第八夜「楽園」



 光の楽園に入信することは、本当に簡単だ。
 開かれた宗教と散々謳い文句にしているその方針は、来る者拒まず去る者追わず。熱心に、他人を誘うこともない。堂々としていて、政界や著名人芸能人、各種広告塔を取りそろえている。いつの頃からか身近になりすぎているその選択肢は、まるで着替えでもするかのようだ。興味さえあれば、誰にでも楽園の信徒になることができるのだ。
「あっちゃんには、相談していないんだけど」
 久しぶりに帰った家で、夕食の支度をする母に向かい丈太郎はそう声をかけた。学園が騒がしくなり、困り果てたその対策がこの強制帰省。丈太郎には、有難いものだったが。
 丈太郎は唐揚げの香ばしい匂いに、一つだけつまみ食いをする。
「俺、事情があって一度楽園に戻ろうと思うんだ」
 ポテトサラダを作る手が止まり、母は神妙な表情で丈太郎を振り向いた。丈太郎の両親は、楽園の元信者だ。自分と血の繋がった本当の両親が、誰でどこにいるのかは知らないし、興味もない。子供を欲しがっていた夫妻と丈太郎を、温が引き合わせた。二人は、すぐに丈太郎を受け入れてくれた。それは楽園との決別を意味したけれど、子供ができない辛さを楽園に求めた二人だったから…丈太郎は自由と、家族を手に入れることができたのだ。…温のおかげで。
「馬鹿ね、丈太郎。あなたの戻る場所はあそこじゃなく、この家でしょう。久しぶりに、帰ってきたと思ったら」
「ごめん。でも、ちゃんとこの家に帰ってくるよ」
「第一、教授がお許しにならないわ。…殺されるかもしれない。ちゃんとわかっているの?」
 丈太郎は、教授の実験体の中でも特に、教授のお気に入りだった。楽園を裏切った時…、教授の実の息子である温の犠牲なくしては、到底無事ではなかっただろう。
(確かに教授がこの事実を知ったら、俺はお咎めなし、というわけにはいかないだろう…)
 什宝会の任務なんて、ただの建前。自分は、あそこに戻らなければいけない。温はきっと、そこにいる。もしかしたら、行方不明の王崎も同じ場所にいるのかもしれない。
「大丈夫。母さんより先に、死んだりしないよ」
「当たり前でしょう!お母さんもお父さんも、そんなことは許しませんからね」
「…ああ」
 父は今、風呂に入っている。一緒に入るか?と笑いかけられたが男二人だと狭いので、さすがにそれは遠慮しておいた。
(俺たちは、本当の家族になれたのかな。…何だろうな?本当の家族って。俺は知らない)
 生まれた時のことは、憶えていない。自分の過去を辿ろうとしても、丈太郎は、自分の運命を見ることはできなかった。最初の世界の始まりは、一面の白。
「これだけ言っても、あなた少しも止める気はないんでしょう。勝手にしなさい。…でも、丈太郎がいなくなると寂しい思いをする人間がいることを、忘れては駄目よ」
 母はそう言うと、丈太郎を抱きしめてきた。安心するというよりは、なんだか妙にくすぐったいようなせつないような感覚を憶える。
「勿論、忘れないよ。それからさ、母さん…」
 一つ提案があるのだけれど、それを話すには色々な説明をしなければならない。何の相談も無しに、什宝会へ入ったこと。什宝会の活動内容、エトセトラ…。
(………周防さんは、話していいと言ったけど)
