第六夜「知りたくなかった」



 丈太郎は、首を横に振る。
「思い出したくない。悪いが神津の事情にも、俺は興味がない」
 つまらない思い出を頭の外に追いやって、違う日常を歩もうとして十年が過ぎた。確かに、あの場所から逃げ出したはずなのに。今自分を取り巻くこの環境は…不思議なほどそこかしこに、楽園がついてまわる。
 そもそも丈太郎が楽園に連れ戻されない理由とは、楽園の関係者である温が傍で監視しているからだ。友情なのか違うのか…、悩むのもとうに飽きてしまった。少なくとも、丈太郎は温を大事な友達だと思っている。温の父親は研究者の中でも権威ある立場で、「教授」と呼ばれ皆、頭が上がらないようだった。いわば丈太郎は、楽園にとっては研究材料でしかない。実際そうだったし、色々なこともされてきた。
 その返答は、神津の期待したものではなかったらしい。
「あなたは自分の立場を放棄して、のうのうと幸せに暮らしている。私にはそれが時折、鼻について苛々するんですよ。御堂くんは、生きる目的を取り違えている」
 ―――楽園の存続と、繁栄のために。一般信者ではなく特殊な、幼い頃から楽園教育を施されてきた丈太郎たちに、込められた目的。好き嫌いなど関係ない。そういう風に、出来ているはずなのだ…本来ならば。
「俺は自分の、好きなように生きていきたい。それは、楽園とは関係ない。神津はどうなんだ?お前の意志を教えてくれ」
 これからがどうとか、昔がどうとか…考えたってキリがない。今をただ、選んでいくだけだ。ずっと丈太郎はそうしてきたし、そうしていくつもりだ。
「私は、王崎くんのために生き、王崎くんのために死にます。他に目的はありません」
「天根矜持ではなく?王崎充のため?どうして…」
 楽園の、絶対権力者である天根矜持。彼を敬愛し、信仰し、賛同することこそが信徒の条件。他にとって代わる存在など、何もないはず。丈太郎の反応に神津は哀れむような目を向けて、いっそう暗い声で言葉を繋いだ。
「同じようにプログラムされたはずの私たちが、何故こんな歪みを起こしているか…。本当に不思議です。あなただって、王崎くんを愛しているはずでしょう?いつも意識して、目で追ってしまっている」
「………」
「御堂くんもご存じでしょうが、」
 
「私たちに施されたプログラムの中の一つに、天根矜持の血を愛せというものがあります。あなたが王崎くんを意識するのは、彼が天根矜持の愛人の子供だからです」

 言われたことを何度か頭の中で繰り返し、丈太郎は神津を睨みつける。
(…今、)
 神津は溜息をつき、やれやれといった様子で首を横に振った。
「何…だって……?」
「私たちが、無条件で王崎くんに抱いてしまう感情。それは、恋などという甘いものではありません。そういう風に出来ているから、彼を意識する。そこに意味などありません」
「…だからお前は、」
(俺は、そん…な……!)
「私とあなたは、同じなんです。御堂くん。あなたは本来、こちら側の人間だ」

 憐憫を含んだ微笑は、いつの間にか丈太郎の前から消えていた。

 どれくらいその場に立ち尽くしていたのか、いつの間にか昼休みは終わっているようだった。無理やりに、唇を動かす。ひどい声を吐き出すと、現実感がいっそう丈太郎を苛んだ。
「…ハハ、何だそりゃ」
(冗談じゃない、納得ができてしまう…。俺が王崎に対して抱く、感情のすべてがだ!)
 笑おうとして顔が歪んだ。丈太郎は気力を無くし、その場に呆然と座り込む。膝を抱えた。
「否定できない…。できるわけない、こんな」
 こんな、滑稽な真相だったとは。王崎のことが気になって気になって、どうしようもない理由。そこに理由なんて、必要ないと思っていた。恋愛とはそういうものだからと一人納得して、勘違いして。…王崎に出会うまで誰にも抱いたことのなかった感情に、浸りきっていた。それまでは恋なんて、きっとできないと…そんな機能は自分に欠落しているのだと、諦めていたのに。間違いなく、彼を好きだった。今の、今までは確かに。与えられた情報に惑わされない心情など、あいにく持ち合わせては居ないだけで。
(馬鹿みたいだ、俺。どうして否定できない?これは恋だと…確信を持って、呼ぶことができない?王崎のことを好きなんだと)
 所詮は、片思いに過ぎなかった。好かれているかもしれないと自惚れた時もあるにせよ、思いこみの範疇を超えなかった。天根矜持の息子?そんなこと、知ろうともしなかった。知らなかった。知りたくなかった。劣情を抱くなんてとんでもない相手だったのだ、仕えるべきは…王崎充。王になるべくして、生まれた男。
(だからって、俺は…神津みたいにはなれない。なりたくない……)
 神津のことを羨ましいとも幸せそうだとも、丈太郎には感じられない。
(もの悲しいだけだ、あんな生き方)
 そういう自分ですら、どこまでも楽園に囚われてしまっている。ついて離れない。その影をちらつかせ、丈太郎を丸呑みにしようと機会を窺っているのだ。丈太郎が気を抜いた途端、あの白い闇の世界へ放り込まれてしまうような気がした。
(負けてたまるかよ。あんなところに、戻ってたまるか!)
 立ち上がろうとした足が、ふらつく。
「クソ…!」
 楽園のことを考えるといつも、身体に拒絶反応が起こる。だからなるべく関わらないように見ないように、遠ざけてきたつもりだったのに。意識がもうろうとし始め、丈太郎が目を閉じる前最後に感じたのは…自分を包むような温かい何かだった。


