砂上の蜃気楼(16)

 八戒をこの歓楽の館へさらってきてから、ずいぶん経ったような、そうでないような気もする、とある日の午前中。浴場は湯気で白く染まっていた。
「どうして、芥子の花は有毒なものほど美しいのかな」
 カラスを連想させる男は、一輪の紅い芥子の花を手でもてあそびながら呟いていた。
「キミを見てたら、分かった気がするよ」
芥子の花は、まるで薄い紙のような儚げな花びらでできている。人を滅ぼす、阿片の恐ろしい原材料だ。改良し無毒化された、ポピーと呼ばれる園芸品種もあるが、野生の毒のある芥子の凄みのある美しさにはとても敵わない。男は八戒と芥子の花を交互に眺めた。八戒は風呂へ入れられていた。浴室の中は湯気で白くくもり、湯面を埋める薔薇の花々も蒸されて芳醇な匂いを辺りへ漂わせている。
「薔薇だって、棘がなかったら美しくないよねェ……そう。そういう風に出来てんだろうなァ。美の遺伝子は毒の因子と強固にレンケージ(連鎖)してるんだよ」
 科学者らしいことを呟く男の感傷は、無愛想な声で中断された。
「くだらねぇ高説だな」
「江流、ずいぶんと厳しいネェ」
 別に気分を害したわけでもなさそうだった。にやりと笑うと、男は再び自説を展開した。
「どうして、綺麗なものに毒があるのか分かるかい? 」
 八戒はちょうど三蔵と悟浄に湯船で肌を撫でまわされていた。返事もできない。
「毒で自分を守るためだよ。綺麗だと狙われるからね」
 くっくっくっと笑い続ける男は確かに不吉なカラスに似ている。賢くて、忌まわしい。
「ねェ。八戒ちゃん」
 男はもてあそんでいた芥子の花を投げ捨て、浴槽の縁へ近寄ってきた。八戒の上気した顔を覗き込み、顎を指で捉える。
「キミもいい加減、毒舌だけど……それも、自分を守るためなのかな」
 八戒は唇を噛み締めた。悟浄の指が敏感な先端を湯の中で擦り上げている。先走りの体液が湯に溶け滲む。腰が震えていた。
「でも無駄だよ」
 メフィストフェレスを思わせる悪魔めいた笑いを口端に浮かべ、男は顔をいっそう近づけた。
「毒があったって、綺麗なキミを食べたい連中はたくさんいるからネェ……ボクや、キミのお仲間みたいにネ」
 そのまま、抵抗できない唇にくちづけた。上品で官能的な接吻だった。まるで何かの儀式のようだった。
「そう、ボクは芥子の花から毒を抜いてあげてるんだ……『三蔵』のためにね」
 謎めいた言葉を呟くと、八戒の手の甲にも騎士のようにくちづけた。黒衣を翻して八戒を湯から引き上げる。
「あんまりにもボクの芥子の花が綺麗で……渡したくなくなってきちゃったけどね」
 珍しくも自嘲めいた微笑みが一瞬、男の口元に浮かんで消えた。







「ひでぇ運転だな。河童。ヘタクソ」
 ジープは全速力で砂漠を疾駆していた。メーターの針も振り切れそうだ。
「俺じゃねぇって。ジープに聞けよ」
 悟浄はいつの間にか両手でハンドルを握りしめている。片手運転上等、たいてい左手でハンドルを持ち、右手は運転席の窓あたりに肘をつくという、不良な態度で運転する彼らしくもなかった。片手だけでは、ハンドルがスピードで持っていかれそうだったのだ。別天地のような白い砂漠に出たときから、ジープは様子がおかしかった。
「……酔いそう」
「車ん中で吐くんじゃねぇぞ。サル」
 師弟コンビは手短に会話を交わした。近くに水晶でできた岩がごろごろと転がっている。真っ白い砂が模様を描く幻想的な砂漠だった。ところどころに、太古の花の化石が落ちている。ジープはそんな路面をものすごい勢いで進んでいた。白昼夢を思わせる景色に見とれる暇もなかった。
「おい。三蔵、アレ」
 悟浄が驚いた声を上げる。
「……ああ」
 突然、目の前に脈絡もなく白亜の城が現われたのだった。砂漠の蜃気楼かと思わせる幻想的な姿だった。殺風景な砂漠に、突然咲いた美しい花のようだ。
「……ジープ。もしかして、八戒あそこにいるの? 」
 悟空の問いかけに、ジープはそうだとでも言うようにエンジン音を高く響かせた。
「ともかく、行ってみた方がいいだろう」
「そうだな。様子を見てみっか」
 三蔵が無意識に魔天経文に手で触れ、悟空は如意棒を右手に構えた。イスラム式の華麗な城は、妖しい姿をようやく一行に見せようとしていた。




「砂上の蜃気楼(17)」に続く