廃墟薬局(20)

翌々日。

「お会計をお願いします。あ、支払いはカードで」
 八戒は三蔵の黒いカードを受付のカウンターに置いた。小気味のよい音が立った。
 いままで人形みたいだったことなど、嘘のようだ。宿の受付でてきぱきとチェックアウトの手続きをしている。
「ありがとうございました」
 宿の従業員の声を背に八戒は扉を開けた。朝の光がまぶしい。嵌めたモノクルが一瞬光って視界が白くなった。白い肩布が落ちないように片手で押さえれば、緑のバンダナの上で黒い前髪が揺れる。
「お待たせしました」
 目の前に大型のオフロード車が見える。渋いカーキ色のボンネットが鈍く光っている。
「おーい」
 悟空がジープの後部座席で手をふっている。
「遅せぇ」
 金の髪をした最高僧が助手席で不機嫌そうにひじをつきタバコをふかしている。白い僧衣との落差がありすぎて、不遜なのに魅力的だ。
「ははは。すいません」
 八戒はめじりを下げて仲間に詫びると運転席のドアを開けた。かすかな機械油の匂いが鼻をかすめる。ジープの計器類を見つめながら、八戒はのほほんとした口調で言った。
「いや僕たち、こんなに長く泊まってましたっけ? 宿の請求書、見てびっくりしてしまいました。2週間近くも? そんな長くいた気がしないんですけど変ですよねぇ」
 慣れた手つきでシフトレバーに左手をかけ、いつものようにブレーキペダルを踏んだ。
 エンジンが駆動する。重低音があたりに響く。
「チッ」
 助手席から舌打ちの音がした。安堵と苛立ちの混じった音だ。
「どうしました三蔵」
 優しい落ち着いた口調で運転手が言う。本当にいつもどおりだ。いつもどおりだった。
「なんでもねぇ」
 三蔵が吐き捨てるように告げる。唇をゆがませて肘をつき、機嫌悪そうに眉をひそめている。
 三蔵の内心の思いに呼応するかのごとく、ジープのエンジン音が一段と高くなった。ジープは絶好調だった。ギアの調子もいいし、エンジン音も小気味いい。
 街道沿いに生えている木々たちが、あっという間に視界から消えてゆく。結構な速度が出た。タイヤが折れた枝を踏み、車はやや揺れた。
「……お前」
 三蔵がマルボロを取り出す手を止め、八戒を見て眉をひそめる。
「首についてるぞ」
 無愛想な口調でつまらなそうに指摘した。ちょうど首元、ギリギリな位置に艶かしい跡があった。えりの合間から肌に赤い花が咲いたように見え隠れしている。
「! これはあなたが」
 顔を真っ赤にして言い返す八戒を見て、三蔵は目を丸くした。

 イヤな記憶を消す薬。

――――そう、イヤなことは。

 三蔵は沈黙した。
 そして、しばらくしてうなるように言った。
「ひょっとして、お前」
 低いが読経で鍛えたよく通る声だった。路面がうねっているのか、車内はやや揺れた。
「俺とヤるのはイヤじゃなかったんだな」
「!」
 八戒は思わずハンドルをきった。手がすべったのだ。車体が急に右に振れる。
「うお!」
「あ、あぶねぇ!」
 後部座席から抗議があがるが、もう三蔵はそんなもの聴いていなかった。運転席の男は顔を真っ赤にしている。平常心が保ててない。運転中なのにだ。
「要するに俺とヤるのはイヤじゃねぇのか」
 最高僧は、手の甲まで黒い布で包まれた腕を上げ、手をあごへ添えた。何か考え事をしているときのポーズだ。
「さ、さんぞ」
 とたんに、ジープのアクセルとシフトレバーの操作がおかしくなった。急停止になりかけて、後ろの座席から抗議の声があがる。
「あぶねぇ! どーしちゃんたんだよ八戒」
 後ろから悟空が怒鳴る。その額の金鈷は衝撃でずれそうだ。
「実はジープの運転がずっとイヤで、運転の仕方を忘れてるとかじゃねーだろな。そんなオチじょーだんじゃねーぞ」
 赤い髪の親友も細い眉をつりあげてわめいた。
 ぎゃあぎゃあと悟空と悟浄の賑やかな声にかき消されそうになりながら、かまわず三蔵は続けて言った。
「お前、本当に覚えてねぇのか、廃墟じみたビルの薬局でニィ健一につかまったことも、俺と悟浄が駆けつけるまでずっとバケモノみてぇな触手に」
「うわああああああ」
 聞くなりすかさず、悟浄が後ろから鬼畜坊主の口を大きな手でふさいだ。油断もスキもあったものではなかった。隣の悟空までもが青ざめている。
「何、言おうとしてんだアンタ! どんなに苦労して俺らが」
 悟浄が真っ青になって三蔵の口をふさいだまま怒鳴った。黒髪の運転手はそんな仲間たちの大騒ぎを横目で眺めつつもジープの運転を止めない。
「え、何ですか? 廃墟のビル? 薬局?……それいつの話ですか? 」
 八戒は不思議そうな表情で進行方向を見つめたまま、首を傾げている。
「ニィ健一? 誰ですかそれ。敵……なんですか? 」
 八戒はハンドルを右手で握ったまま、左手で首元を隠している。一昨日、三蔵がつけた情事の跡が気になるのだ。
 もし、トラウマになるようなことと関係していたら、こんな立ち居振る舞いは絶対にできないだろう。
 完全に忘れているのだ。
 いかがわしい廃ビルも、妖しい薬局も、そして忌まわしいマッドサイエンティストのことも、おぞましい触手に犯されまくったことも。
 この黒髪の男はすっかり忘れている。
「なんだか、ひどい目にあっていて、三蔵と悟浄が助けにきてくれた……ような夢を見た気がするんですよね」
 ひとごとみたいな口調だった。
 