   ***


 前にも一度、同じことが起こったと矢代甲斐はぼんやりとした頭で思った。
 あれは、丈太郎が初めて愛染を使おうとした時だ。いつの間にか丈太郎の意識が消え、矢代は表に出てしまっていた。緊迫した事態だったから、考えるよりもまず身体が先に動いて…誘いを浄化して。誘いに襲われかけた顔見知りのみほこを護り、救急車を呼んで、何事もなかったかのように寮へ帰って。丈太郎の幼なじみに会った瞬間に、矢代の意識はそこで途絶えたのだけれども。自分の時はどうだったろうか、と思いを巡らせてみるのだが…愛染を手に入れ、最初は確かに酔うこともあったにせよ、他者に意識を取られるなんて一度もなかった。よっぽど波長が合っているのか、何なのか。
「…参ったな」
 幼なじみの温と会えば、また入れ替わることができるのかもしれない。以前のように。
 それなのに、こういう時に限って肝心の頼みの綱は、姿が見えない。どうやら、出かけているらしい。一刻も早く、丈太郎に意識を返してあげなければ。
「………」
 そう思ってはみるものの、何の策も思いつかない。こんな時いつも決まって、矢代の取る行動は同じなのだった。 

 洋菓子店〈ディレット〉。丈太郎の姿をした矢代は、神妙な面持ちで手慣れたドアをくぐりぬける。久しぶりすぎて、緊張する。
「いらっしゃいませ〜」
 何も変わった様子のないみほこに、なんだか嬉しくなってしまった。
「みほこちゃん!元気だった!?」
「こんにちは!丈太郎くんが来てくれたし、元気だよ〜。ふふ、どうしたの?急に」 
「ああいや、元気ならいいんだ。よかった…」
「?」
 女の子だし、誘いに襲われた後遺症が残ったりしたら大変だと…ずっと気になっていた。何事もないのなら、矢代があの時取った行動も報われるというものだ。
「おれ、珈琲と抹茶パフェ一つね。食後に、ショートケーキ持ってきてくれるかな」
 『そんなの、食後のデザートって言わない』と、何度も正純に呆れられた定番メニュー。矢代のリクエストに、みほこは何故か黙り込んでしまった。
「………」
「みほこちゃん?」
「あ、ううん。前にいた常連さんでね、そういう頼み方する人いたなって思って。元気にしてるのかな〜。毎日のように来てたから、今はちょっとだけ寂しいんだ」
「………」
 もうそんな人間はいないよと、その本人が考える自体矛盾している。
「それじゃあ、待っててね」
 みほこの後ろ姿を見送り、矢代は目を閉じた。すぐに、注文の品が運ばれてくる。暫く何も考えずに、甘い喉越しを堪能した。こんな甘美な瞬間をプレゼントしてくれた丈太郎に、不謹慎にも感謝を感じて眉をひそめる。もう死んでもいいくらいだ、実際死んでいるのだけど。
 そんな甘い幸せに包まれた矢代の思考を、一瞬で聞き覚えのある声が粉砕したのだった…。
「お、丈太郎!グッドタイミングや〜。丁度、紹介したい奴がおってな…」
「わっ!?」
 かつての同僚と呼ぶには、あまりにも近かった存在の奇襲に矢代は目を丸くする。周防はその反応に、満面の笑みでデコピンの追い打ちをかけた。
「そんなに驚くことないやろ?一週間の半分以上は、ここで同じ時間を過ごす仲やんか。お前の行動パターンくらい、とっくの昔にお見通しや。今日は什宝会のおえらいさん、連れてきたで。ずっと会わせたいと思っとって…」
「!」
 咄嗟に、言葉が出てこなかった。よりにもよって、一番厄介な…周防の紹介したい相手とは、什宝会の副会長・和ノ宮ゆとり。什宝会で唯一の、真眼の持ち主。そのゆとりが、周防の後ろであんぐり口を開けているのだ。彼は、丈太郎を見ていない。何に驚いているのか?そんなの、確認するまでもない。
 ―――まずい。 
 ゆとりは周防を押しのけると、混乱しきった表情で矢継ぎ早に疑問を口にした。
「甲斐、何でこんなとこいんの!?死んだんじゃなかったっけ?どこにいんの、その、新人の御堂丈太郎って高校生は。ねえ、広大!」
 やはり、矢代の思った通りだった。真眼の持ち主であるゆとりには、今の丈太郎は、矢代にしか見えないのだろう。真眼というフィルターは、時折こういう常人との間にズレを起こす。
「……………」
「ゆとり、そういう新人のからかい方は正直どうかと思うで?俺も、人のこと言えんけどな」
 周防が、溜息混じりに呟く。
「俺の目には、甲斐に見えるんだけど?ね、甲斐だよね」
「……………」
「丈太郎。こんな、悪質な冗談につきあってやらんでもええで。いくらノリがええからって」
「広大、ゆとりの言ってることは間違ってない。今こうして喋ってるのは、丈太郎くんではなくて…矢代甲斐だよ。どういうわけか」
 矢代は観念して、周防とゆとりを交互に見ながら告白した。その穏やかな口調と物腰を、誰よりよく知っていたのは周防だったから…
「…お前、何でここにおんねん……」
 疑いはどこかに消え失せて、か細い質問が漏れる。
「丈太郎くんの意識が離れてしまったから、おれが出てきてしまったみたいなんだ」
「で、一人でのんびり抹茶パフェか…。ホンマに苛々するくらい、死んでも相変わらずな男や。はよ丈太郎に返してやれ、それはお前の器やない。大人しく死んどけ!」
