砂上の蜃気楼(1)

 夕陽が砂漠の向こうへ沈もうとしている。乾いた地平線から最後の光が差し込み、街並みを赤く照らし出した。その残照は三蔵たちの泊まっている宿の部屋の中へも届いた。
「ここまでくると西に来たなーって気がしますよね」
 八戒はテーブルに腰掛けていた。いつもどおり襟の立った服を着込み、汗ひとつかいた様子もない。片目に嵌めたモノクルが傾いた日の光を反射して光る。
 それを軽く手で押さえながら、向かい合わせに座った三蔵へ微笑みかけた。相手は相変わらず無愛想だ。いつもの僧衣を着崩し、足を組んで椅子に座っている。八戒の愛想に応えようともしない。
「八戒! 八戒っ」
 そのとき、悟空が勢いよく部屋へ飛び込んできた。
「ナンカ、町内放送してるよ! アレなに」
「え? 」
 夕刊を読んでいた三蔵もその声につられた。窓の外を黙って見る。石造りの乾いた町は夕闇にけぶり、鉛筆の芯のような細い塔の影があちこちでそびえている。
 耳を澄ませばそんな尖塔のほうぼうから、高らかに聖句の一節が聞こえてくる。抑揚のある、歌うような節回しが異国的だ。
「ああ、アレは 『アザ―ン』 ですよ。この地方独特のしきたりです。みんなに夕方の礼拝を呼びかけてるんですよ」
 八戒がうなずきながら答えた。
「なーんだ。俺、てっきりもうすぐご飯ですよーって言ってるのかと思った! 」
「サル! てめぇは喰うことばっかかよ」
 いつのまにか、悟浄が呆れ顔で背後に立っていた。さすがに砂漠の町では暑いのか、革の上着は着ていない。その代わりに派手なシャツをはおっている。
「何だよバカッパ! 」
「本当のこと言っただけだろが」
「まぁまぁ」
 いつもどおり仲良く始まった喧嘩を、いつもどおり笑顔で八戒は仲裁した。
「ほらほら、でももうすぐ夕ご飯ですよ。食堂に下りてみませんか? 」
 八戒の提案で、一行は階下にある食堂へと向った。





 食堂は騒がしかった。
  この町にはいくつもの隊商が泊まっているらしい。砂漠を横切って旅するものが、入り用の品を揃えようと商談していたり、ロバやラクダを新しく買い入れる相談をしている。
 無数の耳慣れぬ訛りの言語がそこかしこでざわめきゆらぎ、食堂の広いホールいっぱいにひろがってゆく。食堂は掃除されているものの、砂漠の町特有の乾いた埃っぽさがあった。
 西方の味自慢のレストランにはよくあることだが、いつの間にか人々の足の間を縫うようにして、猫が迷い込んでいる。しかし、気にするものはいない。
 多くの人々は礼拝の呼びかけに応じて外へ出て行こうとしていた。小さいが華麗に織られた礼拝用の絨毯を抱え、何人かで連れ立って出てゆく。みな敬虔なムスリムなのだろう。
 白や薄茶色の簡素なイスラム服の集団に混じると、三蔵一行の装束はことさらに人目をひいた。
 中華風の八戒や悟空の姿は現地の人々の目を驚かせたし、三蔵の僧衣もまた特異的に映っていた。悟浄の紅い髪や派手なシャツも、白と茶色の目立つ乾いたこの土地においてはひどく目立つ。
 とはいえ、さすが旅なれたものの集う通商都市らしく、三蔵一行にあからさまな好奇の目をそそぐ無粋な人間はここにはいなかった。
「ちょうど、時間的に空いていますね」
 三蔵達は、ホールの中央にある円形の大きなテーブルへ腰掛けた。六人用で、全員で座ってもまだまだ余裕があった。表紙が革でできたメニューを開き、悟空が目を白黒させる。
「シシカバブ? コフタ? 」
 聞き慣れぬ料理の名前を見て首を捻る。
「羊肉の串焼きと肉団子のことですね」
 雑学に強い八戒が助け舟を出した。
「まぁ、喰えりゃいいって」
 悟浄が咥えタバコで屈託なく笑う。三蔵といえば、何ごとにも執着のない彼らしいことだったが、特に関心もないらしい。つまらなそうに紫煙を吐き出している。
 そんな、和やかな時間が流れていたときだった。

