サクリファイス(7)

 瞬間、細く長いなにかの群れが見えた。
 重なりあい、増殖するように無限に空を舞う、白い長いなにかが虚空に見えた。


 暗い森のざわめきが聞こえる。あのときと同じだ。

「さ……ぞ? 」
 視界が金の髪に覆われて、自分の上に乗っているのが誰なのか、ぼんやりとわかった。
「悪い。起こしたか」
 その声は、あの黒髪でメガネをした男のものではない。ほっ、と八戒は安心してため息をついた。いままでのことも、悪い夢か何かのように感じられてくる。
「我慢できねぇ。すぐ済ませる」
 いつの間にか、寝るために着込んだパジャマをはだけさせられていた。まだ眠かった。完全に覚醒できていない。
「んっ……」
 外気にさらされて、乳首が刺激で尖る。それをそっと摘まれた。指でこねくりまわされる。
「あっ……」
 甘く喘ぎそうになって、天井を見上げた。テント地の布が闇の中で、うっすらと見える。
カーキ色のテント地。布で出来た天井。テント。
「さ……」
 思わず、青くなった。
 自分がどこにいるのか、今はどこでどうしているときなのか、分かって完全に覚醒した。
「だめで……」
 悲鳴をあげそうになった。テント。仲間4人で狭い中、肩を寄せ合って寝ているのだ。三蔵が手を伸ばしたのは、そんな野営中だった。烏哭のせいでところどころ記憶が抜け落ちていたが、ずっと旅をしているのだ。宿があろうとなかろうとだ。
「だめです! 悟空と悟浄が起きます! 」
「こんな、朝早くコイツら起きねぇだろ」
 夜明け前、なのだろうか。良くわからないが、深夜ではなく朝に近いのだろう。空気が冷たく清浄な気配を孕んでいる。
「んー」
 隣で悟空が寝返りを打った。そんな横で下肢から下着ごとパジャマを脱がされている。
「三蔵っ」
 押し殺した声で、上にのしかかっている男の名前を呼ぶ。止めて欲しいと言外に懇願する。
「すぐ、済ませる。おとなしくしてろ」 
 三蔵の言葉はくぐもった。つん、と尖ってしまった八戒の乳首に舌を寄せ、ねぶるように吸った。
「あ……」
 激しい情欲が、感染してしまいそうだ。どこかで、山百合の花でも咲いているのか、テントの中にまで匂いが入り込んできている。
「ふ……」
 そのまま、三蔵の頭が下へとおりてゆく、八戒の傷のある下腹部を舐めて愛し、そのまま。
「だめ……ほんとに……さんぞ」
 懇願が哀願になっているが、聞き入れてもらえない。
「勃ってるじゃねぇか、てめぇ。さては興奮してたな」
 三蔵が囁く。ねぶっているので、吐息まみれの声だ。
「あぐっ」
 思わず、どうしようもなくて枕元に置いた白い布を口へ押し込んだ。いつもジープを止まらせるためにつけてる肩布だ。
「ふぅっ……ぅっ……っ」
 ぴちゃ、ぴちゃと薄暗闇のテントの中に淫らな音が響く。三蔵が八戒の下肢を広げて、舐め啜っている。
「くぅっ……ぐっ」
 八戒の顔が、快楽とも苦痛ともつかぬ表情に歪む。まるで、飴の棒か何かのように舐めまわされた。暖かい三蔵の舌が這うと、そのあたりを身をよじってのたうちまわりたくなる。