 想像以上に、この友人は矢代の行いに思うところがあるらしい。まったく自業自得な展開だが、もう少し言い方はないのだろうかと矢代は苦笑した。
「…あーあー。広大ってば甲斐が居なくなってから、ずっとこんな感じなんだよ〜。本当は色々、言いたいことがあるくせにねえ。素直じゃないんだから」
「るさい、お前のことなんか知るか。クソッ…」
 周防は矢代から視線を逸らし、頭を抱えてしまった。
「僕一応、会長に報告してくる。広大、後ヨロシク!」
 変な気を利かせ、帰ろうとするゆとりの腕を周防が掴む。
「馬鹿、一人で出歩くな。俺が会長に怒られる。今、観月に連絡取るけん…」
 真眼という存在は、什宝会にとって貴重極まりない。万が一事件に巻き込まれて、真眼を失うのは絶対に避けたいのだ。だから、ゆとりはいつも誰かしらと、一緒に行動することになっているのだが。
「ハイハイ、観月には僕が連絡するから。じゃあね〜」
 そう言われてしまっては、これ以上しつこく引き留めるわけにもいかない。…結局、二人きり取り残されてしまった。言いたいことが沢山ありすぎて、それは殆ど文句ばかりなのに、いざとなると言葉が出てこない。気まずい沈黙。そう思っているのは自分だけかもしれないと、周防はますます嫌な気分になった。
「………」
「…広大も、ケーキ食べる?」
 ショートケーキを差し出してくる目の前の男は、丈太郎にしか見えないというのに…。その振る舞いは、懐かしさに痛みを憶えるほど自分の中に刻まれたものだ。何も言えず、周防は首を横に振る。
「まさか、この場所で広大に会うと思わなかった。
 それにさっきの話だと、丈太郎くんは今でもよく、ここに来ているみたいだね」
「もう喋るな。その顔で、その声で…止めてくれ。忘れられんなったら、どう責任取るつもりや!俺が……必死で割り切ろうとしとるもんを、」
「でも一応、事情だけは説明しないと。正純を呼ぶわけにもいかないし」
 随分女々しい頼みになってしまったが、矢代は相変わらずのマイペースな返事をする。
「一番大事は、正純ってか?友人にはどれだけ迷惑かけても、お前は気にならんらしいな」
 そんな矢代の態度に、周防は本当に苛々した。別に自分を優先しろとか、そんなアホらしい独占欲があるわけじゃない。もう少しオブラートに包んで心情を打ち明けてくれれば、こんなにも傷つかなくて済むのに。
「聞きたくない、か。そうだよな。広大にも正純にも、おれはいつも迷惑ばかりかけてた」
「別に甲斐がどうなろうと、どういう気持ちやろうと俺には関係ない話や。けど、お前の取った行動のすべてが俺にはむかついてたまらん。未だに赦せそうもない」
 本人以外に、吐露することなど到底できないこの腹立たしさ。
「赦してもらおうなんて、思ってないから」
「ホンマむかつくわ…。お前はいっつもそうや、この自己完結無神経男!」
 無性に殴りたい衝動にかられ、周防は矢代の…正確には丈太郎の襟元をひっ掴んだ。こうなったら、実力行使で元の人格に戻ってもらわないと。自分の方が保たない。矢代の視線が後ろに逸れた気がして振り返ると、周防が呼んだ正純が立っていた。 数分前の自分の行動に、周防はなんだか頭痛がしてくる。
 矢代が死んでから丈太郎は、週の半分以上はこの店で油を売っている。二人でゆとりに会わせようと思って、正純にはあらかじめ連絡を入れておいたのだ。一応役職を与えられている周防はともかく、普通のメンバーがいつでも会える人間じゃない。その判断が、裏目に出た。…面倒くさいことになった。
「ちょっと、何やってんの?二人とも。やめてよ、店内で。副会長は?」
 正純の第一声は、そんな呆れた声音だった。
「おらん。悪いが、今日は帰ってくれんか?正純、取り込み中や」
「ハア、何それ!?自分で呼んでおいて…」
 どう思われても、構わない。この男が今矢代なのだと、絶対に気づかれるわけにはいかない。矢代が抱いていた感情を…正純に知られるわけには、いかないのだ。友人が残した物騒な心配の種は、何が何でも責任を持って、守り通すことを決めたのだから。悪いのは全部無責任な男の方で、前途明るいこの少年には、何の非もない。
 周防の気も知らず、矢代はただ、目の前に現れた奇跡に瞠目した。
「正純…」
 矢代が囁くように呼んだ名前の意味を、正純は何も知らない。矢代は無意識のうちに、微笑んでしまっていた。…本当に、丈太郎に感謝しなければ。たとえ伝わることがなくても、お互いにその感情が、どこも交わるところがなくても。状況をせめて周防に説明しようと思っていたのに、目的なんてどうでもよくなってしまった。こういう性格を、いつも周防と正純にはぼやかれたものだ。守りたいものは一番近くにある…昔から、変わらずに。それが、矢代にはありがたかった。すべての心配を消化した途端、矢代の意識が急速に遠のいていく。
「え?何、どうしたの?顔色悪いよ、…御堂?」
「正純、コイツは―――っ!?」
 突然矢代の力が抜けて、周防の手にだらりとその身体が寄りかかった。
「…う……」
 丈太郎の唇から、眠りから覚めたような声がする。注意深くその顔を睨みつけ、間違えることのないように周防は静かに問いかけた。
「…お前は、どっちや」

