それは月もない闇夜のことだった。
「すいません」
街の路地に八戒の声がひびく。あたりは暗い。着ている緑の服は黒みがかってみえる。
「夜中にすいません。店を開けていただけませんか」
いつもの温和な声とは違った。
「すいません。仲間がケガをしたんです……包帯が必要なんです」
湿った夜の匂い。いままで必死で誰かを手当てをしていたのだろう、その顔色は良くない。店の扉に、そっと手をあてている。分厚い木の硬く湿った感触。
しかし、中から応えはない。
そのときだった。
「どうしたの? お兄ちゃん」
突然、背後から声をかけられた。子供の声だ。
「え……」
夜中なのに子供の声がする。親はどこだろう。思わず八戒は振り返った。黒髪の賢そうな子供が立っている。明かりとといえば街灯の、うすぼんやりしたあかりだけだった。よく見えない。それでもメガネをかけているのはわかった。
「ここの店の……子? ですか? 」
この店の子供か何かだろうか。夜なのに子供がいる、それもひとりで。違和感が一瞬、走った。
「ううん。僕も薬をとりにきて帰るところだったの」
闇夜に男の子が着ている白っぽい着物が目に映る。男児用の中国服のようだ。下はズボンで上はよくあるスタンドカラーの前あわせ。赤い飾りボタンがついている。何度も洗っているのだろう。それは古びてほつれてきていた。
「そ、そうですか。では店は開いてるんですよね」
八戒の脳裏にベッドに横たわっている仲間の姿が浮かんだ。茶色い髪をした丸顔の少年。ケガでも痛むのかぐったりとして元気がなかった。なんとしても消毒した布が必要だった。
「うーんでも。お店のおじちゃんでかけちゃったよ」
「え」
靴の下で石畳が冷たい感触を伝えてくる。
「夜のかいごう、とかいうやつだって言ってた。商店街の」
夜の会合。それはこの見知らぬ街のどこで開かれているのだろう。ひと足、遅かったのだ。ということは今夜、包帯は手に入らない。
しかたがない。手持ちの布を熱湯にかけて応急で間に合わすしかないのか。しかし、すぐには乾くまい。どの道、悟空の手当てが不十分になる。
困ったように顔をしかめる八戒へ男の子は微笑みかけた。
「これ、あげるよ」
男の子は手にした包みを渡してきた。
「えっ」
油紙でできた紙包みだ。薬屋特有の生薬の匂いが闇夜にひろがる。ウイキョウや麻黄の独特の苦味のある香りが紙にしみついているのだ。
「ええと、包帯とかケガしたときの消毒のクスリとかもはいってるよ」
「どうして……」
「だいじょうぶ。僕はすぐにそれは使わないから」
男の子は包帯のはいった包みを指差して、無邪気に笑った。
「僕がどうしても必要なのは、こっちだから」
少年は自分の胸のあたりを大切そうに叩いた。よくよく見れば服の合わせ目から紙の薬袋がのぞいている。飲み薬のたぐいだろう。
「じゃあね! お兄さん」
「ちょ、ちょっと」
八戒はめんくらった。
「貴方はいったい……」
八戒の声は闇にかすれて消えた。少年の姿は既になかった。路地の石畳の上を子供らしい軽い足音が響き、それはあっという間に遠ざかった。
「……昨日そんなことがあったんです」
宿のベッドの上で三蔵にひざまくらをしている。
「そのガキ何者だ」
三蔵が八戒のひざの上でつぶやいた。魔天経文や金色の袈裟こそ身につけていないがいつもの白い法衣姿だ。
「いやですねぇ三蔵。そんな言い方して。いい子でしたよ」
いつもの八戒のズボン、その上で金色の髪がしなやかに散りかかる。
「痛くないですか」
三蔵へ優しい口調でそっとたずねる。
「大丈夫だ。早くしろ」
三蔵は八戒の膝へ頭をあずけている。
「もっと奥まで……いれても大丈夫ですか」
八戒が手にしているのは、ふわふわとした綿毛のついた耳かきだ。
「ああ」
「動かないでくださいね」
八戒の手が、三蔵の金色の髪をそっとなでる。いつもの緑色の袖がゆれた。ひざまくらに頭を乗せて三蔵はうっすらと目を閉じている。
