卒業



「私は、君の好意を受け取ることはできない」

 陣内さんははっきりとそう口にして、僕の逃げ場をなくすように真っ直ぐな視線を浴びせかける。
 覚悟していたはずの最後通告は、それでもこの薄い胸を刻むようで、僕は黙って呼吸を整えた。ヒリヒリとした感覚が、痺れそうなほど身体全体を覆っている。
 二人きりの図書室。この恋の始まる場所がここならば、終わる場所もここなんだとずっと思っていた。終わらせようと思えばきっといつでも僕の匙一つで、驚くほど簡単に形を変えるであろうこの関係がずっと切なくて、とても大切だった。
「…いいよ。多分、知ってたから。陣内さんがそういう選択をすること」
「私は、君に、幸せになってほしいと思っているんだ。静」
 それも知っていることだった。否定を告げた陣内さんが、一番に願っていること。僕が望む幸せと、この人の望む幸せは、同じところにはない。
「僕は幸せになるよ。陣内さんよりもっといい男に恋をして、相思相愛になって、…その時に欲しくなっても、振り向いてやらないから」
「ああ」
「陣内さんのこと、大好きだった。毎日一緒に過ごすことができて、僕は本当に幸せだった。ありがとう、僕、陣内さんからイエス以外の沢山…色んなもの、もらったんだ。嬉しかった。これからもずっと、この日々を大切にして生きていくよ」
「君は私を泣かせようとしているのかね」
 嘘つきと笑いたくなるほど、平坦な調子で陣内さんは溜息をつく。
「僕はずっと、陣内さんに笑ってほしかったよ。最初から…今も、本当にそれだけで、」
 言葉に詰まった。堪えきれない涙が溢れて、頬を濡らしていく。
 もうこんな風に話せることはなくなるんだ、そう思うと振られたことよりも寂しさが先に立って、どうしようもなくなってしまった。恋愛相手というよりもっと、人間的に好きだった。そんな陣内さんと毎日一緒に居られることが、僕は本当に嬉しくて楽しかった。幸せだったんだ。
「静がそんな風に泣いても、これからはもう、私は君に嫌みを言うことも慰めることもできない。涙を止める術がなくなる。それはつまらないことだと思うよ」
「それって元気づけようとしているなら、言葉選びを間違っているとしか言いようがないよ。陣内さん」
 何度もこんなやりとりをしてきた。最初はその度に傷ついたりなんてしていたけど、さすがにもう慣れてしまった。陣内さんの、まわりくどいコミュニケーション。
「そうだな。…笑えば、いいんだろう。君の望み通りに」
 陣内さんは呟いて、僕にも初めて見せるような柔らかくて優しい笑顔を浮かべる。僕はそれをもっと見たいと思ったのに視界が滲んで解けていくみたいで、涙が止まらなくなってしまった。
 ずっとずっと願い焦がれてやまなかった場所に、ようやく辿りついたけど夢想していた頃とは、少し違った結末だった。それでも、辿りついたことに違いはない。そんな風に思った。
「陣内さん、ずっとそんな風に笑っててよ。そうしたらきっと、あなただってもっと幸せになれる」
「私は、幸せだよ。静。君と過ごす放課後が好きだと、前にも言ったが…」
 どうしてあの時、有耶無耶にしてしまったのだろう。もしかしたら違う未来を、その点を探すならきっとその時だった。お互いに選んだのは結果、こんな風だったのだ。なんだか二人らしい、そう言って笑えるくらいには認められる。
「覚えてる。本当に嬉しかったから」
 こういう結末を迎えることを、僕は自分に許したのだった。
 図書室を見渡した。いつも後藤が寝ていた、窓際の席に目を留める。不思議な男との出会いは、友情という、これからも続いていくものを僕にもたらしてくれた。陣内さんは、後藤と僕がくっつけばいいなんてとんでもないことを考えていたりして。本当に最悪だと、想像しようとして唇が笑う。
 最悪にタチが悪い男を好きになった。僕の恋情はある人には筒抜けで、まるで自分のことが書かれていたような仮面の小説を思い出す。新刊の後書きを読む限り、若き小説家は元気でいるようだった。
 頼れるような頼りにならないような先輩たち、かわいい後輩。いつも来る常連。本を読む人、宿題をする人、多分どの顔もほとんど覚えている。どれも大切な、かけがえのないもの。大好きなものの中心に、陣内さんがいてくれた幸せ。
「…っ……」
 なんて自分は幸せなんだろうと思ったら、身体が反応した。生まれて初めて、子供みたいに泣き声をあげる。
「静…」
 なだめるような声とともに、抱きしめられた。それはおかしいと思ったけれど、陣内さんのおかしいところなんて今更だったからツッコミもやめておく。最後くらい、こんなささやかな思い出があったっていいじゃない。何かに許しを請うように、僕はそう思った。
「静。ありがとう」
「…ど…いたし、まし…って……」
 何に対してのお礼なのか、判別することは難しい。陣内さんの本音はきっとすべてに対してで、だからそういう返事しかなかった。
 今までだったら怒ったかもしれない。でも、もうそんな時は終わった。
 僕は陣内さんと、もう会うことはないのかなあ。少なくとも、お互いに会いたいと感じたとしてもこうやって、顔を見ることはしないような気がする。傍から見たら理解しがたいだろうけど、それでも悔いがないくらいには僕はこの恋に全力だった。
「ありがとう。私のことはもういい、静。もういいんだ」
「う…ううっ…。陣内、さん、」
 こういう時に有効な言葉を、僕が持ち合わせていたら。幸か不幸か、名前を呼ぶことがささやかな求愛。
「静、卒業おめでとう。私はずっと、君の幸せを祈っている」
「ありがと…ござっ…ま、す。…陣内さん、お世話になりました」
 未練がましい態度を取らなかった自分を心から褒めてやりたい。そうすることが精一杯の、今までの自分に対する礼儀のような気がしたんだ。僕が引け目を感じることなんて、何もない。傷つくこともないし、これは乗り越えられる。大丈夫。頭の中を、沢山の感情が流れていく。
 頭を下げて顔を上げる一瞬、陣内さんが寂しそうな表情をしているような気がした。名残惜しい気持ちを殺しドアを閉めて、図書室から離れる。走り出しそうになる足を堪え、唇を引き結んだ。逃げるみたいで嫌だったから、わざとゆっくり僕は歩く。