 什宝会と楽園は、どちらかといえば敵対していると表現していいのかもしれない。いや、什宝会の一方的な敵視だろうか?楽園側は今の段階で、相手にもしていないだろう。丈太郎の両親は楽園を離れているとはいえ、什宝会に対し、一体どういう感情を抱くのか?けれど、表向きは安息の地であるかのような楽園が、裏でどんなことをしているのか…この身をもって体感し、その現実を一番よくわかっているのは、丈太郎自身だ。
 何の気まぐれか今は見逃してくれているこの脆い幸せも、誰かの一言できっと簡単に崩れてしまう。什宝会が管理するマンションへ両親を引っ越させ、警護する。そう申し出た周防の言葉に、甘えるべきかどういう返事を返せばいいのか。ここのところ、丈太郎は悩んでいるのだった。そもそも什宝会は、丈太郎の情報をどれだけ把握しているのか…それが問題だ。矢代は丈太郎のことを真眼の持ち主だと、何となく気づいていたような節があった。それなのに、周防も正純も何も言ってこない。…自分から聞くわけにもいかないし、困ったものだ。
「私たちのことなら、気にすることはないわ」
「え?」
「…息子の考えそうなことくらい、わかるわよ」
 母は得意そうに笑って、それから真剣な表情になる。
「丈太郎、いい?あなたは普通の人とは違うの。これからも、きっと色々なことがあると思う。それでも確かに、私たちは家族だし、幸せな時間を過ごしたわ。よく憶えておきなさい」
「そういう言い方、やめてくれよ。母さん…。縁起が悪い」 
「何が起こっても、私たちはそれを受け入れる。決して、丈太郎を恨んだり嫌ったりはしない。それが最初に、あなたを引き取る条件だったのよ」
「母さん…」
「あなたの居る場所が、私たちの楽園なの。あなたは私たちに愛されているということを、忘れないで。丈太郎」
(…家族、か。信じてもいいのかもしれない。理屈で説明できない、絆みたいなものを)
 またこんな風に必ず、家族で食卓を囲む時が来ますように。そんな資格は自分にはないと思いながらも、丈太郎はそう願わずにはいられない。
「あら?ビールあと一本しかないのね。丈太郎、飲むでしょう?」
「俺は、お酒は飲まないよ。…わかった、ちょっと買ってくるから」
 物言いたげな視線に肩を竦ませる丈太郎に、母は嬉しそうに微笑む。
「適当におつまみも買ってきてね」
「行ってきまーす。ビールとつまみ、…っと」
 丈太郎はフリースを着込みつっかけを履いて、五千円を握りしめ家を出た。近くのコンビニまでは、徒歩五分といったところだろうか。ついでに、ファッション雑誌でも買っていこう。
 信号を渡り、コンビニの前まで歩いたところで…丈太郎は、突然の爆発音に振り返る。辺りが騒然となり、みな同じ方向に目を向けた。
「爆発…!?」
「だ、誰か通報してぇ!」
「…あそこ、御堂さんとこじゃない……」 
 何が起こっているのか、よくわからなかった。ほんの数分前、丈太郎がそこにいた場所は勢いよく業火を燃やしている。瞼を擦っても、現実は変わらない。
「うそ、だろ…?」 
 呆然とする、丈太郎の視界を炎が焼く。腰が抜けて触れた地面は、痛いくらい冷たいものだった。駆け寄ることすらできそうもない。どうひっくり返っても、父も母も助かったとは思えない。こんな、終わり方を…?
「何で?」
 理由を探したが、あいにく思考が停止している。頭が真っ白だった。
「誘いよ、あの男がっ!」
 女の悲鳴。
(誘い?)