「くぅ……ぅ」
 口の中に押し込んだ布をよりいっそう、深く咥えた。下から舐め上げられ、亀頭を舌先でこねまわされる。
「んんっ」
 目に涙がにじんだ。抑えようとしても、快感で身体が震えてしまう。我慢しようとすればするほど、敏感になってしまっていた。小さく口を開けている尿道口に、三蔵が舌先を差し入れ、はじくように愛撫すると、八戒の身体が跳ねた。
「ぐぅ……っ」
 眉根を寄せて、内攻する快楽に耐えている。烏哭にも抱かれて、敏感になってしまっている身体だった。使われた媚薬もまだ完全に抜けきっていない。
「ひぐっ……」
 喘ぎそうになって、八戒は思い切り口中の布を噛んだ。くびれと裏筋も執拗に舐めまわされる。
「う……」
 震える手を、下肢で揺れる金の髪へ伸ばした。切なげに、引っ張った。金の糸でできてるような髪へ指を絡ませて、止めて欲しいと切願する。
「お前が、ヤらしいのが悪い」
 三蔵が呟いた。とりあえず埒をあけさせてあげないと許してもらえない。そんな口調だった。
「この頃すげぇ、お前……見てるとヤりたくなる」
 絞りだすような声で告白される。つぅ、と舌先を棹に走らせている。美麗な三蔵がそんなことをすると、いつもと差がありすぎて、ひどく卑猥だ。
「最近、てめぇ。何かおかしいな俺に何か隠してるな」
 キャンディの棒みたいに、舐めまわされる。耐え切れない。腰が揺れて、太ももがひくひくと震えてしまう。
「んぅ……」 
 緑の瞳がなまめかしく濡れている。どんな男でも、その目を見たら、誘われていると思って襲い掛かるだろう。そんな淫らな目つきだ。
――――烏哭に使われた媚薬が、抜け切っていない。
「…………! 」
 追い上げられて、八戒は三蔵の口の中で、爆ぜた。早い。間断なく男たちに抱かれ続けて、達しやすくなっている。
「……っ」
 べっ、と三蔵が口を開ける。そのまま、つぅっと八戒の尻の狭間に垂らした。淫らな糸を引く、白濁液で股間が濡れる。
「う……」
 恥ずかしいことを重ねに重ねるような行為の連続に居たたまれない。精液の匂いが、夜も咲いている百合の匂いと混じる。八戒の身体を敷き込んでいる世にも美しい男から、卑猥な行為の限りをされている。
「ちょうどいい。クリーム手元に用意してねぇ」
「くぅ……」
 脚を割り拡げられ、指で穿たれる。自分の吐き出した精液を、内部に塗りこめるようにして三蔵の指は動いた。
「すげぇ、お前のココ、吸い付いてくる」
「うっ……」
「とろとろだ」
「ぐ……」
 三蔵の指が増やされるたび、八戒が布を咥えたまま、顔を歪めた。もう、身も世もなく叫んでしまいそうだった。
「ひっ……」
 三蔵の手が、八戒の顔へと伸びた。そして
「……め! でっ」
 咥えていた、白い布を口から奪われた。
「だめ……返し……て」
 喘ぎ喘ぎ、苦しい息の下から、八戒が懇願する。切実だった。
「挿れるぞ」
 三蔵の硬い怒張が、押し付けられる。