 不幸というものは、いつも突然訪れるものなのかもしれない。

 『その男』 は不吉なカラスの影のように現れた。黒ずくめの格好をしていて、更にその上に頭から大きな黒いボロ布を被っている。
 彼とすれ違うと、食堂にいた人々は禍々しいものを恐れるかのように道をあけた。疫病やみにだってこんな大仰な避け方はすまい。すれ違う者の中には、聖句を呟くものさえいる。死体をつつく大ガラスを連想させるその男は、背を丸め、よろよろとした足どりで真っ直ぐ三蔵達のテーブルまでやってきた。
「もし」
 灰色の霧でも混じったがごとき声だった。言葉はくぐもって不明瞭だった。
「はい? 」
 不意に呼びかけられ、八戒は顔をあげてそちらを見てしまった。近づいてきた男の顔は深く被り布に隠され、はっきりとは見えなかった。ただただ、存在が不吉だった。
 相当、大柄な男で、若いのか年をとっているのかすら、はっきりとしない。彼は八戒に二の句を言わさず、その顔を無造作に手で撫でた。よろけている癖に素早い動きだった。八戒の骨と顔の造りを確かめるような撫で方だった。
「貴方にはわざわいが訪れる」
 男は突然きっぱりと言った。
「貴方は砂漠のどこかで、自分を失うだろう」
 それは、不気味な予言だった。
 男はいっそう布を引き寄せ顔を覆うと、続けて何ごとか呪文めいた言葉を唱えた。
「な……」
 あまりにも、唐突だった。
 八戒が口を開く前に、悟浄が怒鳴る前より先に、不吉な男は素早く身を返した。やはりよろめくようにして戸口から出て行った。まるで、白昼の悪い夢のような、通り魔にでも出会ったような出来事だった。
「なんなんだ。ありゃあ」
 悟浄がいまいましそうに唸った。わけがわからなかった。暫く経ってから、食堂の主人がおっかなびっくりといった調子で水を持ってきた。
「お客さん達、大丈夫だったかね? 」
 おどおどとした仕草で店主はお盆を抱え、テーブルに座った一行を見渡した。
「アイツはなんだ」
 三蔵が眉間に皺を寄せ、不機嫌絶好調とでもいった調子で無愛想に訊いた。
「さっきのですか。さっきのヤツは……二ヶ月くらい前にこの町にやってきた骨相見ですよ――――ええ、占い師でさ」
 今にも、もう一度その不吉な「骨相見」が、自分の店へやってくるのではないかと、戸口の方を店主は見やった。
「占い師? 」
「へぇ。良く当たるんでさ――――ただし」
 主人は一段声をひそめた。
「コイツが不吉な――――悪い未来しか占わねぇ気味の悪い野郎でして。だから皆、恐れてるんです。頭から黒い布を被ってて、ヤツの顔を見た人間もいません。『邪眼』なんだろうって噂ですよ」
 『邪眼』 とは西アジアで忌み嫌われる不吉な目のことだ。主人は自分にも不幸が及ばぬようにと神の御名を小さく呟いた。
「お客さん達も、ヤツに見込まれたなら用心した方がいい。ともかくヤツの――――この辺の連中は 『大鴉(大ガラス)』 って呼んでますけどね――――占いは百発百中なんで」
「…………」
 店主は頭を下げると料理の注文を取り、席から去っていった。その後ろ姿を見つめながら、三蔵が呟く。
「本当だと思うか」
「冗談」
 即座に悟浄が返した。八戒を庇ってか、こころなし怒った口調だった。
 その傍らで、
「アイツ、気持ち悪いコト言ったよ」
 不安げな声がした。
 悟空だった。
 ちょうど八戒の隣に座っていたので、占い師の言葉はよく聞こえていたのだ。
「八戒が――――『自分を失う』 って言ってた。どういうこと? 」
「悟空! くだらねぇこと言ってんじゃねぇ」
 三蔵が叱責するような声を上げた。
「ははは。悪い冗談ですよね」
 当の本人といえば、相変わらずマイペースだった。いつもどおりの微笑みを唇に浮かべている。
「当たりませんよ。予言だの、占いだのって、この現代にそんな非科学的なこと。ホラホラ、お待ちかねの料理がきたみたいですよ。早いトコ食べちゃいましょう」
 目の前に、大量の焼いた肉が大皿で並べられ、その話題はそこでお開きとなった。





しかし、不思議なことはその後も続いていたのだ。





 食事をすませて部屋へ戻ったときのことだった。
「あれ」
 八戒は、部屋のドアノブをまわして、驚いた声を上げた。
「僕、鍵かけましたよね」
 部屋のドアに手をかけると、鍵のかかっている手応えがなかった。あっけなく開いた。
「なんだ。鍵、かけ忘れたのか」
 三蔵が横から声をかける。八戒にしては珍しいことだった。
「いえ、そんなハズは」
 不可解そうに首を傾げて中に入ると、特に変わったこともない。
「……誰か中に入った形跡もねぇな。物取りって訳でもねぇだろ」
 暗に八戒のかけ忘れを指摘する口調で三蔵はベッドに腰掛けた。
「そうですね……」
 こんな安宿では珍しいことだが、宿のものがシーツの交換にでもきたのかもしれない。
「疲れてんだろ。もう寝たらどうだ」
 つまらない会話はもう止めだとばかりに、三蔵は八戒に背を向けベッドにもぐりこんだ。
「そうですね。明日もありますし」
 八戒は少し寂しげに微笑んだ。最近この金髪の美僧に避けられているような気がしていたのだ。目を合わせて笑おうとしても、相手は瞳を反らすことが多くなっていた。
 三蔵と八戒はお互いを意識して――――ぎくしゃくしていた。
――――僕の被害妄想じゃあ、ないですよね。
 そっと八戒はため息をついた。

 その夜はそれで終わった。
 終わったようにみえた。


 問題はその後だった。
 八戒は、その夜ひとりで煙のように消えてしまったのだ。





 「砂上の蜃気楼(2)」に続く