 丈太郎は虚ろな視線を向け、猫背気味の小太りな中年男を認めた。罪を指摘された男は、慌てたようにブルブルと首を横に振る。見ただけで、普通ではないとすぐにわかる。
「ぼっ、ぼくはちがうよお!ぼくはわるくない!!あいつらは楽園を裏切った、死んで当然の人間なんだよお…。ぼくは誘いじゃないいいい」
 男は表情を引きつらせ、にたりと笑った。最低の笑顔で。
(死んで…当然だと?あの二人が)
 感じたこともないような冷えた怒りが、沸々と丈太郎の奥底に込み上げてくる。
(…何も、知らないくせに。どんな人間か知りもしないで、よくもそんなこと)
「いやあっ!来ないで!!誰かっ…」
 右手が熱い。禍々しい妖刀は、徐々にその呪われた姿を現す。丈太郎は、愛染の柄を強く握りしめた。今この身体を動かすのは、明確な殺意のみ。
「うるさいいいいいい!この豚女!ブッ殺してやるうううううう」
「いや―――――っ!!」
 叫んだ女の身体に、べったりとした血糊が張りついた。
「ひっ!」
「あ…あ……」
 失禁した女は丈太郎の最初の殺人を、その見開いた目に映す。
「死ぬのはお前だよ、楽園の信徒さん。俺が、地獄に連れてってやる」
 一閃。丈太郎には何の迷いも、躊躇いも必要なかった。誘いを浄化する気もなかった。ただ、殺してやりたいと思った。この男を、この手で。報復してやる。彼らが死んだのにこんな人間が生きているのは、赦せない。殺してやる、殺してやる!
「ひいいいいっ…」
 愛染は妖しい光を放ち、その刃を血で潤す。男はやがて動かなくなり、丈太郎はそれを見届けると、ゆっくり我が家だった場所へ歩いていく。
「っ……!」
 突如襲ってきた猛烈な吐き気に、丈太郎は唇を押さえた。愛染は、斬った人間の一部を吸収する。身体がさっきの男に対して、拒絶反応を起こしているのだ。いつの間にか指輪にその形を変えた呪いは、陰湿に丈太郎を蝕もうとする。
(………クソ!!)
 不快感にどうしても耐えきれず、丈太郎は地面に這いつくばった。惨めな気分だった。震える指が、砂を掴んでは隙間から零していく。…こんなに堪えるものだとは、知らなかった。
(俺は、武装警察に捕まるのか?什宝会の人間は、それとも罪を免除されるのか?)
 保身優先な近隣住民は、いつの間にか自分の家に引きこもり、野次馬は誰一人いない。人の死を目の当たりにした女が気を失っていたくらいで、静かなものだった。犯罪が横行しても身を守る術を持たない、臆病で弱い社会。…沸々とした、怒りが込み上げてくる。
(…おかしいだろ。何もかも、すべてがだ!)

 あなたの居る場所が、私たちの楽園なの。

 そんな風に微笑んでくれた人が、もういない。家族だからと許された我が侭、家族だからと叱りつけられた愛情…。すべては、二度と手に入らない。なんて儚くて愛しい日々。思い描く記憶が鮮明であればあるほど、現実の孤独感は強烈だ。
(あっちゃん…。会いたいよ)
 丈太郎は素直な気持ちで、そう思った。色んな理由なんかいらない、ただ今一番その顔が、その声が必要だった。
(どうしてるんだよ。元気なのか?…寂しいよ、あっちゃん)
 自分が認識していたよりずっと、どうやら家族を大切に想っていたのだと今更思い知らされて。だけどもう、何もかも遅い。手遅れだ。
(一緒に風呂くらい、入ってやればよかった。それで死んだって、あるいは幸せだったのかもしれない。もっといっぱい、親孝行しとけばよかった。どうでもいい話もいっぱいして、遠慮なんかするんじゃなかった)
(父さん母さん…温……)
(温…)
 温に抱かれたい。初めて生まれたその感情に、丈太郎は自分で赤面してしまった。
 何度か妄想で、王崎をその相手に選んだことはあるが…温に対してそんな感情を抱くこと自体、一生ないだろうと思っていた。求められたら差し出す。ただ、それだけのことだったはずなのに…。こんなに長い間会わないせいで、感覚が変になってしまったのかもしれない。悲しいこと、苛々したこと。その度に幼なじみはその身体で慰めてくれたから、ただの条件反射なのかもしれないけれども。…お手軽な、ストレス発散。ああ、自分が最低だ。
 車がすぐ傍で停車した音に、丈太郎はゆっくりと顔を上げる。
(っ!?)