――――イヤなことは全部忘れる薬。
 たしかに忘れている。

「まぁ、いい」
 三蔵は、片方の眉を軽く上げ、手元にマルボロのタバコの箱を引き寄せた。箱の中に残りはまだけっこうある。それを一本引き寄せて火をつけた。タバコの煙が周囲に立ちこめる。
 三蔵は隣の運転手をちらりと横目で流し見ると、声に出さずにひそかに笑った。
「ったく」
 マルボロの香りがひときわ濃く周囲にただよった。左手の指でタバコを挟み、やや斜め上を向いて紫煙をくゆらせる。いつものお決まりのポーズだ。その両肩の魔天経文が車上で渋い緑色のふちをみせて風になびきひるがえった。
 そのときだった。
「三蔵」
 突然、声をかけられた。
「僕など、貴方にふさわしくないです」
 唐突な言葉に、三蔵は剣呑な表情で再び眉をひそめた。耳を黙ってそばだてる。
「でも」
 八戒はいったん、そこで言葉を切った。言おうか言うまいか悩んでいる表情だ。次の瞬間、
「僕だって本気です。貴方のことは誰よりも大切です。全力で守りますこの命にかえても」
 瞳を細め覚悟を決めたように言葉を継いだ。

 この男の肌に歯を立てながらかつて、ささやいた言葉。俺は本気だ。お前のことが大切だ。
 お前の返事はどうなのか。

「あのとき訊かれた、返事ですよ。三蔵」
 その真剣な表情を見れば、この男の三蔵に対する気持ちなど、火を見るよりあきらかだった。
 八戒はずっと慎ましく言葉にするのを遠慮してきたのだ。神々しい三蔵法師様に自分などはつりあわぬと思っていたのだろう。
 八戒の気持ちなど、訊かずとも分かっていたはずだった。訊くこと自体がどうかしていたのだ。
 言葉など、あやふやなモノを欲しがるなど傲岸不遜な最高僧様らしからぬことだった。こいつは俺を裏切るくらいなら舌を噛んで死ぬだろうよ。昔、そう言ったのは三蔵自身だった。
 三蔵はその男性的な厚みのある口元を、再び歪めて自嘲すると、
「……俺もだ」
 端的に言葉を返した。火のついたマルボロを指の間にはさんだまま。その指では金色の輪が輝き黒い袖が手の甲まで覆っている。唇は華麗に軽く弧を描き、額で金の糸のような髪が風を受け、白く長い僧衣の袖がたなびいた。
 三蔵の返事を聞いて、ほっとしたように八戒が小さく溜め息をついた。そして、ジープのハンドルを握ったまま、実に幸福そうにモノクルを嵌めた目を細め、微笑み返してきた。陽光がきらめき、ふたりの間で虹のように反射する。
 いつもどおりだ。
 いつもどおりだった。
 空は青く澄みきり、行く手の道は果てしない。ひたすら西へ西へと延びている。木々の間をエンジン音も軽快に走り抜ける。天空を横切って落ちてゆく太陽と競うように、ジープは走った。
 西を目指して。
「まぁ、いい。ずっとそばにいてやる」
 三蔵は助手席でタバコの煙を吐き出した。お前ひとりくらい、この俺がいつでも救ってやる。そんな表情だった。
 

――――恋の病に効く薬などない。
 


  了