花の葬列(8)

 どのくらい時間が経っただろうか。
 羞恥に駆られた八戒が明かりを消そうとサイドランプに手を伸ばすたびに、その腕をとらえて捲簾が躰の下に敷き込む。そんな動作を繰り返しながら、八戒は何度も抱かれた。
 何度も躰の奥底を穿たれ、貫かれた。捲簾のものを大事な肉筒で何度も受け入れた。確かにもう何も考えられなかった。そんな余裕はなかった。
 ベッドサイドの明かりだけが、ふたりの秘め事を見つめている。情事の後特有の気怠い気配で部屋の空気が満たされる。官能の残滓が端々まで滲むように漂っている。
「あ……あ」
 白い艶やかな胸が上下している。なかなか快感が去らないのか、胸の突起は固く尖ったままだ。
 捲簾はそんな甘い肌に戯れを仕掛けながら八戒の傍に片手で肘をつき横になっていた。
 散々、好き放題にされた八戒の方はベッドの上で倒れ伏しているというのがぴったりな様子だったが、捲簾の方は余裕綽綽だ。悠然とした態度で八戒の初心な様子を優しく見守っていた。
「よかったろ」
 捲簾は相手の艶やかな黒髪をくしゃくしゃとかき回すようにして頭を撫でた。荒っぽいが深い愛情を感じる仕草だった。
「……」
 もう、どんな態度をとっていいかも分からなくなった八戒が言葉もなくうつむいた。なんといってもあんなに淫らな姿を、恥ずかしい格好をつぶさにみられてしまったのだ。どうしていいか分からなかった。
「本当にオマエってカワイイのな」
 すっかり一休みすることにしたらしい大将は、八戒に腕枕をするとその肩を抱き、毛布を引き寄せた。
「少し休憩すっか。あんま腰、今日は動かさねぇ方がいいな。慣れねぇ筋肉使ってるから腰傷めるぞ」
 経験からくる重みがこもった口調で捲簾が忠告した。
 誰のせいですかと言葉にしたいが声にならず八戒が睨みつける。その視線を受け止めて捲簾が苦笑いした。
「ワリィ。だってオマエが可愛くってよ」
 それを聞いて八戒は子供みたいにムキになった。手元にあった枕を捲簾にぶつけようとする。
「……タンマ。怒るな。そんな怒るなよ」
 よせばいいのに捲簾はにやにやと笑った。
「……! 」
「また、オマエが落ち込んでたら、こうやって俺が慰めてやるから」
 性懲りもなく低音の色気のある声でカフスの嵌まった耳元に囁く。八戒の顔が羞恥とも怒りとも知れぬ感情で再び赤くなった。こんなことをまたされてはたまらない。
 枕が上手く取れないので、力の入らない腕で捲簾の胸を打った。瞳に涙を滲ませて、何度も腕を振り下ろす。
「いて! いてぇって! ちょい待て」

 そのときだった。
 不意に桜のはなびらがひとひら舞い落ちてきた。

「え……」

 優雅に舞う紅のはなびらはひらひらと捲簾の腹の辺りに落ち、吸い込まれるようにして消えた。そして。

 ひとすじの血が肌に浮かんだ。

「捲簾! 」
 突如として起きた眼前の信じられぬ光景を前に、八戒は叫んだ。
「ぐ……」
 捲簾は腹を押さえ苦悶の表情を浮かべて身を屈めた。治ったはずの傷跡から血が噴き出す。それはベッドの敷布を濡らし、床へと滴った。
「捲簾! 」
 八戒は慌てて傷を覗き込んだ。捲簾の腹部に手を当てる。気功で治療しようと手をかざした。

