月の刻印(7)

 こうして、
 月が美しい夜の廊下で抱かれて以来、八戒は三蔵から逃げるのを諦めてしまった。

 西へ、西へと。旅をしながら毎晩三蔵の求めるままに、抱かれる日々がそれからも続いた。

 淫らになってゆく躰をどうにかしようと思うのはもう諦めた。ただ、ただ、三蔵の言いなりになって蜜をたらして蕩けるしかなかった。
 もうどうしようもないことだった。
 確かに、八戒は以前の八戒には戻れない。三蔵を知らなかった頃には戻れないのだ。三蔵の熱さを覚えこんだ躰は夜になれば勝手に淫らに蕩けてゆく。
 それは積み重なって、当然のことのように八戒の精神にも雰囲気にも影響を及ぼしだした。この変化は不可逆的なもので、一度変化しはじめたら、そのまま果てもなく堕ちてゆくだけのようにも見えた。



 訪れる町々で、
 八戒は更に妖しく匂うような色香ですれ違う人々を振り向かせるようになっていた。いや、そればかりか、仲間の悟浄や悟空すらもが、ときとして目のやり場に困って目配せしあうことさえあった。
 ジープの運転をしていても、立ち寄った町で食事をしていても、ふとした拍子に、清廉な美しさに艶めかしい表情が混じるときがあり、それは妖美な花の芳香のように漏れて漂った。まるで、周囲の男たちを悩殺するような色香だった。
 とはいえ、大抵は無言で銃を携えた鬼畜坊主がその傍らで護衛よろしく寄り添うようにしていたから、いつかの――タバコ屋での一件のような不快な出来事に遭遇することもなく、何ごともなく日々は過ぎていったのだった。
 そして、しばらく経ったある日の夜のこと。
 やはり、八戒は鬼畜坊主によってベッドに引きずり込まれていた。