「なに、悲しむことはない」 
 車から降り丈太郎の目の前に現れた男は、懐かしい面影を歪ませて笑った。
(まさか…!どうして、今更っ……)
「偽物は、この世にはいらない。君の家族は私であり、あの楽園の人々なのだから」
 少し年老いたが、その双眸に宿る暗い野望は昔と何ら変わらない。白衣に身を包んだ男、温の父であり「教授」と呼ばれ、楽園の実権を握る一人…伏見誉。両隣でSPが静かに、丈太郎へ拳銃を向けている。恐怖より、苛立ちが先に心を支配したのだが。
「変わらないね、君のその目は。ゾクゾクするよ…嬉しくてね。ずっと会いたかった。大丈夫、裏切りだなんて思っていない。私はこう見えて、とても寛大な人間でね」
 淡々と喋るその口調、何もかも温とは似て非なる男。昔から、丈太郎は教授のことが大嫌いだった。丈太郎は教授を睨みつけ、自分の感情を落ち着かせようと小さく息をする。
(教授が…いや楽園が、……二人を殺したのか)
 一体、何のために?今更自分を、あの場所へ連れ戻すために?天根矜持が逮捕され、形振り構わなくなってしまったのだろうか。こんな強引さは、天根は好まないはずだ。
「さすがの私も、あの時は本当に驚いた。自分の息子がまさか、研究の妨害をするなんて予想もしていなかったからねえ…。しかも一番のお気に入りをさらっていくとは、我が息子ながら目が高い。フフフ。でも、遊びはもう終わりだ」
「………」
 こんな男と会話をするのは、馬鹿らしい。幼い頃からコミュニケーションの一切を、丈太郎は楽園の研究員に対して放棄していた。研究員には丈太郎が何を認識し感じているのかすら、完全には把握できていなかったはずだ。
「君には、見えているんだろう?あの頃から一言も、君は言葉を発しなかったが…。それは自己防衛のための偽装で、本当は君にはすべてわかっていたんだ。そうだね?なんて聡い子だ」
「………」
 あの白い世界から解放されるための手段、それは失望と諦めなのだと。研究が失敗だとわかれば楽園は、丈太郎のことを手放す。ずっとそう、確信していたのだ。
 温は今、一体どうしているのだろう。こんなことを、温が賛同するとも丈太郎には思えない。伏見家の親子間の諍いは、昔から絶えなかったし丈太郎も、その原因の一つなのだが。
「気づかなかったよ…。私は、実に愚かだった!君の研究は失敗したとばかり誤解して、これだけの適格者を野放しにしておいたとは…。けれど、間違いは正すことができる。丈太郎、君は本来の場所へ、その能力を楽園に捧げるんだ」
「………」
 白い手袋を嵌めた手が、丈太郎の腕を掴む。教授には血が通っていない気がしたものだ、昔からこんな風に触れられる度に。振り払うことは簡単にできたが、この場で殺されては何にもならない。
(まだ死ねない。…ここで殺されてたまるか!)
