真夏の少年



 W.ハッピーバースデイ


 暗がりの中で飛び起きた僕は、先ほどまで自分が身を置いていたものがただの夢だと認識すると、真っ赤になってやりきれない溜息をついた。
 あの海の日。家に帰った僕は見事に夏風邪をひいて、散々周りに馬鹿だのなんだのいじられながら今日で、三日目。舞い上がりすぎて、身体中が熱くて、細胞に異常をきたしたのだ。
 …確かに、馬鹿だ。でも幸せだからいいんじゃない、と思ったけどやっぱり喉がいがいがして、不愉快なので二度目の溜息。
 熱を測ったら、37度からなかなか下がらない。病院も行ったし、大分楽にはなってきているのだけれど…変な夢ばかり見る。陣内さんの幻影ばかり、僕の妄想の塊はわかりやすく体力を奪っていく。
 ノックの後、雅姉が、不意にドアから顔を覗かせた。
「しず、後藤くんが来てるけどどうする?」
「大丈夫」
「じゃあ、連れてくるから」
 そう言って現れた後藤は、僕が起きあがろうとするといい、と手で制止して、ベットの脇にしゃがみ込んだ。少し表情が曇っているのは、僕にあまり元気がないからなんだろう。そう思うと、なんだかくすぐったいような気持ちになって、あまり態度には出せないけど元気が出てくる。嬉しいな、と素直に感じた。
「あんまり大丈夫そうじゃないな。早く治るといいな。つんけんしてない静も静で、心配になるよ」
 いつもこれだけ柔らかい態度なら、いいのに。僕はこっそりそんなことを考えて、笑ってみせた。
「ありがと。わざわざ来てくれて…」
「顔見に来ただけだから、もう帰るな。悪いな、無理させて。元気になったら、何か食いに行こうぜ」
「後藤の奢りでね」
「…はいはい。それじゃあ、お大事に」
 後藤は安眠グッズ、と言ってラベンダーの香り袋を残していく。ラベンダーの匂いをかぎながら、僕はまた眠りについた。何度目かの夢は、また陣内さんのものだった。
「見舞いに来たよ、静」
 穏やかな声を発したその人は、僕と目が合うといつもの調子で複雑な表情を浮かべていた。以前何度か一緒に帰ったことがあったから、陣内さんは僕の家を憶えていたんだろう。
 それにしても夢とはいえ、本物によく似ている。さすが僕の観察眼、僕の恋心。…駄目、頭が痛い。
「陣内さん、会いたかった」
 お見舞いに来てくれる、というシチュエーションは初めてのパターンだ。海か、図書室か、僕の夢は繰り返し同じ場所をリピートするばかりだったから…。
「私もだよ」
 あれ?おかしいな。僕がこんなだから、優しい言葉をかけてくれているのかな?
 陣内さんの冷たい手が、額に触れた。気持ち良くて目を細めて、撫でられるまま僕は身を任せる。
「可哀想に。苦しそうな君を見ているのは、心が痛むな。私に移してしまいなさい」 
 陣内さんが、気障なことを言っている。僕はそれだけを認識して、何か言おうと思ったけど気の利いた反応を返すこともできず、近づいてきた大好きな顔に目を見開いた。
 何…?風邪をひいてるから、見る夢も本当にリアリティにかけているっていうんだろうか。陣内さんの唇が、僕の唇を吸う。それはただ触れるだけの柔らかなキスとは違って、大人の口づけで。
「う、ん…っ……はあ……」
 生き物みたいな舌が、僕のそれを追いかけてくる。息苦しい。胸が苦しい。何なのこれ、何が起こっているんだか、あの海の出来事がずっと頭にこびりついて、僕の頭はもう、いやらしいことしか考えられなくなっているとか?
 だって本物の陣内さんなら、こんなこと僕にしてくれないでしょう?きっと。ああ、なんて痛い夢。
「随分色っぽい表情をするね、静は。私の他に、誰かお見舞いに来た?その顔を、違う男にも見せたのかい?」
 僕の頬を両手で挟み込んで、唇が触れ合うか触れ合わないかの距離で、吐息をつくように陣内さんはそう僕に問いかける。何なんだろう、この人のこのエロさは。普段抑圧しているせいか、今のこの凄絶さといったらない。
 僕の妄想は、新しい陣内さんを生み出してしまったのだろうか…自分が終わってる。
「なに、いって…」
 夢なら早く醒めて。こんなの陣内さんじゃない、陣内さんはこんなこと言わない。しない。
「それは、後藤くん?嫉妬するね。彼は少し、静に対して遠慮がなさすぎる。君を自分のものだとでも、勘違いしているんじゃないか。何もされなかった?私が確認してあげよう」
 感じたのは、得体の知れない恐怖だった。
「や…!」
 熱っぽい視線を向けられて、僕は何も言えなくなった。親切?それとも、からかってるの?ただの冗談だとしたら、本当に陣内さんのセンスは最悪だ。後藤と僕が、何かあるわけない。
 僕は震えそうになる身体を落ち着かせようと必死で堪えながら、パジャマのボタンが外される音を聴く。恥ずかしさのあまり、目を開けていられない。ギュッと唇を噛むと、確かに感じる痛み。夢じゃない? 
 怖い。どうしようどうしよう、訳わかんない。何なの本当、誰か教えて―――
 
