皆さん、貴方のことを探してますよ」
 ちょん、と小さく整った口が、これまた小生意気な言葉を紡いだ。その口調は明らかに目の前の高僧を非難していた。
「信じられませんね。三蔵法師様ともあろうかたが法要をサボってこんなとこにおられるなんて」
 まだ、幼いなりだったが、言うことは大人以上だった。
 畏れ多くも慶雲院の最高僧様を相手にして一歩も怯んだ様子がない。
 簡単な一重の衣を着て、寺の稚児らしい様子を作ってはいるものの、どちらかといえば、まだまだ半ズボンの方が似合いそうなくせにだ。
 確かに三蔵が『ガキ』呼ばわりするのも、しょうがないところなのにだ。
「うるせぇ」
 最高僧様は不機嫌そうに口元からタバコの煙を吐いた。紫煙が庭木の緑の間へたなびき散ってゆく。
 その向こうには青々と苔むした岩が見え、その上に赤い紅葉が散りかかる、目にも鮮やかな景色が広がっている。
「あんな、かったるい行事になんざ、出ていられるか。ったく面倒くせぇ。俺は絶対行かねぇからな。――――そう伝えとけ」
 三蔵は黒髪の少年へ一瞥もくれずに、庭の片隅にある池を見つめながら言った。
 静かな水面にはときどき、気まぐれに輪ができては消えてゆく。鯉が尾で叩いているのだ。軽やかな水音が立つのはそのせいだった。
 庭は華やかすぎるくらい華やかだ。
 そして、一番華やかなのは、もちろん―――――。
「分かったか、分かったなら、もう行け」
 最高僧を名乗るこの男自身だった。
 眉間のあたりに苛々とした癇症な皺が走る。しかし、そんな様子すら絵になった。
 金の糸でつくったかと見間違うほど綺麗な髪の間から、きつく光る紫暗の瞳がのぞく。
 年の頃は二十歳を幾つか越えたところだろう。その肉体をつくる線は、青年期の精悍さを備えている。
「おい! 俺の前から消えろ」
 そんな三蔵様の命令に、悟能は逆らった。
「貴方をみんなのところへ連れていかないわけにはいきません」
 幼いながらも、きっぱりとした声だった。
「僕が叱られます」
 少年は唇を尖らせた。
「貴方にナントカとかいうお経を上げてもらうんだって、寺のみんなが言ってますよ。なのに肝心の『三蔵様』がこないもんだから青くなっちゃって――――」
「ほっとけ」
 派手な容姿の三蔵が火のついたタバコを手にしたまま、投げやりに呟く。
「本当にくだらねぇ」
 整った白皙の面に、苛立った稲妻みたいな表情が走り抜ける。この男は剣呑で美しい豹に似ている。
 悟能はその様子を見て肩をすくめた。「三蔵様」は完全にへそを曲げているらしい。こうなっては、もう誰にも止められないのだ。

 桃源郷、随一の寺「慶雲院」。仏法を守って睨みを効かせる、この名刹の権威は四海を圧して鳴り響く。
 そして、この寺の権力者は最高僧である『玄奘三蔵法師様』――――。
 悟能は、この畏れ多くも『三蔵様』に拾われ連れてこられたのだ。
 お偉い最高僧である三蔵様は気難しかった。その身の回りの世話全般がこの小さな悟能少年の仕事だった。



