もう、貴方しか見えない



   【後編】



 拝啓、倉内静様

 貴方は誰のものでもないと、僕が誤解していると知りました。
 それなのに、現実を嬉しく思うどころか僕は、軽い落胆を感じたのです。
 誰の手垢もついていない、清らかな存在の貴方は、より遠くなったような気がして。
 ただの妄想かもしれません。でもそんな思いこみでさえ、僕の中ではすべてなのです。
 近づきもせず離れられずに、そっと貴方を窺う僕をお許しください。
 追伸:貴方に怪我をさせるつもりはなく、咎人に制裁を加えるつもりだったのですが
     運動音痴の為、怖い思いをさせてしまったことを謝ります。

 浦賀良平(ちなみに同じクラスです)


「コレは、さすがに気持ち悪いな…」
「え?そうですか。一生懸命考えたんですけど」
「書き直した方がいいと思う。つうか、こういうのは日記帳にでも書いてろよ」
 目と頬の腫れた同級生にそんなダメ出しをしながら、後藤はのんびりとあくびを繰り返した。


   ***


 一方、後藤の身を案じている友人たちといえば。

「今日の委員会活動を、お休みしたいんですけど…」
「わかった」
 たったその会話のやりとりだけで、泣きそうになる自分を倉内は本当に弱いと思う。寂しいなんて、そんな言葉を期待しているわけではない。ただ、少しくらい望みを持つくらいは。
(興味がないのはわかってるけど、社交辞令でもいいから理由くらい聞いてほしいよ)
 形の良い唇を噛みしめて、倉内はしかめっ面で俯いた。油断すると手が震えそうになるから、こんな気持ちの揺れなんてきっとお見通しなのに。
「何かあったの?」
 さすがに様子がおかしいと思ったのか、そう尋ねてくれたのは金本だ。この先輩は時々、自分にとってひどく都合がいい。倉内はそう思って、その考えが嫌な感じだと思い直して自己嫌悪する。余計に、落ち込んだだけだった。
 陣内に恋に落ちてから、倉内はどんどん、自分が嫌な人間になっているような気もする。深みに落ちる、という表現が正しいかもしれない。そういう場面に出くわす度、うんざりしてしまう。
「…後藤が、いなくなってしまって。どこを探してもいなくて、携帯も繋がらないし…。何か、あったんじゃないかと」
「後藤くんか…。保健室で寝てるんじゃないの?」
「心当たりのある場所は全部、探したんです。でも、」
 あまり気は進まないが、倉内は金本に事情を説明した。隣りで聞いていた陣内の表情が、僅かに強張る。そんな些細な変化には気がつかず、倉内は落ち込んだまま溜息をついた。
「もし、僕のせいなんだったら。後藤に何か、あったら…僕は」
 恐ろしくて、想像もできなかった。思考すら現実に繋がりそうで、そんな未来は望んでいない。
(きっと何もない、大丈夫。大丈夫だから…)
 だけど、とどこかで考える声が邪魔をする。態度に出てしまっていたのか、冷静な声が倉内を諭した。
「落ち着きなさい、静。君が元気をなくしたところで、彼が見つかるわけじゃない」
「な…」
 今のは、優しくしてほしいところだった。そう恨みがましい気持ちになり、唇を噛む。
 絶句した倉内の耳に届いたのは、思いがけない優しい言葉だった。
「私も一緒に探すから、元気を出しなさい」


