きっと、いつかは…



「君って、いつも、陣内さんのことを見ているよね」
 物静かに告げられた声に、倉内は一瞬言葉を失うと、赤くなりそうな頬を必死で堪えようと努力した後に、無理そうだとすぐに諦めると、俯いてせめて表情を隠そうとする。
 そう指摘したのは、毎日のように放課後現れる通称・眼鏡の岡江さん(借りていく本の著者が、岡江環という作家だから)で、恋愛にはまるで興味が無さそうな佇まいをしているし、考えもしなかった。
「好きですから…」
 ここは曖昧にぼかすよりも、正直に告白してそれ以上のツッコミを回避するしかない。
「俺もさ、君のことが好きなんだよね」
 低いままの声が、予報でも読み上げるように倉内へ届いた。
 倉内は顔を上げて、照れもしていない無表情の岡江さん(仮名)を呆然と見つめる。
「…ありがとうございます」
「どういたしまして」
 何か、聞き間違えたのかもしれないと思った。よりにもよって岡江さんが、自分のことを好きになるはずなんてない。絶対ない。
「岡江環って、面白いんですか?僕、読んだことがなくて」
 質問した声は上擦ってしまったけれど、なんとか話を誤魔化すことに倉内は成功する。
「著者はなんでも、高校生だっていう話だよ。これは新刊なんだけど、君に似ている人が出てた」
 岡江さんは鞄の中から薄い文庫本を取りだして、カウンターの上に置く。
「へえ、初耳です。読んでみようかな…」
「これ。あげるよ」
 恋愛仮面ゴルドラン、というタイトルからはとてもじゃないが、内容が予測できなかった。
(とりあえず、ゴルドランが僕に似ているっていうのは嫌かも。いや、内容もわかんないんだけどさ…) 
「いいんですか?ありがとうございます。帰ったら読みますね」
 倉内が本を受け取ると、岡江さんは僅かに微笑む。
「うん。…話は変わるんだけど、俺、転校することになったんだ。ここに来れるのも、今日が最後」
「…遠いんですか?」
「そうだね。だから、勇気を出して君に話しかけたよ。倉内さん」
 その言葉を聞いて、あ、本当に好かれているんだと思った。そういう意味で、想われているのだと。
「倉内さんが図書室にいるから、ここは俺にとって特別だった。素敵な思い出をありがとう。
 毎日ここに来るのが、楽しみだったよ。それじゃ、さようなら」
 別れは、呆気ないほどアッサリしたものだった。案外、そういうものなのだろうか。
「岡江さん。あの、お元気で!」
 倉内は思わずその愛称を呼んでしまったが、岡江さんは頷いて、静かに図書室を立ち去る。
 それが、二人の最初で最後だった。本を棚に戻していた金本が、カウンターへ戻ってくる。
「あ、玉置来てたんだね。知ってる?ここだけの話、あいつ小説書いて実際、本も出してるんだよ」
「え?」
 そんな話は初耳だ。もっとも、生徒の噂話になんて一切、興味のない倉内なのだし。
(言われてみれば、そういう雰囲気はあるかもしれない。なんだか、インテリっぽいっていうか)
 お堅い小説を書くのだろうか。小難しい詩であるかもしれない。想像がつかない。
「あれ、その本。その作家だよ、玉置のペンネーム。まだ、出てない新刊じゃないかな」
「こ、この、恋愛仮面ゴルドランがですか!?」
 強烈なタイトルと、岡江さんの印象が全くイコールにならない。
「転校するから、その餞別にプレゼントしてくれたんだろうね。ここを、気に入ってくれていたから」
 一人納得したような金本の隣りで、倉内はますます疑問符で頭をいっぱいにするのだった。
(大体。なんで、自分が書いた本を貸し出しする必要があるのかわからない…)
「静が読んだら、私に貸してもらえないだろうか?」
 突然想い人の声に我に返った倉内は、露骨に飛び上がってしまい、二人を苦笑させるのだった。
「わっ、陣内さん!…べ、別にかまわないですけど」
「何を動揺しているんだね」
「いえ…」
 どこから何を聞いていたのかなんて、どうせ答えてくれないのだから、尋ねたところで意味がない。
 奇抜な、まるで呪いのアイテムのような文庫本の表紙が、倉内の目にしっかりと焼き付く。
(どんな話なんだろう…?) 