「気持ちいいですか、三蔵」
「……まぁ、悪くねぇな」
微笑みを浮かべて八戒がその整った顔を近づけて屈みこむ。
「はい。右耳が終わりました。あれ、三蔵ったら」
金色のまつげは伏せられて、三蔵は顔を横にしてじっとしている。その腕はそっと八戒のひざへまわされそうだった。しかし、八戒に声をかけられると、なぜか三蔵は寸前で手を止めた。
「あはは三蔵ったら寝ちゃいそうですね」
優しく三蔵の頭を撫でた。三蔵は静かにされるがままになっている。
「今度は左耳……と思いましたけど」
そっと頭を両手で支えて自分の方へ顔を向けようとする。ひざで抱えるようにして、そう三蔵の顔を自分の腹側へ向けないと左耳は掃除できそうにない。
「やめますか」
めじりを下げた目が細くなった。首をかしげて、この次ですね、なんて小声でつぶやいている。
「やめんのか」
三蔵はふいに目を開けた。深い紫色の瞳が八戒を見上げている。
「え、だって」
八戒は竹製の耳かきを右手に持ったまま困ったように首をかしげた。
「貴方もう眠いんでしょう」
八戒が言い終わるが早いか三蔵が言った。
「これでいいか」
三蔵は左耳を上に寝返りを打った。いつの間にか、その両腕は八戒の腰へさりげなくまわされている。
「はいはい」
八戒は優しくささやくと、ふたたび三蔵の耳をのぞきこんだ。そんなに汚れたりしていない。旅の途中の宿で、ふたりきりのとき髪を洗ったり切ったりしていた。ときどき、こうして身づくろいをしあうのだ。
「もし、眠かったらこのまま寝てしまってもいいですから……」
八戒がふたたび耳かきをとりあげた、その時、
部屋のドアが開いた。
「さんぞー、はっかーい」
なんだか情けない声だった。
「あれ、悟空」
八戒は三蔵へうつむけていた顔をあげると驚いたように目を見開いた。
「どこかまだ痛いんですか」
悟空は腹を押さえて苦しそうにしている。そこは昨日、八戒が苦労して傷をふさいだはずの場所だった。
「うーいや。実は」
「早くドア閉めろ」
八戒のひざまくらの上でその身体へ顔を埋めていた最高僧が不機嫌な声を出した。
「ケガ良くなったはずですよね? 」
「うー、ごめん」
悟空はいいにくそうに口よどんだ。白い包帯を巻きつけた上半身にシャツを一枚はおった姿だ。
「俺、おなか空いちゃってつい食堂でメシ食っちゃった」
「は? 」
八戒は悟空の言葉に目を点にした。
三蔵も嫌々というのを隠しもせずに、ゆっくりと八戒のひざから身体を起こす。白く長い袖が衣ずれの音をたてた。金の髪を片手で決まり悪げに掻きながら吐き捨てるように言った。
「てめぇ、早メシしてきたのか」
「へ、へへへへ。そゆこと」
宿の食堂で、しこたま食べてきたらしい。
「ケガ良くなってきたらハラ減っちゃって減っちゃって。我慢できなかったゴメン。すっげぇ食べた」
悟空は部屋の床に腹を抱えてずるずると座りこんだ。ベッドの上は三蔵と八戒がひざまくらで耳そうじ、なんかしているから他に座る場所がない。
「なんか食べすぎで動けないっつーか」
悟空は困ったような笑顔を浮かべている。
「もう! 悟空。今日お昼は外で食べようと思ってたんですよ」
「サル。買い出しの手伝いもしねぇ気か。覚悟できてんだろうな」
「ご、ごめん」
悟空は両手を合わせている。その胸や腹部から消毒薬と清潔な白い包帯の匂いがした。傷は、よくなっているらしい。八戒の看病の成果だろう。
「あーあ。もう。どのくらい食べたんですか貴方は! 」
野宿の後の久しぶりの街だった。買い出しもしなければならないし食事も楽しみにしていたのだ。
「ちょっと俺、食べすぎで気持ち悪い……かも」
「しょうがない。悟空はジープとお留守番ですね」
八戒は残念そうに天井を仰ぐと、ため息をついた。
「ごめん。八戒……」
悟空の声はきまり悪げにかすれた。じっと、その様子を養い親の三蔵が紫暗の瞳で見つめている。
「闇夜の月(2)」に続く