 その時トントン、という控えめなノックの音がして「静、電話だけど」。ドアの向こうで直兄が、僕に声をかけた。陣内さんはふと手を止めて、ベットから離れドアを振り返る。
 僕は、慌ててパジャマのボタンを留めた。夢と現実の狭間で僕は、何を言えばいいのかもわからず、ただ好きな人の名を呼ぶだけ。
「陣内さん!」
「お大事にね、静。図書室で待っているよ」
 いつも通りのどこか乾いているような、何の変化もない陣内さんの挨拶。何から何までが僕の妄想?この身体の震えは、本当に、陣内さんが僕にもたらしたもの?
「陣内さんっ!!」
 夢と、現実の区別がつかない。
 僕がそう叫んで身体を起こした時、陣内さんではなく真面目な顔をした直兄が横にいて、僕は脱力する。直兄はそんな僕を観察するように暫く眺めた後、無言で体温計を寄越した。自分は傍にあった林檎を剥き始め、なんだかいつもより神経質な雰囲気を醸し出しているから、僕は大人しく兄に従う。
 怒った直兄は、本当に怖い。僕、別に直兄を怒らせるようなことをした憶えはないんだけど。
「36度、7分。…熱、下がったみたい」
 掠れた声で報告する。直兄は、僕の言葉なんか聞いちゃいないみたいだった。
「静。静は、マサちゃんのことを好きなんじゃないのか?」
 男言葉だ。真面目な話をするつもりらしい。直兄のわかりやすさに、僕は気構え、好きじゃないよと返事をした。
「仲良いし友達だけど、それは恋愛感情じゃない」
「彼なら、静のことをきっと大事にしてくれるよ。俺は同性愛に偏見はないけど、年上の男は薦めない」
 …兄弟でこんな話、したくないんだけど。かといって、まあ、相談すべき相手もそういないわけで。
 僕はベットの脇に置いてあるペットボトルの清涼飲料水をごくりと飲んで、兄を伺った。
「何の話?」
「静、あの陣内って司書に…」
「じ、陣内さんはっ…!僕が、勝手に…あの人のことを、好きな…だけ、で……」 
 なんだかんだ言って、僕は直兄のことを嫌いじゃない。いざという時は頼りにしているし、いい男だと思っている。
 そんな兄からもし、陣内さんに対して良く思っていない発言を聞かされたら、…そんなの、僕は絶対に嫌だった。だから言葉を遮るように口を開き、我慢できずに嗚咽を漏らす。
 僕だって、陣内さんが何を考えているのかなんてわからない。もしかしたら、あの人は怖い人なのかもしれない。さっきの出来事も夢だったのか現実だったのかよくわからないし、確かめる勇気なんてない。怖い。泣きたい。
「ううっ、…ぐすっ……」
 普段ならともかく、今の僕は風邪によってとても弱っているのですごく泣きたくて、どうしようもなかった。一体何が悲しいんだか、泣いてスッキリしたいだけなのかもしれない。頭の中を空っぽにしたい。
「…ごめん。別に責めるつもりはないよ、静を。もう、ここには俺しかいないから。泣いていいよ」
「すっ、すっ、好きだけど怖かった…好きなのに…なん、でぇっ……」
 すとん、と言葉が出てきた。直兄に抱きしめてもらうと、小さい頃よくしてもらったみたいで、僕は落ち着く。素面なら絶対ありえないんだけど、今は緊急事態というか…誰かに、優しくしてもらいたい。
「もう大丈夫だから、静。熱にうなされて怖い夢を見ただけなんだよ、だから忘れていい」
「うん…うん……」
 そうだよ。僕はどうかしてる、陣内さんのことが信じられないなんて。
 好きな人のことが怖いだなんて、そんなの…おかしい、よね?そりゃあ時々、陣内さんは型にはまった司書、という部分とは違う側面を、僕に見せつけることはある。でも、こんな時に誤解されるような真似を、するような人だろうか?わからない。…全然、僕には陣内さんがわからない。
「お兄ちゃんの言うことが聞ける?ちゃんと忘れるんだよ」
「うん…大丈夫。直兄」
 そしてその言葉の通り、僕はちゃんとこの恐怖体験をきれいさっぱり、記憶の底へ閉じこめた。
 僕は素直ないい子なので、直兄の言いつけはちゃんと守る。忘れよう、全部忘れて…何もなかったことにして。
「寝つくまで、お兄ちゃんが一緒にいるから。目が覚めたら、お風呂で背中流してあげる」
「うん、わかった。おやすみなさい」