「んぐぅっ」
 思いっきり、生臭い声が出た。息を詰めて、抑えようとしたが間に合わない。こんな声を、悟空や悟浄に聞かれたら。もう、居たたまれない。生きていけない。
「ひぃっ……っひぅ」
 そのまま、突きまくられる。パンパンと、穿つ腿に尻肉が当たる音が立った。
「やめ……やめ」
 いくらなんでも、周囲を起こしてしまう。八戒が悲痛に顔を歪ませ、三蔵へ手を伸ばした。
「早く、終わりにして欲しいんだろうが」
 鬼畜坊主はさすがに冷たかった。
「はぁ……あっ」
うっすらとその胸も、きれいに筋肉が浮いた腹も、汗をまとっている。腰を前後させて自分を犯している様子が、手で触れることでよりいっそうリアルに感じてしまい、思わずその身体へ脚を回した。
「イイ。すげぇ」 
 自分を見下ろす、その紫の瞳が情欲に蕩けているのを認めて、八戒が顔を赤くした。身体が感じて火照って、上気してピンク色になっている。その胸も、腿も、三蔵に抱え込まれている尻もぜんぶ……。
「あっ……んっんっんっ」
 喘ぐ声を殺そうとして失敗した。甘い声を漏らしてしまう。
 そのときだった。
「ったく。もう。アンタら、朝から何サカッてんの」
 舌打ちまじりの声がした。眠いのを何とか我慢して、起きようとしている寝起きの、喉に何か絡んだ声だ。
「ご……じょ」
 まなじりから、涙を流しながら、左隣の悟浄へ視線を送った。もう、気がつけば、朝日が昇っているらしい。八戒の親友は、毛布から身体を起こしているところだった。茶色のパジャマが赤い髪をひきたてている。
「てめぇ。起きたのか」
 三蔵が穿ったまま、舌打ちする。
「そりゃ、起きるでしょ。隣でこんなこと、おっぱじめられちゃ」
 下肢に三蔵をずっぽりと咥えさせられ、身悶える八戒を横目で眺めながら、口をゆがめている。
「もー。寝たふり続けようとしたけどさー。いいかげん限界よ」
 夜の闇は打ち払われはじめていた。テントの中はまだまだ薄暗いとはいえ、そろそろ明るい外の気配を布越しに感じる時刻だ。小鳥のさえずる声も切れ切れに聞こえてくる。
「あ、あああっ」
 三蔵が、硬直している八戒の身体を抱えなおすようにして、より深く穿った。
「あ、深いっ……深いっさんぞ」
 深く打ち込まれて、きゅきゅっと粘膜ごと腰を震わせて締め付けてしまう。三蔵の顔が快楽で歪んだ。凄艶だ。
「ったく。美人さん同士で、また何ヤってんの……ってナニか」
 ばりばりとその赤い髪を片手で掻き、悟浄が目のやりばがなくて困った顔をつくっている。
「ご、じょ」
 緑の目で悩ましげに流し見られて、ちら、と悟浄は切れ長の瞳をめぐらせ、まんざらでもなさそうな視線を送ってきた。
「すっげ。こっちもこっちも……勃ってる。オマエの」
 悟浄が唾を飲み込んだ。手を伸ばして、八戒の胸元へ触れた。
「や……」
 尖った乳首を摘ままれる。
「あ……あああっあ……ごじょ」
 思わず、悟浄の名前を甘く呼んだ瞬間、
 意識が、途切れた。