   ***


 自分をこれほど単純だと、思ったことはなかったかもしれない。後藤のことが心配なのに。倉内は大分元気になって、羽柴と顔を合わせるのだった。
「秋月先生には、事情を話したの?羽柴」
 秋月というのは後藤と羽柴の担任教師で、後藤とは割合仲が良い。だからこそ教えておいた方がいいような気もするし、知らせない方がいいような気もする。ただどう考えても、図太い神経の持ち主ではなさそうなので、その辺の判断は気になるところだった。
「まっさか〜。秋月先生が知ったら、最高に心配して大事になっちゃうから。早退した、って」
「それは賢明な判断だね」
「でっしょ?俺、とりあえずマサんち行ってみるけど。倉内はもっかい、校内まわって」
「うん…」
 なんだか、また不安が込み上げてくる。
 友達思いの羽柴もきっと心配しているに違いないのだろうが、倉内と比べれば気丈に振る舞っていた。いつもみたいに笑顔を浮かべて、倉内の頬を両手で挟む。ぶに、と柔らかく肉がつぶれる。
「ほら、しゃきっとして!大丈夫、絶対見つかるから。河川敷で寝てるだけかもしれないし」
「………」
「そんなにしょんぼりしてると、キスするよ!」
「はあっ!!?」
 する気もないくせに、羽柴はたちの悪い冗談を言う。しかも冗談か本気かよくわからない、いつも。
 大体それは、色んなことを飛び越えすぎたフレーズだ。わかっているのか、もう。本当に?
 目をまん丸くして、慌てた倉内は後ろへ仰け反ってそれを阻止する。
「アハハ。また連絡するから、後でね」
 倉内の反応に羽柴はゲラゲラと笑って、軽やかに消えてしまった。クラスメイトに借りた自転車で、あっという間に見えなくなる。その勢いで、問題児をすぐにでも連れてきてくれればいいのに。
 そんな他力本願なことを、一瞬だけ倉内は考えるのだ。
「さて、私たちも探しに行こう」
「どうして陣内さんは、一緒に探してくれる気になったの?」
 とにかく後藤から思考を逸らさないと、と倉内は思ったのだ。いや、後藤を見つけなくてはいけないから、その考えは不自然かもしれないのだが。駄目だ。
(何かあったらどうしようって、怖くなるから…) 
「私でなくても、大人ならこうするのが正しい選択だと思うよ」
「…陣内さんは、そうやっていつも正しいことばっかり選ぶんだ」
 それとも無難な選択を、と言おうとして口をつぐんだ。
 気が立つと口が悪くなる。良くない癖だ、女ばっかりの家庭に育ったからなんて言い訳、したくない。
「そういうのはわかりやすくていい。基準が単純なほど、そこに思考の挟む余地なんてないだろう」
「難しくてよくわからない」
「私は、規則が好きだよ。こう見えても早寝早起きだし、健康には気を遣っている」
「………迷惑だって言いたいの?僕の気持ちは」
 冗談ならばわかりにくすぎて、もう少し言葉を選んでほしい。気持ちが棘になる、小さな言葉の針が大事な人を刺す。痛くもかゆくも、ないかもしれない。
「校則に違反しない範囲なら、別に構わない」
「どうして陣内さんって、そうなの?」
 本来の目的を忘れかけている。こういうのは自分勝手かもしれない、友情を優先していない。
 不安が苛立ちを誘う。八つ当たりしてしまう、大人だから?子供だから?そんなの関係ない。
「誰もが自分の思い通りに動くと思わない方がいいね、静は。学校を卒業したら、外の世界は尚更だ」
「ねえ、今の話をしてよ」
 焦らされる。早く大人になりたい、子供扱いできないくらいにこの壁を越えたい。できることなら今すぐに、それが無理ならいつの日にか、必ずだ。
「後藤くんの居場所、見当がつきそうなところはないのかい」
「陣内さん!」
 のんきな着信音が二人の邪魔をし、陣内は何とも言えない表情で真っ赤になった倉内を見る。無性に恥ずかしい気分だった。シリアスな空気が、ぶち壊しだ。
(だってこの着信音ほど、あの馬鹿にぴったりなやつが思いつかなかったんだし)
 ひつじが一匹、ひつじが二匹〜。ひつじが三匹、ひつじが…