   ***


 翌日、僕は夏休みの図書室へ随分と久しぶり(なような気がする)に顔を出した。涼しくて落ち着いたこの場所は、今日も清々しく僕を迎えてくれる。僕は窓拭きを終え、感慨深く室内を眺めた。
「元気になったんだね、静。おはよう」
「…おはようございます、陣内さん」
 陣内さんは穏やかな笑顔を浮かべ、僕はたったそれだけのことに、ひどく安心するのだった。
「大丈夫?倉内。あんまり、無理しなくていいからね」
「ありがとうございます、金本先輩」
 ああ、やっぱりここの場所が一番好きだ。
「そうそう。陣内さん、昨日、誕生日だったんだって。歳聞いても、教えてくれなかったけど」
 おっさんだからだよ。小さい声で、金本先輩が悪戯っぽく呟く。
 今はその冗談に、どうしてだか笑う元気が出なかった。そう、陣内さんは大人の男なんだ…。
「誕生日…。もっと早く言ってくれていれば、僕…」
 知らなかった。事前に教えてもらっていればハンカチくらい、せめて用意できたのに。
 いつか僕は陣内さんから、ハンカチをもらって(というか、無理やり奪った)。そのお返しをできるチャンスを、ずっと待っている。誕生日なんてこれ以上ない、絶好の機会だったのに。
「いいんだよ。静には、もうプレゼントをもらったしね」
 陣内さんは意味深に告げると、司書室へ引きこもってしまった。
 プレゼント?僕があげられるわけがない。だって、誕生日が昨日だったことを、僕は今知ったばかりなんだから。陣内さんは、変なことを言う。
 金本先輩も妙だと思ったんだろう、不思議そうに首を傾げた。
「え?倉内は何をあげたの、プレゼントって」
 考えてみたけど、やっぱりそんな記憶はない。第一、僕は風邪で寝込んでいたからプレゼントなんて用意していない。陣内さんが、嘘をつくとも思わない。
「…憶えが、ないんですけど……。おかしいな」
「ふうん。まあ、おれもボールペンあたりでいいかな。今日、空いてたら一緒に選んでくれない?倉内」
「あ、いいですよ。…今日、久しぶりだからなんだか緊張します」
「何言ってんの。ここ、倉内の部屋みたいなものじゃないか」
「はは」
 僕たちの夏は、こうして終わりを告げた。
 それぞれの想いを抱えて迫り来る秋は、悩み深き季節になることも、まだ知らずに。


  2007.10.11


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