 躰に幾つも、幾つも鬱血が散っている。部屋の空気は重く気だるく甘い。
「ここは……昨日の」
 情事の後、まどろみから覚めて八戒が呟く。お互いを長く貪った後で腕を上げるのすら億劫だった。腕の内側の皮膚に、三蔵がつけた所有の印が小さな花びらのように残っているのが見える。
「こっちはその前のか」
 三蔵はいまだ快楽の汗を滲ませたままで八戒を抱きしめている。八戒の胸元に散った鬱血の跡を指でなぞった。
「で、こっちが三日前のヤツか。消えちまいそうだな」
 肩先にもうっすらと残っているそれに三蔵はくちづけた。
「まだ、消えねぇようにしておいてやる」
「や……」
 きつく吸われる感触があった。ぴりりとかすかな痛みを含む甘い感覚に八戒が眉を顰める。
「も……」
「消えねぇ方がいいだろうが」
 三蔵は何喰わぬ顔をして呟いた。
「もう、僕……ただでさえ跡だらけなのに」
 八戒は困ったようにため息をついた。
「気にしたってしょうがねぇだろ。どうせ、お前からは見えないとこにだって、たくさんついてる」
 自分がやった癖に、人ごとのような口振りで三蔵は言った。ようやく八戒を抱く腕を解いて、ベッドサイドに置いていたマルボロへと腕を伸ばした。
「ほら、こっちも……それからこっちにも。ほらこれなんて」
 八戒はどこか責めるような口調でくちづけの跡を数えだした。気だるい躰を無理やりに起こしている。さっきまで三蔵と一緒にうたた寝をしてしまって余計にだるかった。
 情事の最中で中途半端に眠ると、起きるときものすごく怠い。気だるさが倍化して、寝ない方が良かったのではないかと思うほどだ。
「ほら、ここにも……昨日、あなたに咬まれたんですよ」
 八戒は躰を捻って鬱血の跡を覗き込みながら暗に三蔵を責めた。躰を捻ることによって、なんとか八戒本人にも確認できるそれは、上腕部の後ろ側についており、紫色がかるほど強く咬まれた跡が残っていた。
「ひどいじゃないですか、こんなに……」
 続きそうだった八戒の言葉を三蔵が遮った。
「昨日じゃねぇ」
 三蔵はマルボロに火をつけながら言った。
「え? 」
 予想外の言葉に八戒が聞き返した。
「二日前だ」
 紫煙を吐きながら手短に三蔵が答える。
「えっ……と」
 戸惑う八戒に、だめ押しのように三蔵が言った。
「だから、俺がそいつをつけたのは、二日前だって言ってんだ」
 そう言うと三蔵は、八戒のことを黙って見つめた。その金の髪は、行われた情事の濃さを物語るようにやや乱れていた。
 次の瞬間。
 正確に三蔵の言葉を理解して、八戒は耳まで赤くなった。
 三蔵は八戒につけた跡を、いつどこでつけたものだか、正確に把握しているのだ。要するに三蔵は自分が二日前にどんな愛撫をして、どんな行為をしたかを、どうも八戒以上に記憶しているらしい。
 ということは、当然八戒がどんな声を放ち、どんな反応を返したのかも、全て記憶しているに違いない。
 そこまで思い至って、八戒は全身を朱に染めた。
 恥ずかしかった。三蔵に自分の痴態を記憶されているのが、本当に恥ずかしかったのだ。赤くなって黙り込んでしまった。
 三蔵は人の悪い、悪戯な目つきでその様子を眺めていたが、そのうち、まるで謝るかのようにその躰を引き寄せて抱きしめた。その額に優しくくちづける。
「俺のだ」
 額へ優しく落とした唇を、下へと這い降ろしながら、三蔵は呟いた。三蔵のくちづけは全身に落ちた。
「ここもここも」
 鬱血の跡を三蔵の唇がなぞる。
「あ……」
 肌をその整った唇が掠める度に、八戒は躰を震わせた。
「それから……ここも」
「……ッ」
 あまりにも直接的なところに三蔵の唇が落ちて、八戒は羞恥で目をきつく閉じた。
 脚のつけねに、舌を這わせられる。すぐに熱くなってゆく躰をもてあましながら、八戒は自分の下肢で踊る金糸の髪を掴んだ。
「さん……ッ! 」
 肌の上につけた刻印だけではなく、躰の奥深くまで、三蔵は八戒に刻印を残していた。それは消えることなく、いつでも鮮やかに躰の中で甦り、三蔵を求めて身悶えさせる。
「確かに、もう僕は……」
 その紫暗の視線にさらされれば躰の奥が甘く疼き、その姿を見れば、肌が熱く震え、その声を聞けば、骨まで蕩けそうになって悶える。八戒にとって、いまや三蔵の存在は媚薬のようだった。
 八戒は、熱い三蔵のくちづけを下肢に受けながら、その金の髪に指を絡めて、呟いた。
「あなたは……分かってない……でしょうけど」
(僕はもう全部あなたのものなんです)
 いつかの夜、三蔵は「心まで欲しいなんて贅沢はいってねぇ。躰だけでいい。よこせ」と言った。
 しかし。精神と肉体はそんなにきっぱりと分かれているものではないだろう。
 現にもう八戒は、どんなにひどいことをされても、どんなに淫らなことをされても、心より先に、躰が許してしまう境地に到っていた。
 そんな深い関係に、もう既にふたりで落ちてしまっていたのだ。
「俺に言わせりゃ分かってないのはお前の方だがな」
 八戒の呟きを聞きとがめて、三蔵は顔を上げた。その唇は濡れて光っている。
「てめぇこそ全然、分かってないんじゃないのか」
 言い捨てると、仕返しのように再び舌を這わせた。震える八戒の肌を宥めるようにして撫でる。
「何が『僕、淫らで恥ずかしい』だ。ったく、バカが。散々俺から逃げようとしやがって。俺はそんなお前に……」
 三蔵は何かに気がついたように、途中で言いかけて止めた。情事で乱れた金の髪をくしゃくしゃと気詰まりそうに掻くと、まるで振り切るように八戒の下肢へその顔を再び埋めた。
「な、なんです。今、なんて言おうとしたんです」
 八戒が慌てて三蔵に縋る。その金の髪に指を絡めて顔を上げさせようと足掻いた。今、確かにこの男は、この男にしては饒舌にも本心をうっかりいいそうになったのだ。八戒にはそれが分かった。
「言わねぇ」
 くぐもった声が下肢から聞こえてくる。
「さ、三蔵」
「自覚のねぇヤツには言わねぇ。……いい加減分かれ」
 下肢を弄ぶ三蔵の表情は八戒からは見えない。そのうち、仕返しのように三蔵の口淫は激しくなり、八戒は思わず仰け反った。
「許し……許して……さん……ぞ! ……あ、あっ……ん」
 八戒の甘く啼く声が漏れ聞こえだし、それは闇に溶けて部屋中に響いた。濃厚な、甘い空気が漂う。それは部屋中に拡散して夜の空気に満ちた。
 精神も肉体も分かち難く結びついた大切な人。どちらがどちらだか分からないほど混ざり合った躰が、離れてもすぐに繋がりたいと淫らに口を開く。躰も心も、もうどちらがどちらなんてもう分からない。
 なにも、なにも、もう分からない。分かるのはふたりでとけあっていることだけだ。
 旅の非日常の中で、ふたりで繋がりあう。日常を遠く離れて、世間も追うことのかなわぬ深みで、二人の関係を確かめあう。
 もう、理性に知性なんて、そんなものどこかに置き去りにしてもかまわない。ふたりでお互いの存在に溺れあっている。
 達した後、快楽の汗を浮かせて息を整えている八戒の耳元に、三蔵が何ごとかを優しく囁いた。その言葉は、ふたりにしか聞こえない。
 八戒の口もとが、幸福そうに緩んで、笑み崩れた。