依存症(1)

 その日、街には雨が降っていた。
 パン屋の裏口に小さな子供がいる。悟能だ。つややかな長めの前髪からしずくが落ちる。茶色い石畳の上に水たまりができはじめていた。
「ん……」
 悟能はそっとあたりを見わたすとフタつきのゴミ箱へ近寄った。小さい身体を伸ばしてつま先で立つ。一生懸命に中を覗きこむがうまく見えないらしく、目を細めるようなしぐさをする。中にはこげたパンやちぎれた耳が入っており、しけって酸っぱいにおいがした。
「よいしょ」
 注意深くゴミ箱のフタを地面においた。
 しかし、幼い子供の力では無理があったらしい。雨音に負けない音をたてて、金属製のフタが転がった。わんわんと割れ鍋のような音を立てる。
 しまった。
 そんな表情をつくったがもう遅かった。パン屋の裏木戸が勢いよく開いた。
「いやだ。この野良イヌ! 」
 甲高い声。ここのパン屋のおかみさんだ。その冷たい目はまっすぐに悟能へと向けられている。『野良イヌ』 それは悟能のことなのだ。人間あつかいされていない。
「気味の悪いガキだねぇ。あっちへお行きよ! 」
 悟能へ向かってそうわめくと、店へ振り向き吐き捨てるようにがなった。
「パン捨てるときは、中に水いれろっていったろ! いれて腐らせないとこういうのが寄ってくるんだよ」
 しまった。
 悟能は逃げようと、ゴミ箱から手を離した。ほとんど、ぶらさがるように覗きこんでいたのでバランスを崩して倒れた。筒状のゴミ箱がすごい音をたてて転がる。
「このガキ! 」
 店員が飛んできて悟能の服のえりをつかむ。
「放せ! 放せよ! 」
「うわ、汚ねぇガキだな」
 もう何日もお風呂に入れていない。何しろ服の換えがないのだ。店員がいやそうに眉をひそめる。
「シラミでも湧いていそうなガキだ」
 顔をしかめてパン屋のおかみさんを振りかえる。
「役所か孤児院にでも引き取りに来てもらいましょうよ」
 悟能の顔はすすけて真っ黒だった。
「フン、こんなガキ。川にでも漬けちまった方がてっとり早いんじゃないのかい」
 無慈悲な言葉が投げつけられる。
 そのとき、
「お待ちなさい」
 一陣の風がふいた。
 冷たい雨が風を受けて空中をバラバラと舞う。
 いつの間にかすぐそばに、ぼう、としたあかりが灯っていた。行灯だ。『易』 と書かれた字が紙の上に浮きあがり、雨だというのに火が消えもしない。白い布を敷いた机。簡易な折りたたみ式の椅子。その上にいくつかの麻雀牌が散らばっている。
――――辻占いだ。
 先ほどまではこんな占い師はいなかった。いなかったはずだ。いなかったのに、いる。不気味だった。雨の見せる幻覚のごとく、彼はそこに悠々と座っていた。肩の張った白い中国服を身につけ、こちらを流し見ている。青みがかった銀色の長い髪が雨をはじく。背中でひとまとめにして縛っていた。
 まるで幽霊か妖怪のような男。そいつはパン屋のおかみに呼びかけた。
「貴女の行く末を占ってさしあげましょう」
 その声は耳障りで低い音律をもっていた。口に麻雀の点数棒をくわえている。
「春夏秋冬」
 相手の返事も聞かず手に握っていた巫竹の棒をふたつにわけた。素早い動きだ。棒がこすれあう雨だれにも似た音。
「天地人」
 呟きとともに残った6本ほどをざっとかざした。
 乞食易者と退けるには不思議な迫力があった。無碍にできぬ雰囲気と気品が容貌にただよっている。すっと通った鼻筋や顔に妙な気品があるのだ。巫竹をあつかう手つきも上品だった。
「ありゃりゃ」
 易者はすっとん狂な声をあげた。
「……こりゃあ不吉な卦ですねぇ」
「な、なによ」
「帰妹が出ました……妹の魂が帰る、ようするに」
 易者はパン屋のおかみを長い爪先で指差した。
「貴女、寿命が尽きてますよ……クククク……怖いですねぇ」
 目を細めて易者は笑った。不気味な気配をはらんで、その陰惨な声は路地裏に響いた。
「今、二爻を占って出ましたから、あと5年ってところですね。貴方の寿命」
 すっ、とその目を見開いた。端正だがひどく酷薄な瞳。蛇に似た目がまっすぐにパン屋を見すえている。『死』 と書かれた麻雀牌をそっとおかみにさしだした。
「で、出て行っておくれ。このエセ占い師が」
 パン屋のおかみの声はすっかりふるえている。不吉な神託を聞くデルフォイの民のようだ。その背後にすすけた裏木戸が見える。店名と電話番号が細い筆致でペイントされているが、年月が相当経っているらしく全てがかすれ気味だ。
「おやおや、それなら占いのお代にこの子は頂戴しますよ」
 易者はちょこんと傍にいる悟能を指差した。



