今夜、俺の部屋に来い(1)

「紹興酒だそうですよ。三蔵。強いお酒みたいですよ。そんなに飲んでだいじょうぶですか? 」
「フン。うるせぇ。いらねぇ心配してんじゃねぇよ」
 強気な紫暗の瞳が八戒を睨む。背後の壁は土づくりの白い漆喰で、古びた風情だ。この要塞に近い建物は――――紗絡三蔵法師の住まう、円楼の中だった。三蔵一行のために歓迎の宴がはられたのだ。
 寺院の中だというのに、見る見るうちに酒の盃がまわされた。貴重品だ。馬乳酒、コーリャンでできた様々な酒が、たちまち周囲に並ぶ。
 床の上に敷物が敷かれている。唐草模様が華麗なシルクの織物だ。その上に出された料理は豪華絢爛だった。こんな住むにも厳しい場所でこれだけの材料を揃えるのは並大抵のことではないだろう。西の果ての果て、西域でも贅をつくした料理が並んでいる。
 大歓迎だ。熱烈歓迎、とかいうやつだ。
「遠路はるばるご苦労だったな。玄奘。まぁ、食べていけ」
 絨毯に直接あぐらをかき、ぶっきらぼうな口ぶりで言うのは、この土楼の主の、紗絡三蔵法師だ。僧衣の片側、右肩を半分脱いで着崩しているので、その下に着た黒いタートルネックがのぞいている。お行儀がいいとはとてもいえない。
「フン、ま、口に合わなかったら、無理にとは言わんがな」
 紗絡といえば、もう盃をずいぶん、口にしていた。左右に分けて、跳ねたような前髪は、紗絡の性格そのものをあらわしているようだ。
「この肉うめぇ!! 」
 茶色い髪を揺らして悟空が皿にかぶりついている。ひとりで何十人前もたいらげる気だろう。醤油のような味わいを基調とした香ばしい味が口いっぱいにひろがってゆく。不思議な料理だ。
「ロバの肉だ。香草を散らして、よく煮込んである」
 紗絡が説明する。
「うっまい! ナニコレすっごくうまい!」
 散らされた生姜や香草の香ばしさで肉がいくらでも食べられてしまう。緑色の香草に葱が合わされ皿いっぱいに盛られている、それと一緒に肉を箸でつかみ、口へ運ぶと歯切れのいい葱の爽やかさと肉の深い味わいに満たされる。口福としかいいようのない、滋味が舌をとろけさせた。
「お、このメシ自体もけっこう、うまいじゃん」
 赤い切れ長な目をしばたたせて悟浄が言った。通常より、ちょっと長い形をした楕円形の米が、器の中でほかほかとおいしそうな湯気を立てている。一粒一粒がつやつやとして美しい。米の炊ける独特の匂いが周囲にただよった。
「土鍋で炊いている。口に合えばなによりだな」
 紗絡が珍しいことに微笑んだ。いつも荒くれた印象の彼女だが、そんな微笑を浮かべると整った鼻梁やきれいな目元などが強調された。
「ん? おいしくて、口の中でとろけますね? 」
「豚の三枚肉だな」
 紗絡の説明に、悟空が笑う。
「うへへへ。これうまーい」
 オイスターソースが利いていた。肉のうまみが凝縮された味わいだった。ぷん、と香ばしい醤油がこげるのに似た香りが鼻腔に広がる。細かく刻んだ葱が添えられ、本当においしそうだ。悟空が、どんぶりいっぱいに盛ったご飯の上に、コラーゲンたっぷりの豚肉を載せると、箸で切れるほど柔らかい肉が震え、タレがじわりと白いご飯にしみこんだ。食欲をそそる匂いがただよう。
「うはぁ、うまい。うますぎ」
 いくらでも白いご飯が食べてしまいそうだ。悟空はしあわせそのもの、という表情で箸を運んでいる。運ぶ、というより流し込む、という表現の方が適切かもしれない。おいしいのだろう。そのくらい早い。
「あ、僕はこっちの方が好きかもです」
 ブロッコリーに似た野菜が、きのこと炒められた一品を口にして、八戒が微笑む。口に含んで、そのさくさくとした歯ざわりを楽しみ噛み切れば、じゅわ、と味わい深い野菜の香味があふれてくる。鶏がらから丁寧にとった上湯(シャンタン)の味わいが口いっぱいに広がる。とってもおいしい。
「うっわ。なにこれ、これ辛い。鼻にくるわ」