 ならば丈太郎の選択肢は、たった一つしかなかった。
「丈太郎、君は未完成だ。君に教えなければいけないことが、沢山ある。君はまだ、本来の力を発揮できてないんだ。私と一緒に来なさい。全部教えてあげよう、ね?」
(…どうせ、楽園には行くつもりだったんだ。それが、どういう方法かの違いだけで。
 それに、この男についていけば間違いなく…楽園の中枢を探ることはできるだろう)
 丈太郎に抵抗の意志がないことを悟った教授は、嬉しそうに微笑んだ。
「そう、いいこだ。温にも、しばらく会っていないんだろう?このところ、楽園にこもっているからね。会わせてあげよう、ゆっくりと三人で話し合おうじゃないか。これからのことを」
「………」
「今度こそ、聴かせてもらう。君が、どんな声で啼くのかをねえ」
 すべての始まりの場所へ、帰る時が来た。
 一体何が起こっているのか、自分は何なのか。丈太郎は、知らなければいけない。
(王崎のことも、何か…わかるだろうか)
 その面影を思い出そうとすると、胸に鈍い痛みが走る。右手の薬指にも、だ。これが恋愛感情でなくて、一体何なのだろう。もう、何でも構わない。―――王崎が、無事でいてくれるのであれば。それ以上丈太郎が望むことは、何もなかった。
 車が発進する前に、丈太郎は思い出の場所を一度だけ振り向いた。炎が、空に舞い上がる。家族の絆まで塵になってしまいそうで、堪えきれずに涙が零れる。黙って、腫れた目尻を拭った。祈りを捧げようにも、何も言葉が浮かんでこない。
(…とにかく、今は寝よう。少し疲れた)
 ほんの少しだけ、何も考えず微睡みに身を委ねていたい。丈太郎は目を閉じて、ゆっくりと意識を手放した…。


   ***


 和ノ宮邸に呼び出された正純は、なかなか話を切りだそうとしない上司に苛々していた。
 什宝会の本部がある和ノ宮邸には、メンバーの何人かが生活を共にしている。何かの命令であったり仕事が忙しければ、正純もここで暮らすこともあった。仲間に「死神」と疎まれている正純にとって、この場所は苦痛でしかないのだけれど。
 大抵ここに呼び出される時は、大切な用事なのだ。それなのに応接室に通されたきり、周防はずっと冷めてしまったお茶をすすっているだけだ。
「僕も、そんなに、暇じゃないんだけど。何か用?」
 ついに痺れを切らした正純は、刺々しい口調でそう投げかける。
「丈太郎と連絡が取れん。楽園におるんは、間違いないと思うんやけど」
 だから何、と言わんばかりに正純はぽかんと口を開けた。
「用はそれだけ!?」
 自分で楽園に行けと言っておいて、その心配は過保護すぎではないか。呆れた。周防の煮え切らない態度は、今に始まったことではないが。その度に、本当に苛々する!こういう時は、本当は他にちゃんと言いたいことがあるのだ。…一体、何なんだろう?
「…まあまあ、正純。ちょっと落ち着いてほしいな〜」
 応接室のドアが開く。心なしか周防は、来客に表情を和らげたように見えた。
「副会長…。観月さんも」
 ゆとりはまだ若いが真眼の持ち主で、什宝会の副会長を務めている。そしてその側近である観月が控えめな笑顔を浮かべ、小さく正純に頭を下げた。真眼がどういうものなのか正確に知らないし、正純はゆとりがいると、何となく落ち着かない。
「ちょっと…本当に、何の用事なんですか?」
 正純の顔が引きつる。喰えない大人三人に囲まれて、良い気分なんてものじゃない。この居心地の悪さときたら、相当なものだ。
 話をきりだしたのは、周防ではなくゆとりの方だ。
「丈太郎くんのことなんだけどね」
「…御堂が何か?」
「君は、パートナーだから知っておかなければならないと思うから、言うけど」
「はあ」
 そう前置きをされてしまっては、聞かないわけにはいかないだろう。
「調べたら、彼は楽園の出身みたいでね」
「そんなこと、スカウトする前に調べがついてたんでしょう?今更、珍しくも…」
「前に調べた時は、それは出てこなかったんだ。上手く隠されていて、掴めなかった。どうしてだと思う?一体何がまずかったのか…」
「あの、言いたいことがあるならはっきり言ってください」
 何を聞かされたところで、矢代が死んだ時ほどのショックは絶対にない。それでもゆとりに告げられた事実に、正純は戸惑いを隠すことができなかった。
「丈太郎くんは、楽園の研究所で育ったみたいなんだよ。もしかしたら彼は、真眼の持ち主なのかもしれない。でもそれを、君すら知らなかった」
「研究所って…そんなもの、本当に実在するのかどうか」
 光の楽園に関する、黒い噂。どこまでがデタラメで本当のものなのか、噂が噂を呼びわからなくなっている。その中の一つに、能力者を開発する研究所のようなものが存在する、というものがあった。正純も耳にしたことがある、比較的ポピュラーな噂。それを本当だというのか、什宝会は。そして、丈太郎はそこに居たのだと。…確信もなく断言するには、あまりにも扱いづらい本件を?