 記憶が、寸断されて虫食いのように穴があく。



 瞬間、経文の群れが見えた。
 重なりあい、増殖するように無限に空を舞う、経文が虚空に見えた。


 突然、
「あの赤い髪のオニイサン、何? 」
 険しい男の声がした。咎め立てしている声だ。
「あの赤い髪のお兄さん、キミのナニ? あの女好きそうな軽薄なヤツとも、もしかして、八戒ちゃんってばヤりたいの? 」
 いつもはおどけてひとを喰ったような口調なのに今日は違った。余裕がなくなっている。かわりに、べっとりとした嫉妬が張りついていた。
「絶対に許さないよ。浮気なんか」
 髪をわしづかみにされた。気がつけば裸のまま、パジャマも何もかも剥ぎ取られた格好のままだった。
「烏……哭」
 恐ろしい相手の名前を、恐る恐る舌に載せた。忌まわしい名だ。
「覚えておいて八戒ちゃん。キミが寝ていいのは、江流と」
 いつもは虚無的な、その瞳は珍しく真剣だった。
「……ボクだけだよ。いい? 知ってた? 」
 いったい、いつから、この男に見られていたのだろう。いや、どうして、この男は八戒の全てを知ることができるのだろう。
「あっ……」
 地面に押さえつけられる。草の葉が裸の背中に直に当たって痛い。それなのに、そのままのしかかられ、首を両手で絞められた。
「知ってる? 間男って本気になっちゃうとさ」
 ぎり、と首に食い込む手が痛い。恐ろしいくらい烏哭は真剣だ。
「意外と嫉妬深いって」
 酷薄な笑みを、薄くその唇に浮かべている。ぎりぎりと食い込む烏哭の指が苦しい。思わず、八戒は両手を伸ばして、自分を締める烏哭の手首をつかんだ。すごい力だった剥がれない。
「まぁね。ボクはセカンドだからさ、キミに本命がいるのは承知してるけど」
 自嘲のにじんだ声だった。いつもは誰にも見せない本心からの声だ。暗い知的な男の声。
「他の男なんて許さないよ。キミが知ってていいのは江流のとボクのだけだからね」
 いっそう、烏哭の首を絞める力が強くなった。本気で八戒を殺す気かもしれない。
「他のモノが知りたくなったりしたら、絶対に許さないよ。そいつ殺してキミも殺すからね」
 断言した。
「う……」
 本当に殺される。八戒がそう思ったとき、
 烏哭の手の力が緩んだ。八戒が身をよじって伏せる。激しく咳き込んだ。おそらく、首には絞められたあとがついてしまったはずだ。いままで、周到に情交の形跡を残さずに済ましてきた烏哭らしくなかった。
「殺しちゃうよ。ボク以外にキミに近づく男なんて」
 本気だ。メガネのレンズが白く反射して表情がよく見えないのが余計に怖かった。

――――知ってる? 間男が嫉妬深いって。

 烏哭の言った言葉。それはかなりの真実だった。間男の、本命の男への気持ちは複雑だ。そいつの大事な恋人を寝取ってしまったものだから、相当に後ろめたい。
 だから、強くでれない。
 でも、その他の男には遠慮なんかしなくたっていいと彼らは内心思っている。本命の彼氏に遠慮している分、それは激烈なものになりがちだ。
「健全な世間サマはこのこと知らないよね。ボクみたいな男のこと、節操がないだけだって思っててさァ。恋人が誰と寝てもかまわないんだろうなんて誤解しててさァ」 
 メガネの奥の、目が笑っていない。

――――ひとの恋人を盗んだ男には特有の苦しみがある。天罰のようなものだ。

 自分が惚れている相手は、自分などに肌を許したのだ。決まった相手がいるのに寝る種類の人間なのだ。またいつなんどき、同じ事を繰り返すか分からない。そんなの絶対に許さない。彼らは内心そう思っているのだ。

 そう、間男を持つ人間は、実は間男から完全に信用を失っている。
 
 八戒も例外ではない。
 間男を持つ八戒は、実は間男から完全に信用を失っている。

「違う。僕はお前に無理やり……! 」
 八戒は叫びそうになった。理不尽だった。間男など、欲しかったわけではない。欲しいわけがないではないか。それなのに何故、こんなことを言われなければならないのか。
「無理やり何」
 烏哭が冷たく言葉を返す。その漆黒の目は虚無を宿したかのように冷酷だ。
「キミって、ひどいこと言うなァ。傷つくよ。契約違反じゃない? それ」
 どうしてこの男と寝ることになったのか。八戒はいつも思い出せそうで思い出せない。緑の森、それから、血の記憶。そして虚無の恐ろしい肌触り。
 虚無の肌触り?
『最近、てめぇ。何かおかしいな俺に何か隠してるな』
 三蔵に以前、言われた言葉が重なる。脳の中でパズルのピースが繋がりそうな気がするのにうまく嵌らない。
 八戒は三蔵に何を隠しているのか。
 烏哭との関係。
 いやもっと深刻なものを隠している。
 もっと深刻な? そう深刻な。

