糖度38度(7)

 エピローグ



 それから。何日かが過ぎ去った。

 部屋に配られていた朝刊片手に窓際の椅子へ腰掛けていると、八戒が興奮した様子で近寄ってきた。
「ほら、ほら見てください。もう大丈夫ですよ。ね? 」
 ギプスを外した腕を見せびらかすように振った。しなやかで長い腕をうれしそうに上下に動かしている。もう、ひびなど問題ないらしい。
「やっぱり、二週間かかりませんよ。治るのに。言ったとおりだったでしょう」
 八戒ははしゃいでいた。確かに、もの凄い回復力だった。やはりコイツはただの人間ではない。それは重々承知していたはずだった。
「三蔵? 」
 俺は窓際の椅子へ腰掛けてマルボロを燻らせていた。八戒のうれしそうな様子を、傍らのガラステーブルに頬杖をついて眺めていた。
「ああ、よかったな。治って」
 テーブルの上へと視線を走らせる。絹で編まれたレースのクロスがかかり、その上に季節の花が飾られていた。
 小さな金の粒のような花だ。金平糖のような黄色い春の花。ミモザとかいうヤツだろうか。八戒のヤツに聞けば一発で分かるだろうが、何故か聞く気分にはならなかった。
「……どうしたんです? 」
 八戒は訝しげな表情で俺の顔を覗き込んだ。
「僕が治ったっていうのに……あまり、うれしそうじゃないんですね」
 不思議そうな目を向けてくる。その翡翠色の視線から逃れるように、俺は手元の新聞を広げて顔を隠した。
「そんなことはない。お前が治ってうれしくないわけがないだろう」
 俺はぶっきらぼうに告げた。それは本当だった。
「…………」
 八戒はそんな俺の様子に首を傾げた。
 だが、何か思いついたとでもいうように手を叩いた。八戒のそんな仕草も久しぶりだった。
「そうそう。両手が使えるんですから。早速、僕特製のコーヒーでも淹れますね。三蔵」
 腕が治ったなら、コイツの淹れる上手いコーヒーをまた味わえる。それは悪くない話のはずだった。
 左腕が不自由だった間も、俺が手伝って毎朝コーヒーは淹れていたが、やはり八戒だけで淹れるのとはまた微妙な違いがあるだろう。
 俺は八戒を手伝おうと立ち上がろうとした。八戒が何かしようとしていれば、手を貸すために黙ってその傍に近寄る、もうそれがここ最近の俺の習慣になってしまっていたからだった。ほとんど条件反射だ。
 それを八戒が左腕を振って止める。
「ああ、もう三蔵は座ってて下さい」
 にっこりと微笑まれる。
「だって、僕は治ったんですからね。もう手助けはいりませんよ。ひとりでできます」
 八戒がお湯を沸かそうと、ケトルを手に水道の栓を捻る。水が金属のケトルに注がれる音が小気味よく聞こえてくる。
「ひとりでできる……か」
「三蔵? 」
 八戒が眉根を寄せる。
「どうしたんです。あなた」
「いや」
 自分でも、こんな自分の心の動きというものに面食らっていた。確かに気が浮かなかった。八戒は部屋の棚から、いつものようにシナモン風味のクッキーの缶を取り出した。俺はそれを黙って椅子に腰掛けたまま、見つめていた。
 そして、八戒が缶をこちらへ渡すのを待たずに横から腕を伸ばした。もうそれは、すっかり習慣になってしまっていた動作だった。
「開けてやる」
「え? 三蔵ったら。もうホラ両手が使えますから、缶のフタくらい開けられるんですよ。ひとりで」
 八戒は鼻歌混じりで機嫌よく缶のフタを開けると、中から二、三枚クッキーを取り出した。コーヒー茶碗にそれを副える。
「はい。三蔵。どうぞ」