 本当に突然のことだった。
 先ほどまで恋人同士のように笑いあっていたのに。
 悪夢のようだ。

「どうして! どうして! どうして捲簾」
 八戒の語尾は掠れて悲鳴になった。確かに完全に治したはずなのに。どうして今頃になって傷が開くのか、わけがわからなかった。
「いいんだ。八戒」
 捲簾が苦しい息の下から言った。
「時間切れだ」
 捲簾は何もかもを承知したような深い声音で呟いた。
「もう行かなくちゃいけねぇみたいだからよ」
 捲簾の傷はまるでテープを逆回しにするように加速度的にひどくなっていった。ちょうど八戒がいままで治療したのと逆の行程を進むように傷が開き血は流れ落ちた。捲簾の躰が紅い血で濡れてゆく。
「ザマねぇな。俺はどうも最期の最期、こころ残りがあったみたいだ」
 苦しげに捲簾は呟いた。
「だからだろう。こんな、 『オマエ』 がいるところにまで迷いこんで」
 内臓が裂けたのだろうか、食道から逆流したらしい血が口元から滴り落ちる。
「悪かったな」
 血が止まらない。きりもなく溢れてくる。いつの間にか内臓が破裂している。八戒がはじめてケガを治療したときと同じだ。巨大な獣に踏み潰されたかのような大ケガだった。
「でも、俺は 『オマエ』 に逢えてよかった」
 捲簾の顔色が紙のように白い。完全に出血多量だ。
「何を言って……」
 八戒は夢中で治療しようとした。気功が効かないので、せめて手で血を止めようと捲簾の傷に手を当てて押さえる。
「……俺がいなくなったら、オマエどうなんのかなって心配でしょうがなかった」
 苦しい息の下で捲簾は笑った。
 捲簾の言う言葉の意味が分からず、八戒が幼子のようにただただ首を横に振る。その頬に捲簾の軍人らしい銃を扱う逞しい手が添えられ、長く節立った指で八戒の涙をそっと拭った。
「……でもオマエはやっぱオマエだよな。安心した」
 激痛に苛まれているだろうに、その口元に優しい笑みが拡がる。
「俺には分かった。オマエがどんな姿だろうとオマエだってな」
 捲簾は遠くを見るような眼をした。八戒を通じて知らない誰かを見ている目だ。
「前んときよりも、ちょいとばかし負けず嫌いに磨きがかかった気がすっけどよ」
 苦しいだろうに、からかうような声音が八戒の耳を打つ。
 しかし、次の瞬間。辛そうに眉根に皺が寄った。腹が完全に裂けていた。相当の激痛だ。
「喋らないで下さい! 捲簾! 僕がいま……」
 気功がうまく効かないのに焦る八戒が叫んだ。捲簾が何を言っているのか理解できなかった。
「いいんだ八戒」
 震える大きな手が八戒の頭の上に置かれた。そのまま優しく子供のように撫でられる。
「俺は行かなくちゃならねぇんだ。俺が足止めしねぇと」
 捲簾はなんともいえない目をした。死期を覚悟した男の目だ。その脳裏には八戒の知らぬ仲間の姿が映っているのだろう。
「あいつら駄目だからよ」
 大将は優しく微笑んだ。それは、過酷な自分の運命すら承知して受け入れた大人の男にしかできない微笑みだった。
「ありがとうな。八戒」
「捲簾! 捲簾! 」
 八戒はその手を握りしめた。あの世から引き戻せるものなら引き戻したい。そう思った。
 八戒にはわかった。今、捲簾は全てを思い出したのだ。自分が何者なのか、どうしてここにきたのか、どうしてこんなひどい怪我をしているのか、そして。
「またな」
 清々しさすら感じる言葉がその口から呟かれた。
「捲……! 」
 八戒は間に合わなかった。冥府から来たひとを取り返すなんてことはできなかった。
 流れ落ち、ベッドを濡らしたと思った血は発光し、瞬間全て桜の花びらと化して空中に浮いた。眩い桜吹雪が部屋を舞う。桜色の視界で覆われた。
「待って下さい……行かな」

 行かないで。

 思わずこぼれたその声に、捲簾が弾かれたように顔を上げて、八戒を見つめた。

 彼は最期に優しく微笑んだように見えた。

 竜巻みたいな桜吹雪が部屋を舞い、捲簾の姿をかき消した。目の前が桜で覆われ、全く見えなくなる。
「捲簾! 」
 八戒が声にならぬ声で叫んだとき。
 桜吹雪は止み、そしてそこには――――誰もいなかった。