 瞬間、

 瞬間、経文の群れが見えた。
 重なりあい、増殖するように無限に空を舞う、無天経文が虚空に見えた。


 世界は反転し、不気味に一変した。




「!」
 緑の目を見張った。
「ここは」
 気がつくと、また森の中だった。森の中とはいっても、先ほど烏哭に首を絞められていた場所とは違うようだ。現にもう、八戒は裸ではない。いつもの緑の服を着ている。肩布もつけている。ジープはいない。
 現実感がなくて、じっと両手のてのひらを見つめた。昔、悟空がマジックで足してくれた生命線は当然、消えている。もう一度、書いてもらった方がいい気がする。でないとこの難所を切り抜けられない。そんな恐ろしい予感が悲鳴のように胸中に走る。
 果たして、
「ははぁ。気がついたねェ」
 黒いカラスの不吉な声が虚空から響く。それに加えて、かすかに乾いた音が漏れ聞こえてきた。無限に重なり合う無天経文が、お互い擦れ合う紙の摩擦音だ。

「けなげだったけどねェ。キミ」

 記憶。ようやく八戒の記憶のかけらが繋がった。




――――そう、あのとき八戒が自分から烏哭へ言ったのだ。





 目の前で、三蔵が死にかけていた。


 思わず必死になって駆け寄った。急ぐあまり森の下草で手の甲を切った気がするが、もうどうでもよかった。
「お願いです。お願いですから、もうやめてください!」
 全身の骨を折られ、臓器を潰された三蔵を抱えながら叫んだ。目の前の敵へ縋った。
「なんでもします! 殺すなら僕を代わりに」
「へぇ? キミってば、生意気だよねェ。キミごとき虫ケラが江流のかわりになるとでも思ってるんだ?」
 冷然とした声だった。虚無が口を利くなら、こんな具合だろうと思わせる冷たい声だ。
「消したいくらい憎いし、嫌いなんだよね。苛々してさ。このコ。昔からサ」
 物憂い空虚さを溶かしたような黒い瞳に、憎しみが浮かんでいる。
「キミみたいなのを、消したって、ボクの気が済むわけないじゃない」
 黒い僧衣から邪気があふれて、闇が果ても無く拡がってゆくようだ。背後でカラスが不吉に鳴いた。
「キミ、江流と、どーゆー関係? 」
 相手のかけているメガネが白く光った。
「ボク、このキンパツのクソ生意気なコと古い知り合いなんだよ。今、消すトコなんだよね。これ以上、邪魔しないでくれる?」
 口の端を歪めた邪悪な笑いに、本物の殺気があった。地面に横たわり、ぼろぼろの雑巾以下みたいになった三蔵へと烏哭は脚を振り上げた。
 三蔵は生きてるのだろうか。もう生きている気がしない。烏哭は残酷だった。さっき、三蔵のすい臓は潰したから、今度は肝臓あたり踏み潰しておこう。そんな感じの蹴り方をしようとしていた。