   ***


 主人公は、恋愛仮面ゴルドラン。
 冴えない地味なサラリーマンの傍ら、恋に悩む人々を助け、時には励まし、幸せを運ぶ活動を行っている。その姿は滑稽であり、哀愁が漂っているようでもあり、応援したくなるような不思議な魅力があった。そんなゴルドランにも実は、片思いをしている少女がいた。青葉さん、という名字しか知らないが行きつけのカフェで、一目見るなりゴルドランは、青葉さんに惚れてしまったのだった。
 それからは、いっそう足繁くカフェに通う日々。ゴルドランの日常に、恋のトキメキとせつなさが訪れる。だが青葉さんはカフェのマスターに片思いをしており、そんな青葉さんに憧れている客もまた多い。
 ゴルドランは、そのカフェがあるだけで幸せだった。そこに青葉さんがいて、朝の始まりを特別な一日に変えてくれることがどれだけ素晴らしいかを知っていたし、振りまくような愛想はなくても、一生懸命な青葉さんに想いは募るばかりだった。
 そんな折り、二人の関係に転機がやってくる。
 紆余曲折を経、ゴルドランは仮面を捨てて、本来の人格である田中一郎として生きていこうと決意したのだ。人の幸せばかり眺めず、大好きな青葉さんに、自分の素直な気持ちを伝えようと。
「いらっしゃいませ。こんにちは」
 考えてみれば業務上の会話以外のものを、一切取ったことがなかった。
 青葉さんは、ゴルドランのことを何も知らない。そして、ゴルドラン…田中一郎は青葉さんの生真面目な性格と、とても一途にマスターのことを好きだということと、青葉さんにいれてもらった珈琲は格別だということくらいしか知らなかった。たったそれだけでも、青葉さんのことを好きになるには十分だ。
「ご注文は、何になさいますか?」
「青葉さん」
 初めて田中が名前を呼ぶと、一瞬きょとんとした表情になる青葉さん。
「僕の名前は、田中一郎というんです。きっといつか、あなたの恋が実りますように」
 気持ち悪いと想われても、何を言われているのか引かれたとしても、それだけが伝えたいことだった。この感情より何よりも、自分がここに存在しているということと、青葉さんの幸せを祈っているということを。カフェに足を踏み入れて顔を見てしまったら、当初予定していた言葉とは、違う展開になってしまったが。
「…田中さん。ありがとうございます」
 嘘でも営業スマイルでも、最早何でもかまわなかった。
 ゴルドランは大人の男であるのだし、泣くのは必死で我慢する。でも長くは持ちそうになかったので、何も飲まずにそのままカフェを後にした。
 もしかしたらもう二度とここには来ないかもしれないし、明日何事もなかったかのように行くかもしれないし。未来のことは、まだわからない。



   ***  


 恋愛仮面ゴルドランを読み終えた倉内は、ベットの中で不覚にも泣いてしまったのだった。
(別に、僕は大人の男なんかじゃないし。泣くのはまだ、許されるよね…)
 これは長い長い恋文のようなものだ、と思う。
 青葉という名のウエイトレスは、細かいところで倉内によく似ている描写がされていた。癖のない黒髪、生真面目。笑顔があまり得意ではない、エトセトラ…。それに、何よりもマスターが陣内にそっくりなのだ。
 紙面上の人物にドキドキしてしまうなんて、もう病気以外の何でもない。
「きっといつか、あなたの恋が実りますように」
 ぽつりと呟く。
 岡江さんがどういう想いでこの文章を打っていたのか、想像すると涙が零れて止まらない。
「きっと、いつかは…」
 岡江さん=恋愛仮面ゴルドランは、優しくて強い人だった。
 その気持ちは絶対に青葉さんにも届いたし、自分にも届いていると倉内は考える。心強い…。
(好きだよ、陣内さん。僕は、あなたのことがずっと)
 想うだけで幸せなんて、そんな時期はとっくの昔に過ぎてしまった。 
(でも、苦しいよ。…だから、苦しいの間違いかもしれないけど。それでも、好き)
 この気持ちは、ちゃんと伝わっているだろうか?
 伝わるまで何度でも何度でも、真摯な気持ちで、倉内は告白を繰り返すしかない。
 他に、方法を知らない。陣内が好きだ。それだけは何にも、誰にも絶対に負けない。

 気持ちを打ち明ければ、呆れて困ったような表情を返すつれないあの人が、全てだった。


  2007.06.18


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