 そんな、ある日の夕方。悟能が渡り廊下を歩いているとき。
「おい、拾われッ子」
 庫裡――――寺の大きな台所から声がかかった。
 台所の窓から、悟能の姿は丸見えだったらしい。
 少年はこれもお役目とばかり諦めたように無愛想な表情をつくり、戸口へまわって顔を出した。
「……悟能です」
 慶雲院で養われて、もう半月以上経つが、なかなか本当の名前で呼ばれない。
 おもしろくない。
 しかし、悟能に声をかけてきた相手は、そんな胸中など知らない。
「三蔵様はもう、ご自分のお部屋にお戻りなのか」
 墨染めの衣の袖を紐で絡げて縛り、夕食の支度に追われている。
「どうして僕に聞くんですか」
 台所では、大勢の人々が騒がしく立ち働いている。夕食用の大きな白いカブが洗われ、濡れ輝いているのが見える。手早く緑の葉が包丁で切り刻まれてゆく音が立つ。野菜の茹でられる釜の立つ音やら、刻む音やら、あらゆる雑多な音が悟能の耳に届いた。
「三蔵様のことならオマエさんが一番、詳しかろうが」
 悟能を呼び止めた相手は丸坊主の頭をつるりと撫でて、いやな笑い方をした。
「何しろ、あの三蔵様のご執心の稚児だからな」
 横合いから、また違う声が飛んだ。
「珍しいこともあったもんだ」
 精進料理を作っている大勢の僧たちが、どっと野卑な声を上げる。
「あの冷血なお方が執着する相手がいるなんてな」
「それも、こーんな男の童ときた」
「美童に弱いとはな。そんなご趣味とは知らなんだ」
「いままで稚児なんぞは片端から怒鳴って追い返したのに」
「いやいや、単にいままでの稚児では好みに合わなかっただけだろう」
「こういうのがお好みなのだな、あの方の。なるほど黒髪で端麗な――――なかなか三蔵様も面食いだわい」
 卑猥な含み笑いが厨房に響く。
「用事がないなら、僕はこれで――――」
 悟能はすげなく言った。くだらない連中に関わりたくなかった。
「まぁ待て」
 稚児らしい着物姿のその両手に、漆塗りの黒い盆が渡された。見る間にあれよあれよと小皿が載せられてゆく。
「オマエくらいしか、あの気難しい三蔵様の給仕ができる童はいないからな」
 厨房の僧は肩をすくめた。三蔵は慶雲院にいる誰からも恐れられていた。
「三蔵様に、お料理をすすめてこい。オマエの給仕なら召し上がるだろうて」
 漆塗りの四角い盆の上には、あっという間に細々とした皿がのせられた。青い小鉢に青菜のおひたしが置かれ、白いご飯が綺麗に器に盛られている。小さな小皿には赤い小梅がのり、カブと豆腐と油揚げでこさえた汁物からは、香りづけに垂らされたごま油の匂いが漂い食欲をそそった。
「ついでに、オマエさんのことも召し上がるのかどうか、後で教えてくれ」
 再び厨房に下卑た笑い声が漏れた。彼らにとってみれば、悟能の存在は三蔵を唯一、あげつらえる弱点だった。
 いつも、お高く止まっている最高僧様が街へ出られたとき、なんの気まぐれか拾ってこられたのが、この小生意気な黒髪の小僧だったのだ。
『コイツを拾った。ハラがすいてるそうだ。なんか食わせてやれ』
 三蔵がそっけない調子で、悟能を連れてきたとき、確かに一見、少年は汚れたみすぼらしい乞食の小童に見えた。
 しかし、湯浴みをさせて、浅黄色の水干をまとわせてみれば、どうしてどうして、三蔵様が血迷うのも、これではもっともだと思われるほど、美麗な稚児姿になった。黒水晶みたいな艶を放つ髪はまぶしく、目の色は高貴な翡翠を思わせた。優しげな顔立ちも人の目を惹きつけてやまない。
 孤児だというし、こんな綺麗な顔をしていては、当然、男を知っているだろう。誰もが内心そう思ったが、悟能は、そんな周囲の思惑や推測など、とんと知らぬげだった。
 そして、箸の運び方にも、座り方にも、三蔵の世話をする手つきにも、どこにも男へ媚びたところはひとかけらも見つけられなかった。
 確かに巷にたむろする人買いどもの毒牙にはかかっていないらしかった。奇跡だと誰もが思った。
――――本当の初物だ。
――――なるほど、三蔵様はお目がお高い。
 周囲の野卑な下僧どもはそう言いあった。
 淡い色合いの衣が、悟能の肉体をそっと包み込んでいる。女でもないが、完全な男でもない。大人の男に成りきらぬ中性的な美しさだ。本人は、自分から立ちのぼる未成熟な色香に無頓着だった。
 とはいえ、三蔵様もまだ完全に手はつけておいでではないらしい。
 それもその筈、寺院で召し使われる少年――――稚児は、僧侶と同衾するとなると特定の手順を踏まねばならない。
 通常、稚児灌頂と呼ばれる極めてまわりくどい儀式が必要になる。普通はそうした面倒事を乗り越えて、ようやく高僧達はお気に入りの美童を傍へ侍らせるのだ。
 厨房にいる人々はこっそりと目を交わしあった。あの面倒臭がりな三蔵様が、そんなご大層な儀式なんぞを執り行うとは思えない。
 どうするのだろうともっぱらの噂であった。
 悟能は人々の噂や思惑も知らぬげに盆をかかげ、三蔵の居室へ続く長い廊下を歩いて行った。



 三蔵の居室は寺の一番奥だ。
 悟能がくる前は、最高僧は不眠に悩んでいたようだった。
 本堂で昼夜、寝もせずに経をあげたりしていたらしいが、最近は少しはましになってきたようだ。
 周囲の人々に聞けば、三蔵様は長い旅路の果てに慶雲院にたどり着いたのだという話だった。疲れもあったのかもしれない。
 しかし、悟能がお傍近くに控えているときに限り、安心するのか、三蔵はうたた寝をしたりするのだ。
 今日もそうだった。