「あははは。どうやら我は嫌われたようですねぇ」
 易者は悟能といっしょに雨の中を歩いていた。なるべく悟能が濡れないように袖で悟能の頭のあたりをおおっている。
「ありがとうございます……あの」
 ずいぶんと街はずれまでやってきた。夕闇はいっそう濃くなり、街の明かりが幾つも灯りだしている。悟能はもじもじとしていた。知らない大人と一緒なんて慣れてなかった。
「我は清ですよ」
 悟能を連れて歩く、この不思議な人物は名乗った。
「清(チン)さん」
 悟能は、顔をあげて、隣の男を見あげた。雨の粒が顔を叩く、それでも救いの主を見ずにいられなかった。清の白い袖に阻まれて、あまりうまく見えはしない。
「そう、我の名は清一色(チンイーソー)。以後お見知りおきを」
 どこか品のある口調で、相手の男は自己紹介した。清一色。変わった名前だ。通り名か何かだろうか。幼いながらに悟能は考えた。以前、母親が連れこんだ男どもがそんな言葉をいいながら、麻雀をしていた記憶があったのだ。写真のように思い出せた。
「貴方のお名前は」
「僕は……悟能です」
「能(よ)く悟るもの。良いお名前ですね悟能」
 そのとき、
「う」
 突然、悟能のお腹がひどい音を立てて鳴った。飢えていた。めまいがしてくるほど空腹だった。それを聞いた一色は首を傾げた。
「かわいそうですねえ。お腹が空いてるんですか? じゃ、夕食でも食べましょうか」
 清は雨の降る天を憂鬱そうに見上げてつぶやいた。
「え、どこへ? 」
 悟能の質問に目の前の男は微笑んだ。笑うと目が細くなってなくなった。裏がありそうな、なさそうな。なんともいえない笑顔だ。とことん不思議な気配を持つ怪しい男だった。
 そんな小さな子供の不安をよそに、清はいきなり指を鳴らした。
「おいでなさい」
 そのとたん、どこかで大きな獣の鳴き声がした。上の方だ。上の方からだ。天の彼方からおたけびが聞こえてきた。
「え」 
 悟能は目を丸くした。冷たい雨の降りしきる夕暮れだった。視界は極端に悪かった。それでも怪しいその姿はうっすらと頭上に見えてきた。
 雲の合間からぐんぐんとそれは下降してくる。大きな鳥の影。鳥、そう確かに最初そう思った。そのうちすさまじい羽ばたきの轟音がみるみるうちに大きくなる。たちまち、おそろしく巨大な動物が目の前に降り立った。大気がびん、と緊張で震えた。荘子の逍遥編に出てくる大鳥の 『鵬(ほう)』 を連想させるいきものだ。その翼三千里。そこまではいかないものの清一色が招いたそれは大きかった。
「さ、行きましょう」
 清は目の前の巨大な動物へ手をのべて紹介するような仕草をした。
「おや、これを見たことありませんか? 」
 悟能は大きく目を丸くしていることしかできなかった。大きな大きな生き物。それは子供の想像をはるかに超えていた。
「飛竜ですよ。便利なんです」
 目をより細めて微笑む怪しい易者を前に悟能はたじろいだ。




 
 結局、悟能は清に言われるままに飛竜に乗った。幼い子供を抱っこして、清は竜のたずなを握って自在にあやつった。地上の木や家がたちまち小さくなる。風の音がものすごい。
「落ちないように我につかまってくだサイ」
 清に言われなくても、その白い服に前から抱きついた。ふりおとされないように必死だ。無我夢中だった。恐ろしいあまり目をつぶった。怖かった。清の胸へ必死になってしがみついた。
 雲を飛び越え天空高く竜は舞いあがる。雲上では当たり前だが雨はない。煌々とした月が輝いている。
 しかし、悟能はその幼い瞳を大きく見開いておどろいていた。はじめての経験だった。
 恐ろしいくらい美しい月が中空にかかり、月光が青くきらめく。魂すら呑みこまれそうなくらいの美しさだった。

 ふいに清にささやかれた。
「ほら、見えてきた。あれが我の家ですよ」
 その声は、竜の翼が風を切る音に打ち消されてよくは聞こえない。下界を指さしているが、雲が多すぎた。灰色にたなびく雲の合間から地面が切れ切れにのぞいている。どの建物のことを言っているのかも定かではない。
「もうすぐつきます」
 果たして、
 清から指し示されたのは、巨大な黒い塔の影だった。
「え……」
 それは城だった。そびえたつ楼閣。優雅というよりはいかめしいつくりだ。雨はずいぶんと小降りになったらしく、その城は怪しげな霧に包まれていて全容が見えない。
「幾つかある我の家のひとつです。実家じゃなくって別荘です」
 難攻不落。そんな言葉を連想させる。そびえるような高楼だった。山々を従えてちっともひけをとっていない。
「いきましょう。おいしいものもありますよ」
 清一色はのんびりとした口調で言った。
 妖魔の城だ。妖怪の住まい。
「どうしたんですか。猪悟能」
 見あげればとがった耳にピアスが光っている。悟能は何もいえなくなった。



「お帰りなさいまし」
 不気味な召使 「みたいなもの」 が出迎える。古びた扉には中国風の意匠のついた装飾がされていて美しい。龍や鳳凰が彫られ、それを白蝶貝や翡翠がいろどる。薄気味悪いきしんだ音を、扉は立てて開いた。夜の暗がりに、いやに後をひいて響く不気味さだった。
「遅くなりました。食事の用意を」
「は……」
 ちら、と召使 「みたいなもの」 は、清一色の抱えている悟能を横目で見た。垢じみた汚い子供だ。
「そうそう、この子と一緒に食事をしますからね。辛いものはちょっと避けてくれと伝えてくだサイ」
 若君は悟能を抱っこしたまま、うれしそうに微笑んだ。召使はうやうやしいしぐさで、その場を下がった。








 「依存症(2)」に続く