砂上の蜃気楼 58番外続編 (4)

「ん……」
「オハヨ八戒」
 八戒がようやく悟浄の腕の中で目を覚ましたとき、もう時間の感覚も消え失せていた。
 今日が何日なのか、もう何時なのかも分からない。ずっと悟浄と抱き合っていた気がしていた。
「あ……」
 連れ込み宿のため、あまり窓を開放することは考えてない部屋のつくりだから、余計何時なのかも分からない。嵐のような一夜を過ごした部屋の空気はどこか気だるく、濃密な気配をそこかしこに残していた。
「なんか、モーニングサービスにゴハン出るって」
「……」
もう、今が何時なのかも恐ろしくて聞けない。八戒は悟浄の顔を黙って見つめた。
「なんて、カオしてんのオマエ」
 悟浄は腕の中の八戒を優しく抱き締めた。
「僕……」
 ぼんやりした頭に、ようやく昨夜の行状が思い出され、八戒は羞恥で口が利けなくなりそうだった。自分から悟浄を求め、何度も彼に抱かれてしまった。友人の一線を超えたどころの話ではなかった。
「俺はうれしい」
 そんな八戒の内心を読んだかのように、悟浄はきっぱりと言った。八戒を抱く腕の力を強くする。
「俺の気持ちはずっと同じだし、変わんない……八戒……」
 しなやかな痩躯を逃すまいとでもいうように抱き締めた。
「八戒もそうだって言って。な、うれしいって……」
 紅い髪の男前はねだるように言った。
「悟浄……」
 どちらともなく、唇を重ね合わせた。最初おそるおそるだったくちづけはすぐに貪るような濃密なものになる。
「たとえ、オマエが」
 クスリに支配されて、自分を求めたに過ぎずなくとも構わない。一瞬、そう続けそうになって悟浄は唇を噛み締めた。
 そんな可能性は考えたくなかった。いや、そうでも構わないと思った。
「これからも、ずっと一緒だ。八戒」
 優しく抱き締められて、八戒は応えるように抱き返した。相手の逞しい裸の背に散った自分の快楽の爪あと、肌に残る情事の跡、ようやくそうしたものを受け入れる気になったのだ。
「ふ……」
 部屋は、甘い吐息で満ちた。幸福の粒子が舞い散って広がってゆく。





「遅い。何時だと思ってやがる」
 ふたりが宿に戻ると昼を過ぎていた。宿の食堂では奥の席に三蔵がイライラとした様子で座っていた。いつもどおりの白い僧衣を着込んでいる。手元のテーブルには新聞が何紙も広がって散らかっていた。
「いや、悪ィ」
「すいません。遅くなりました」
 悟浄と八戒のふたりを交互に睨みながら、最高僧は舌打ちをした。
「朝帰りか」
 心なしか三蔵の横顔は疲れているようにも見えた。あまり寝ていないのに違いない。