「お食事の用意ができました」
 三蔵のいる間へ声をかける。木の格子が嵌まった引き戸を開け、中に入る。
「三蔵――――」
 悟能は目を丸くした。
 三蔵は眠っていた。文机を傍に引き寄せ、その傍の床で転がるようにして寝ている。
 黒光りする木製の机が素っ気ない風情で置かれている。木目が鶏の羽のように見える鶏翅木を使った高級な机だ。その上に経がひもとかれたままになっている。三蔵は傍の寝台へ横になっていた。読んでいるうちに眠ってしまったようだった。
 毛布のたぐいは何も躰にかけていない。無頓着にも薄い着物一枚という格好だ。いつもの傲慢さからは想像できないが、けっこうあどけない寝顔だった。
 悟能はそれを見て、少し口元を緩めた。机の上の経文を丁寧な手つきでしまうと、夕ご飯の載った朱塗りの盆を置く。こうしたことも悟能の仕事なのだ。寒かろうと三蔵へ手を伸ばした。薄い毛布の一枚でもかけなくては風邪をひいてしまう。
 そのときだった。
 突然、銃の撃鉄を起こす鋭い音が部屋に響いた。
「!」
 悟能はいつの間にか硬い金属の塊を額に押し当てられているのに気がついた。銀の小銃、S&Wだ。
 三蔵が目を覚ましたのだ。
 金の髪の最高僧がものすごい形相で、悟能を睨み据えている。紫暗の瞳が殺意を帯びて光った。
「……てめぇは」
 僧がまとうにはあまりにも物騒な殺気を発散している。
「さ、さんぞ……」
 戸惑いに満ちた声を悟能は漏らした。
「……なんだ、オマエか」
 自分を起こしたのが、ようやく悟能だと気がつくと、三蔵は安心したようにため息をつき、銃を懐にしまった。
「……夕食のお時間です」
 少年は息をゆっくりと吐きながら言った。心臓が止まるかと思った。
「夢を見ていた」
 三蔵はぼそっと呟いた。銃など向けてしまったので、バツが悪いに違いない。
 しかし、謝らない。全く素直ではない。
「そうですか」
 銃を向けられたというのに、悟能は何も聞かなかった。相手を気遣ったのだ。
 きっと悪い夢を見ていたのだろうと思った。言いたくもない内容の夢に違いない。
「では、僕、他の食事も持ってきます」
 盆の上に載ってるのは、白米の飯と、漬物と汁物、それに煮物の類だった。主菜である焼き物などはまだ運んでいない。
「これ以上、持ってくるんじゃねぇ」
 最高僧はぶっきらぼうに言った。
「お代わりのご飯も」
「そんなに食わねぇぞ」
 寝起きなので、三蔵の襟足の長い髪は、少々癖がついて四方へ跳ねている。
「ここにいろ」
 ぼつり、と三蔵は呟いた。それは意外なほど心細げな声だったので、悟能は驚いた。
「茶」
「はい」
 三蔵に言われて、差し出された湯のみに茶を注ぐ。
「……オマエだったのか」
 三蔵は食事をとりながら、まだ、ぼそぼそと呟いている。
「よほど悪い夢をご覧になったんですね」
 緑色の目を細め、少年は、そっと机の上に茶の入った湯のみを置いた。
「……」
 無言だった。
 食事が終わると、三蔵は言った。
「俺は寝る。オマエも、もう寝ろ」
 簡潔な命令だった。
「まだ、ご用事が」
「いいから寝ろ」
 横暴で勝手な指示だった。子供みたいだと内心思いながら、悟能は三蔵の傍に近寄った。
「あ!」
 腕をつかまれる。そのまま、次の間にある寝所に引きずりこまれた。
「さんぞ……! 三蔵様」
 なんだか、慌ててしまって悟能は腕から逃れようと躰をひねった。重ね敷きされた布団が目に映る。
(ついでに、オマエさんのことも召し上がるのかどうか、後で教えてくれ)
 先ほど、台所で言われた下衆な僧の言葉が脳裏に甦った。
 しかし、
「何もしねぇ」
 言葉どおり、三蔵は悟能を腕に抱き抱えると寝床に入り、そのまま寝息を立てだした。悟能よりも大人である三蔵の力は強かった。身動きがとれない。
「さん……!」
 気がつけば、
 幼い子供が添い寝に使うぬいぐるみのごとく悟能は三蔵に抱かれていた。最高僧は今度こそ安心したように深い眠りについたのだった。

 ――――じきに夜は深々と更けていった。

 ここでのふたりはそんな調子だった。



「三蔵×悟能(2)」に続く