「彼と連絡が取れない。愛染を手に入れた今、もし丈太郎くんが楽園を選んだらどうなる?」
「……………」
 そんなことを聞かれても、答えられない。
「什宝会にとって、脅威になる」
「…意味がわからないです」
 不愉快な感情を押し殺し、正純はそう呟いた。前からそうだ。什宝会の人間の、言っていることが時々本当にわからない。矢代以外の。損得でしか動いていないのではないか…誘いの浄化なんていうのは、建前で。そう思わざるをえない、こんなことが繰り返される度に。腹立たしい。…一緒に、いてやればよかった。そうしたら、こんな事態にはならなかったかもしれない。そう思うと、正純は少しだけ後悔した。
「丈太郎くんと連絡が途絶える直前、彼の実家が火事で全焼した。両親は死亡。犯人は、楽園の信者だ。犯人を殺した丈太郎くんは今、楽園にいる。幹部の人間に車で連れて行かれるのが、見えたからね」
「だから?」
「これは一体、どういうことなんだと思う?」
「…副会長にわからないことが、僕にわかるわけないじゃないですか」
 黙り込んだままの観月の視線が、どこか剣呑なものに変わった。主に忠実な隙のない従者に、正純は感情を隠しもせず苛立った一瞥を向ける。ようやく周防が口を開いて、二人の間に割って入った。どっちの味方か、頼りないったらありゃしない。
「もうええ、ゆとり。よう聞け、正純。丈太郎は俺が言ったように、什宝会の意志で楽園に戻ったんかもしれん。あるいは…」
「周防さんは、信用もできない部下にあんな仕事を頼んだの?」
 返事はなかった。周防は溜息をつくと、不機嫌な正純を宥めるようにそっと肩を撫でる。
「敵にまわった時は、お前か俺がやることになる。覚悟しときや」
「僕はやらないよ。御堂を信じる」
 それがパートナーとしてのあり方だと、正純は思った。あの丈太郎の誓いを、嘘だとは思わない。同じことをして矢代には、裏切られてしまったけれど…。後悔はない。
「…そうか。なら、俺が代わるだけや。呼び出して悪かったな」
「周防さんは、それでいいの?辛くないの?矢代さんの時だって…」
「あいつの話はするな!…余計なお世話や」
 絞り出すような声。
 矢代が生きていた間に、もっとこういう話し合いをしていればよかったと思う。すべてが遅い。…いや未だ、取り戻せる。正純は丈太郎のおかげで、何かが変わりそうな気がしていた。何が、かはわからないけれど。その期待を抱いているのはきっと自分だけではないと、周防をまっすぐに見つめる。丈太郎は、不思議な男だと思う。矢代が一体彼の何に惹かれたのかはわからない、でも…。
「大事なものを大事だって言えないの、苦しくない?」
「なら、言わせてもらうわ。正純、お前は什宝会を裏切るな。俺は、お前が大事やけん」
「なっ…!」
「…頼む。言いたいことは、それだけや」
 言いたいことだけ言っておいて、人の話は聞く耳を持たない。困った上司の悪い癖だ。周防は応接室を出ていってしまった、正純をおいて。丈太郎はきっと自分のところに、戻ってくる。約束したのだから…。正純に不思議と、不安はなかった。一度決めたら、あとはもう悩むだけ時間と気持ちの浪費だ。
「御堂は、必ず戻ってきます」

 確信を持って告げるその言葉が、離れていても届くようにと心から願った。


  2006.10.20


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