「ああ」
 俺は八戒の手からコーヒーを受け取った。すぐにそれをガラスのテーブルの上へと置いた。
 そして。
 そのまま、傍にいた八戒の腕をとらえ、自分の方へと引き寄せた。バランスを崩した八戒が俺へと倒れこんでくるのを受け止めた。
「さ、さんぞう? 」
 椅子に腰掛けたまま、八戒の躰をきつく抱きしめる。八戒は椅子に座った俺に覆い被さるような格好でじたばたともがいていた。
 しかし、逃さない。
「……俺はもう用済みか」
「な、何言ってるんですか。三蔵」
「腕さえ治りゃ、俺は用済みか。そうなんだな」
 俺は抱きとめた八戒の耳へ唇を寄せて囁いた。髪からシャンプーの匂いがふわりと漂う。この髪も、ここ数日はこの俺が洗ってやっていたのだ。
「もう、クッキーの缶も自分で開けられるしな。そうなんだな」
「本当に何言ってるんですか! 」
「うるせぇ。そうとしか思えねぇ」
 しなやかな躰を俺は抱きしめた。その背が折れるほど力を込める。このままひとつになれたらどんなにいいだろう。
「い、痛いです。背中が折れる三蔵ッ」
「うるせぇ。こうなったら折ってやる。お前もう一度ケガしろ。俺がずっと傍にいてやる」
「ど、どうしてそういう話になるんです……! 」
 逃れようとする八戒の躰を抱きしめ、その唇を奪う。
「うぐッ……さん……」
 舌で八戒の綺麗な前歯をなぞりあげた。ちゅっちゅっと唇を吸うと、舌を絡めあわせ、甘い舌を味わった。
 もう、クッキーなんか必要ねぇ。俺にとってはコイツのキスの方が……ずっと甘い。
「俺を……もっと必要としろ。いいな、俺にもっと甘えろ。自分で何もかもやろうとするんじゃねぇ」
「……三蔵ッ……ダメッ。まだ朝で……」
「ああ? 」
 気がつけば、俺の手は八戒の服の下を這っていた。胸の尖りを指の腹で捏ね回していた。
 もう、ここ数日は長逗留をいいことに、連日のように昼夜を問わず抱き合っていたので、もう行為が習い性のようになっていた。自然に手が動いてしまうのを止められない。
「昨日……昨日あんなに……シタのに……! 」
 八戒が真っ赤になって身をよじって逃れようとする。
「うるせぇ。『迎えマラ』っていうだろうが! ヤリ過ぎると癖がついてまたヤリたくなるんだ。てめぇだって……そうだろうが! 」
 俺は開き直った。コイツは男として当然の生理的反応だ、流されてどこが悪い。
「ああッ……」
「ホラ見ろ。てめぇだって……ビンビンだろうが」
「言わないで……ッ」
「フン……両手が使えるなら……騎乗位もできるな。……ちょうどいい。ホラ、俺に跨ってみろ」
「いやぁッ……さんぞ……ああ」
 腕がわりだろうと、セックスだろうと、なんだろうと。手段はたぶん問題じゃない。
 俺はコイツに……。
「ダメです……三蔵ッ……そんなにしたらッ……」
 八戒の吐息塗れの喘ぎ声を心地よく俺は聞いていた。八戒の躰は素直だった。いつだって砂糖のように甘く崩れる。
 そして、正直に俺のことを求めてくれる。
 俺なしではいられないくらい淫らにしてやりたい。ずっと繋がっていたいとその唇に言わせて求めさせたい。
 俺のことを、忘れられなくしてやりたい。いつでも欲しがって悶えるように……俺なしじゃ、生きていけなくなるように。
 八戒が、感じて甘い声を上げるたびに俺は幸福になる。俺は確かにコイツに必要とされている。
「あっ……もう……さんぞ……が欲しい……僕……ッ」
 俺を求めるその甘い睦言をずっとずっと聞いていたい。

……お前に必要とされたいから。