 気がつくと桜の花びらすら、ひとつ残らず消えていた。


 どのくらいの時間が過ぎただろう。実際はものすごく短い間の出来事だったに違いない。


 八戒は簡単に服を身につけ、よろよろと宿の廊下へ彷徨い出た。信じられぬ出来事だった。消えてしまったなんて思えなかった。
 冗談ばかり言っていた捲簾。
 明るくて楽天的で強い人。
 そして誰よりも優しいひと。
 それが
 いなくなった。
 桜にさらわれるようにして突然、消えてしまった。

 好きになったあのひとは、一緒にいられない世界のひとだったのだ。

「また、オマエが落ち込んでたら、こうやって俺が慰めてやるから」

 捲簾の言葉が脳裏に甦る。いかにも色事に通じた悪い男の典型的な口説き文句だった。

「嘘つき」
 八戒は震える声で呟いた。自分で自分の躰を腕で抱き締める。シャツの布地を手の筋が浮くほどきつく握り締めた。その太腿を捲簾の放った白い体液が流れ落ちてゆく。
「あ……」
 愛された跡はそこかしこに残っているのにあのひとはもういない。この世のどこにもいない。官能の蜜の味だけを年下の八戒に教え込んで消えてしまったのだ。
 八戒は唇を噛み締めた。何かの冗談としか思えなかった。こうして歩いていると、捲簾が片手を上げ、いつもの人を喰った笑顔で廊下の向こうから突然現れるような気がした。
 消えてしまったなんて思えなかった。颯爽とした黒い雷のような姿を追い求めて、八戒は廊下中を探しまわった。
 胸中になんともいえない喪失感が広がった。置いていかれるのは嫌だった本当に嫌だった二度と味わいたくない感覚だった。
 それなのに。
「捲簾ッ……捲簾」
 廊下の窓に手をついて、肩を震わせて八戒は声にならぬ声で泣いた。
 初めて自分の全てを見せたひと。そしてそれを優しく笑って受け入れてくれたひと。本当は惹かれていた。最初から気になってしょうがなかった。自分が意地を張らなかったらもっと早く。
「あ……」
 白い頬を銀の雫にも似た涙が流れ落ちる。
 そのとき、廊下の向こうから足音がした。ゆっくりとこちらに向って歩いてくる。若い男の足音だった。
「捲……」
 なぜか、八戒は捲簾だと思った。そうとしか思えなかった。そう思いたかった。
 夜明け前の薄闇の中、その男は姿を現した。
 同じ切れ長の瞳。鮮烈で印象的な姿。
(オマエはやっぱオマエだよな。安心した)
(俺には分かった。オマエがどんな姿だろうとオマエだってな)
 燃えるような肩までかかる紅い髪、均整のとれた颯爽とした長身。
 赤を基調にした格子柄のシャツを着、ジーンズを着崩してはいている。

 現れたのは悟浄だった。

「何オマエ」
 悟浄は親友の姿を認めると、不審げに首を傾げた。肩先でさらさらと緋色の髪がこぼれる。夜の賭場からの帰りだった。
「どうした。こんな明け方。やっぱ気分悪いのかよ……って」
 八戒は悟浄の胸元へまっすぐ手を伸ばした。何かを確かめるようにそっと手を当てた。
 悟浄の肩には一枚だけ季節はずれの桜の花びらがのっており、それは悟浄の躰の中へ吸い込まれるようにして消えた。
 思わず、八戒は目を見張った。
(俺には分かった。オマエがどんな姿だろうとオマエだってな)
 捲簾の声が耳に残っている。
(またな)
 深く優しい声が再び甦る。
 八戒は顔を片手で覆うとそのままうつむいた。捲簾の姿が悟浄に重なる。
 あのひとの欠片(かけら)をみつけた。ここにいる。あのひとは確かにここにいた。近すぎて今まで気がつかなかったのだ。
「お、おい八戒」
 負けず嫌いな友人が体裁も構わず泣く姿に、悟浄が慌てる。
「な、何。何がどーした。オイ」
 いつもは斜に構えた男らしい顔立ちを心配そうに歪め、悟浄は思わず八戒の肩に手を置きその痩躯を支えた。

(またな)

 捲簾の優しい声が再び辺りにそっとこだました。




 了