 悟浄が涙を浮かべて、とあるひと皿を箸で指した。揚げられた魚料理だ。何しろ、ここはもう西も西だ。貴重な川魚を保存のためにありったけの香辛料で料理してあるのだ。唐辛子がふんだんに使われ、真っ赤でいかにもからそうだった。唐辛子や香辛料のつん、とした刺激的な匂いが香る。こうして、川魚から泥臭さを抜くのだろう。
「そうか結構、コイツも食べなれるとうまいんだがな」
 紗絡が自分で自分の盃に酒を注いだ。女性にしては酒が強い。かなり飲んでいる。
「ま、口に合うモンだけ食っていけ」
 ぶっきらぼうだが、確かに紗絡は三蔵たちを歓迎しているつもりらしい。左肩にかかった恒天経文がろうそくの明かりを受けて浮かび上がっている。
「あはは。いえいえ。大変おいしくいただいていますよ」
 黒髪の好青年が頭を軽く下げた。緑の目が細い糸目になる。いかにもひとのいい風情になった。
「ここまでたどりつくには、結構、食い物にも苦労したろ」
 紗絡が言うのに、三蔵がぶっきらぼうに返す。
「別に。森で適当に捕まえて食えたしな」
 三蔵が野生動物をさばくのを目の当たりにしたことのある悟空と悟浄は青ざめた。正直、あのときの食事は食べた気がしなかったのだ。
「あっははは。ええ、森は貴重なものがたくさんありますからね。困りませんよ。探せば冬虫夏草まで見つかりますし。健康的でいいですよね」
 うぞうぞした、不気味な漢方薬の食材をうれしそうに大量に抱えてきた八戒。あれも悪夢だった。虫に寄生した不気味なキノコ。あれを食わされそうになったのだ。気持ち悪い。本当に気持ち悪かった。悟空と悟浄は口元をおさえた。せっかくのごちそうを前に思い出したくなかった。八戒の趣味のひとつは 「健康法をひとで試すこと」 だ。全くひとの悪すぎる趣味だった。
 事情を知らないのに、一行の中に流れる空気でも読んだのか紗絡が声を立てて思いっきり笑った。
「長安からここまでは遠い。道中、ひどく苦労したことだろうな。今夜はせめて思い切り食っていけ」
 ひとしきり笑うとこの土楼の主はまたゆっくりと酒を口元へ運びはじめた。
 そのときだった。
 八戒は左の肩の辺りが突然、重くなったのを感じた。
 布越しに誰かの体温を感じる。
「え……」
 慌てて横を見れば三蔵が身体を傾げて寄りかかっていた。白皙の美貌の見本のような顔に朱を刷いて、眠そうにまぶたを閉じようとしている。ぷん、と紹興酒の濃いややくせのある匂いが八戒の鼻先をかすめた。
「三蔵。貴方、飲みすぎですよ」
 八戒は慌てた。白い肩布を巻いた胸へ、三蔵の金の髪が寄せられていたのだった。ことん、と三蔵は八戒へ子供みたいに頭を預けてきた。
「うるせぇ。俺は酔ってなんかいねぇ」
 最高僧様は閉じそうだった紫の瞳をなんとか開けて八戒を睨もうとして失敗した。金色のまつげがまぶたの先で煌くのが綺麗だ。うっすらと白い顔が赤い。
 三蔵の手にしているのは西域特有の夜光杯だ。ガラス質の石を削りだして丁寧につくられた盃が神秘的な光を放っている。その中で琥珀色のとろりとした紹興酒が揺らめき、芳醇な香りを放つ。ひとが一生秘密にしておきたいような心の内までも、飲めばたちどころにつまびらかにしてしまいそうな、そんな魔性めいた酒精の香りがあたり一面に立ち昇る。もの凄いアルコール度数だった。それを三蔵ときたら、ろくろく薄めもせずに飲んでいるのだ。
「酔ってますよ。部屋まで送りますからね」
 首まできっちりと襟の立った、緑の禁欲的な中華風の服。その肩先に三蔵の頭が乗っていると、甘い痺れに似た何かが、そこから広がってゆく。八戒は戸惑いながら、横を向いた。おののきにも似たものに支配されて、動けなくなってしまいそうだった。捕食される昆虫が味わうのは、こんな麻痺したような感覚なのかもしれない。それなのに。
 それは怖いくらい果てしなく甘い感触だった。幸福に似ている。
 八戒は自分の身に湧いた、戸惑いを打ち払うように、手にした杯を一気に飲み干した。






 「今夜、俺の部屋に来い(2)」に続く