「あー、オレ」

 脱力しているようなダラダラした声が、倉内の耳に届く。
「……………」
 もうそれを聴いただけで、倉内の気は緩んでしまう。何だというのか、本当にこの男は。
(いっぱい心配して損した!時間の無駄だった、ふざけてる。冗談じゃない。よかった…)
 倉内はギュッと強く携帯を握りしめ、怒鳴りつけたい衝動を堪えた。なんだか泣きそうだった。
「シカトすんなよ、静」
「お前、今、どこにいるんだよ。馬鹿後藤」
(連絡するの遅いし。マイペースにも程があるだろ?馬鹿。馬鹿!)
「オレんちで、あ、羽柴が来た…。静、浦賀良平って知ってる?」
「わかんない」
(後藤の説明も、よくわかんない) 
「自分のクラスの人間くらい、知っとけよ」
 呆れたようにツッコミを入れられて、倉内は形の良い眉をひそめた。
「その言葉、そっくりそのままお前に返すよ。後藤の馬鹿」
「さっきから、馬鹿馬鹿うるせーな。馬鹿って言う奴が一番馬鹿なんだよ」
「順番なんてどうでもいいけど、とにかく後藤は馬鹿だよね。無駄な心配かけさせないで」
 本当は陣内さえ隣りにいなければ、なじってなじってもう散々に罵ってやりたいくらいなのに。
「てめ…。まあ今はとりあえず保留にしとくけど、お前を狙った奴が浦賀でさ。一応ボコった上で話を聞いたら、なんか誤解してたみたいだから。お前とオレはつきあってないって誤解を解いて、話を聞いてたら気の毒になってきたから、オレの家に招待してコーラをご馳走した」
「その行動の意味がわかんない」
 素直な感想を述べると、不服そうな声が聞こえてくる。
「はあ?オレの優しさだろうが」
「ちょっと、僕も今から合流するから。浦賀って奴捕まえといて」
「浦賀〜。よかったな、お前に会いに来るってよ、静」
「ああっ、もう、電話切るから!」
 ほんとに馬鹿なんだから、という文句を飲み込んだ。
 さっきから、穏やかな視線を送られているのに気がついていたからだ。もう本当、恥ずかしい。一人で大騒ぎして心配して、何もなくてよかったけど恥ずかしい。
「静」
「…陣内さん。なんか、心配しなくてよかったみたい。後藤元気だった、むかつくくらいにいつも通りで」
「よかったね。静も元気になったみたいだ」
「う、うん。ホッとしたと同時にすごくむかついてるけど、元気にはなった…」
 ギスギスしていた空気もいつの間にか、普段通りのものに変わっている気がする。後藤のことを心配しすぎて、自分でも思うよりずっと取り乱していたのかもしれないと、倉内は思った。
「それにしても本当に、静は人気があるんだね」
「ヤキモチ妬いてくれたらいいのに」
「大人の男の嫉妬なんて、そんな可愛らしい言葉で表現できるものではないよ。静。
 君はずっと知らないままでいい。そんなもの」
(なに、それ…)
 今一瞬、目の前にいる陣内が司書という職業以外の何かに、見えたのだ。倉内には。
 ドキリとして、顔が赤くなって。それを自覚してしまったらもう、本当にいたたまれない気持ちになった。日々出し惜しみされているすべてが、ふとした瞬間に吐露される時がある。今、みたいに。それはいつも不意打ちで、太刀打ちできない。大人だから?子供だから?そんなの、どうしようもない。
「知りたいよ」
 こういう告白の言葉にどれだけ勇気がいるのか、陣内はわかっているのだろうか。
 何もわからない子供じゃない。だから怖い、でも伝えたい。知って欲しい、知りたい。全部、全部。
「陣内さんになら、僕、嫉妬で殺されてもいい。そんなのは、幸せすぎて笑っちゃうよ」
「後藤くんのところに行くんだろう、静」
「え?」
「私と一緒に図書室に戻るより、無事だった友人の元へ行くのかと聞いている」
 照れるとか怒るとか、そういう感情など微塵も感じない見事ないつも通りの素面だった。
「…………………………」 
「…………………………」
 どれくらいの時間が流れたのか、暫く二人は見つめ合っていたものの、我に返った倉内はドキドキしながら照れたように、陣内から視線を逸らした。
 耳が赤くなっている、と思う。好きな気持ちが、表に出てしまう。
「後藤にメールしないと」
「ニヤニヤするのはやめなさい」
「幸せすぎたら笑うって、さっき言ったじゃない!」
 後藤にメールを送ったら、非難囂々の返信が速攻で戻ってきた。それでも、笑顔は止まらない。
 明日教室で、浦賀(記憶を辿ってみたら、どうやらそれらしき人物を思い出した)に挨拶しよう。朝一番に。昼休みになったら後藤に文句とお礼を言って、羽柴と三人で馬鹿騒ぎして。放課後には、大好きな図書室へ。

 スキップでもしそうな足取りで歩く倉内の後ろを、数歩遅れて陣内は歩くのだった…。


  2007.03.13


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