 廊下を進むと物憂げに佇むフミちゃんと出くわして、立ち止まった。僕に気がつくと、フミちゃんは柔らかい表情を瞬間、心配そうなものへ変える。
「倉内くん…?」
 沢山言いたいことがあるような、何もないような、不思議な感覚にとらわれる。振り回されてばかりだったけど、僕はフミちゃんの全身で人を愛しているようなあり方が、本当は羨ましかったし好きだった。
「フミちゃんは、恋人と幸せにね。僕はずっと応援してるから、頑張ってよ」
 悪友の顔を思い浮かべながら、僕は細い身体を抱きしめる。他意のない、友愛のハグだ。せっかくつかまえられたなら、その幸せを大切にしていてほしい。これからもずっと、変わらないものもあるのだと二人で示してほしかった。身勝手な期待。
「…倉内くんも、頑張ったね。お疲れ様」
 フミちゃんの返事は、自分の恋路に対してではなく僕の失恋を労るもの。優しい手のひらが、ぽんぽんと背中を撫でてくれる。この気持ちよさに抱く愛情なら、わかるような気がする。
「ありがとう、フミちゃん」
「卒業おめでとう。これからはもう、倉内くんがあの場所にいないのが寂しいよ。僕はすごくあの図書室が好きだった。僕だけじゃないと思うけど、君たちが作り上げる空気が、とても居心地が良かったから。新しい環境でも、君らしく輝いてね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。…ってフミちゃん、まるで先生みたいだね」
「僕は最初から最後まで、出来の悪い先生だったかもしれない…。だけど倉内くんは、格好よくて、僕たちの自慢の生徒だった」
 こんな風にフミちゃんをからかうことも、できなくなるんだな。フミちゃんは自嘲と羨望を綯い交ぜにした視線で僕を見つめ、別れの言葉を告げる。そうか、この人は陣内さん側の立場なんだった。唐突に、そんな思いが胸を過ぎる。
「やめて。寂しくなってきた。せっかく涙が止まってたのに、また泣きそう」
 フミちゃんて、すごく先生らしくないのに理想の先生像を持っているところがあって、精一杯それらしく振る舞おうとするいじらしさがある。僕たちが三年間で成長した分だけきっと、先生たちだってそれぞれに変化があった。陣内さんだって、確かに変わった。
「君たちは巣立っていくけれど、僕たちはここにいる。いつでも会えるよ」
 出会った時から変わらない笑顔が、僕をそう励ましてくれる。
「いつでも、また…」
「会える。必ず」
 力強くフミちゃんは頷くと、約束するように僕の手を握った。

 春が近づき、僕たちは高校を卒業する。今はただ、新しい季節を待ち望むだけだ。


  2012.02.28


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