 不意に。

 不意に三蔵は言った。
「男なら誰でもいいのか。淫乱が」
 その言葉は突然だった。
――――冷たい。氷のような言葉が鬼畜坊主の舌から吐き出された。
 それは苦しい色を帯びていたが、強烈な侮蔑を含んでいた。
 誰に向って言ったのか。それは――――あきらかだった。
「……! 」
 悟浄は思わず八戒をかばって背にした。八戒の顔はみるみるうちに紙のように白くなった。がくがくと細かく脚が震えている。
「もう一度言ってみろ。クソ坊主」
 悟浄は八戒を守るように躰を張って隠すと、倣岸不遜な紫色の瞳を睨みつけた。真紅の悟浄の視線と暗紫の三蔵の視線が激しくぶつかりあう。
「能天気なバ河童が。クスリが抜けてねぇヤツ抱いて満足らしいな。最低な野郎だ」
「……! てめぇ」
 悟浄の形相が変わった。思わず手が出た。三蔵の襟首をつかんで、椅子からひきずり無理やり立たせた。
「悟浄ッ」
 八戒が背後で叫ぶが、昂ぶった気持ちは止められなかった。そんな悟浄の鼻先で三蔵はせせら笑った。
「何度でも言ってやる。今の八戒は普通じゃねぇ。媚薬が抜けてねぇんだ。いつもとは違う。そんなコイツの状態につけ込んで犯しやがって。卑怯な野郎だ。つくづくてめぇは最低だ」
「この……」
 襟首を悟浄につかまれながら、三蔵は皮肉な薄笑いを浮かべた。
「そうだろうが」
「……! 」
 我慢できずに、悟浄が拳を作って振り上げた。その腕に背後から八戒がしがみつく。
「やめてください! お願いですから止めて! 」
 悟浄が詰め寄ったときに、傍の椅子が勢いで倒れ派手な音が立った。先ほどからの言い争いで既に周囲には人が来始めている。極めてまずい状況だった。
「てめぇがそんなこというなら、俺も言ってやる。クソ坊主が」
 悟浄は喉奥から吐き出すような声を出した。
「同じ部屋なのに、クスリでコイツが苦しんでるの知ってた癖に、ただただ放っておいただけのアンタに偉そうなこと言われたかねぇよ」
 悟浄は叫んだ。
「時間が経てば、クスリは抜ける筈だ」
「苦しんでるコイツのことは頭っから無視かよ。お偉い方は言うことが違うねぇ」
 触れれば切り刻まれるするどいガラスの破片でも言葉に散っているかのような応酬が続いた。
「俺はそんなのは嫌だ。八戒が楽にさえなるなら、どんなことだってしてやりたい」
 絞り出すような言葉が悟浄の口から漏れた。思わず八戒は傍らで悟浄のそんな横顔を改めて見つめた。男らしい顔立ちは、柄にもなく苦悩を帯びていた。
「ケダモノの論理は俺には分からんな」
 三蔵は冷たい口調で吐き捨てるように言った。その全身を拒絶の空気で覆っている。本心は見えなかった。ただ、強烈で静かな怒りに彼が身を焼いているらしいことだけは伝わってくる。
「は……」
 三蔵の返答を聞いて、悟浄の唇が皮肉に歪んだ。あまり八戒相手には見せない表情だ。
「ケダモノで結構だ。腐れ坊主」
――――宣戦布告といった口調だった。
「てめぇがプライド高いだけだろが。コイツのことを考えてだと? エラそーなこといってんじゃねぇよ」
「悟浄ッ! 」
 背後から八戒がしがみつく。もう、これでは大喧嘩もいいとこだった。
「いけません。悟浄……悟浄」
 ようやく、自分を止めようとしている存在に気がついたらしい。激昂していた悟浄は八戒を振り返り、自分の躰にまわされた腕に大きな手を重ねた。
「ん……わーった」
 不意に目が覚めたように悟浄は呟いた。振り返ると八戒が心配そうな顔つきで悟浄を見つめている。
 その翡翠色の瞳の奥に揺れる不安げな色を読み取って、悟浄は優しく心配するなとでも言うかのように目で笑いかけた。それを見て八戒がほっとしたように愁眉を開いた。
「……行きましょう。悟浄」
 八戒の言葉に悟浄は素直に従った。忌々しげな動作で三蔵に背を向ける。
「……今夜から俺と八戒、同室でいいよな三蔵サマ? 」
「勝手なこと言ってんじゃねぇ」
 悟浄の背後で三蔵が唸るように言った。猫科の獣が獲物に噛み付く前、出す声によく似ていた。
「いろいろ、俺と八戒、シタいこと山ほどあるんで」
 悟浄は背後の三蔵を流し見るようにすると、露悪的に告げた。
「……! 」
「悟浄ッ」
 八戒が慌てて、悟浄の袖を引く。耳まで赤くなっている。もう、その場にいるのが居たたまれないとでもいうような風情だった。
 さすがに八戒に恥をかかせるのは本意ではないらしく、悟浄は捨て台詞を吐いた後、三蔵の傍から去った。





 こうして、
 悟浄と八戒は、三蔵の前から姿を消した。





「クソ……! 」
 ひとりになった三蔵は手元の新聞紙をぐしゃりと握り締めた。唇を噛み、ぎりぎりと歯を鳴らす。
 三蔵だって、八戒が苦しんでいるのにはとっくに気がついていた。
 しかし、だからといって抱いてしまうのはフェアではない気がしていたのだ。一度は我慢できずに城であの甘い躰を抱いてしまったとはいえ、いや、だからこそ三蔵は真剣だった。彼の状態につけこんで、なし崩し的に躰だけの関係を続けたくはなかった。
 妙なところが潔癖な最高僧は、そんな風に思っていたのである。それはこの男の不器用な優しさだった。
 それが見事に仇になった。精悍な獣に大事にしていたものを横からかっさらわれた。まさにそんな感じだった。
 いまだに耳朶に甦る、あの甘い甘い八戒の声。城で囁かれた誘惑の言葉。
(僕とずっとここにいて)
 あの声に従っていればよかったと、今の三蔵は本気で思った。
 あのまま、他の男など入る余地もないほどに抱いてしまえばよかった。普通ならば、耐えることのできない我慢を恐ろしいような精神力で三蔵は耐え切ったのだった。
 しかし、今となってはそんな自分の常人離れした精神力が恨めしかった。
 自分が高僧でもなく最高僧でもなく、「三蔵」でもないただの男ならば、あのまま八戒に溺れて自分を失ってしまうことができた――――その方がこんな思いを味わうくらいなら、数倍幸福だったかもしれなかった。
 しかし、もう後戻りはできない。あれは砂漠で見た一夜の美しい夢なのだ。
 初めて味わうような苦しさに三蔵は身を内側から焼いた。端麗な顔立ちが歪む。
「クソッ……」
 絞るような獣じみた声が再び喉から漏れた。
 八戒の端正な顔が悟浄に抱かれてどんな風に快楽で歪むのか、どんな声で他の男に抱かれて喘いだのか。どんな仕草で悦びに達するのか。また、どんな風に腰を揺らして悟浄を求めたのか。

 想像するだけで、気が狂いそうになった。

 それが嫉妬だということを、まだ彼は知らない。いまや、三蔵の前にはただひたすら、どす黒い恋の闇路が広がっている。
 のたうちまわればひたすら汚れ、非生産的な暗澹へとひとを落とし込む、恋の罠とでも呼ぶべきものが、暗い口を開けて三蔵を待ち受けていた。

 荒々しく、三蔵は食堂の席を立った。あのふたりを許す境地になど到底なりそうになかった。


 了