 嬲り殺しだ。


 しかし。
 三蔵めがけて蹴ったはずの足は、違う肉体を叩いていた。
「ぐっ! 」
 烏哭の眼下で黒髪が揺れている。八戒の胃のあたりに、烏哭の蹴りは当たった。相当の衝撃だったらしい。八戒が身体をふたつに折って、うずくまる。
「げ……ぇ」
 反射的に吐いている。身体の中で細かい血管が幾つも切れているのだろう。血が混じっていた。
「この……! 」
 烏哭が激昂した。なにしろ憎い男を嬲り殺しにするお愉しみに、邪魔が入ったのだ。
 それでも黒髪の青年が地に伏した三蔵の前に毅然とした態度で座り込む。両腕を大きく広げて三蔵をかばい、烏哭にも臆せず正面から睨みつけてくる。
 それは、烏哭に遠い日の、銀の長い髪をしたひとのことを思い出させた。
「ついでにキミも殺すよ。いいの? 」
 烏哭の大きな手が、八戒の黒髪をわしづかみにした。そのまま、反対側の手で、その腹へもういちど拳を叩き込んだ。八戒が悶絶する。肝臓をしたたかに打たれ、髪をつかまれたまま、崩れ落ちそうになっている。
「よく見たら、とても綺麗なコだねェ。キミ」
 烏哭は次は八戒の顔を殴るつもりだったのをやめて、もう一度、身体を打った。その繊細な美貌に一瞬、目を奪われたからだった。
 確かに八戒は烏哭の言うとおり 『とても綺麗なコ』 だった。三蔵のように派手な美貌でこそないものの、完璧に整った美しい容姿をしている。
 どこか、その優しげな風情や雰囲気が烏哭の大切な人の姿を思い出させた。もう、故人になったひと。後ろで三つ編みにしてひとつにまとめた長い髪。温和で、笑うと目がなくなる優しい微笑み。
「……最近、玉面公主とかオバサンの相手ばっかりだからサ、キミみたいな、若くてかわいい男のコが相手してくれるなら、……そうだなァ。江流のコト消すの、ちょっと待ってあげてもいいよ」
「な……」
 八戒が目をみはる。ぞっとするような下劣なことを提案されていた。
「なんでもするって言ったよね、さっき」
 一瞬、烏哭が口元をつりあげて笑った――――気がした。
「ボクと寝てもいい? ヤらしてくれる? 」
 烏哭が提案したのは、ぞっとするようなことだった。メガネの奥の目が怖い。冷たい蛇のように冷血だった。
「お返事は?」
 八戒はうなずいた。血まみれの三蔵を背に、この男へうなずくしかなかった。がくがくと手が震えた。

 そう、こうして。
 八戒は、自分を喰らうカラスと契約したのだった。

 
 





「はーい。時間切れ」
 烏哭の冷酷な声が森に響く。

 八戒は全てを思い出した。
 絶望的な状況で未だに森の中にいる。今までのことは、別の時間軸の話なのか? 無天経文の力なのか? まるで白昼夢のようだ。
 目の前には、いまだにあの男が立っていた。八戒のだいじな三蔵を消そうとしている男が。
 カラスのごとく忌まわしくも賢い男。墨染めの衣、首に掛かった数珠、若干くせのある黒髪が肩先で跳ね、顔にかけたメガネが白く殺意を反射している。その奥の目は、虚無を溶かしたように冷たい。
 その背後で、無天経文が不吉に舞う。無尽に舞うその様子は、まるで経文自体に意思があるようだ。
 
 そう。
 烏哭が無に返すのを、途中でやめ、意図的に何もかも捻じ曲げたのだ。 
「身体は疼くくらいボクを欲しがってるのに……そんなに、まだコイツのことが好きなの? 」
 珍しく、烏哭が憎々しげに余裕なく、三蔵のことを 『コイツ』 と表現した。
「ギタギタにキミを犯してやりたいね。江流の目の前でサ。キミをぐちゃぐちゃに犯してやりたいよ」
 烏哭が腕を伸ばしてきた。八戒には避けようがなかった。力の差がありすぎる。
「やめ……」
 強い力で服を引き剥がそうとする。ボタンや肩布が外れて地面の土の上へ落ちた。
「そう、本当はそれが一番、したかったんだよね。そうだ。今からでも」
 そのとき、視界の隅で三蔵の手がぴく、とうごめき、銀色の光が反射するのが見えた。
「け……んな……」
 血に染まった金糸の髪。その血まみれの唇が罵りの言葉を綴っている。
 そして、
 その手に握られているのは、果たして。
 そう、おなじみの三蔵の小銃。銀色のS&Wだった。
「な……」
 烏哭が振り返って目を剥いた。不意打ちだった。時間を与えすぎたのだ。油断だ。

 銃声が高く響いた。

 次の瞬間、今度こそ世界は白く反転した。強烈な光が周囲を満たす。



『ああ、こんな出会いでなければ、ボクはきっとキミと――――』





 了