(何だ?)
(何が起こってる?)
(誰かが俺を呼んでる?ここは…一体……)
(俺は、学校に居たはずじゃ……)

 記憶を思い出そうとすると、頭痛がしてそれを阻んだ。丈太郎はゆっくりと目を開けて、心配そうに自分を窺う二人に気づく。
(どうして店に?…訳が、わからない)
 息を吸い込む。丈太郎と目が合うと、周防はようやく握りしめていた指の力を解いた。丈太郎は状況を把握しようとしたが、朧気な意識は明確にならないまま、霧のように散る。
「何が、ど…なって……。周防、さん?白鳥…?」
「自分のことがわかるか?お前。名前、言えるか?」
「え?名前…、御堂丈太郎」
 どうして突然、そんなことを聞くのだろうか。わからない。…わからないこと、ばかりだった。前にも一度、こういうことがあった気がする。あれは確か、初めて愛染を使った時だ。気がついたら意識がなくなって、目が覚めた時には温がいた。
「そうか。…悪いが俺はもう、帰らせてもらうわ。正純、何も言わんと丈太郎を寮まで送ってくれんか?あらかじめ言っておくけど、何か聞かれても俺は何も答える気はない」
 どことなく疲れた様子で、周防はさっさと居なくなってしまった。 
「…ホント、毎度勝手な男だよ。御堂、帰ろうか」
 店に来たばかりの正純は、周防の行動には慣れているせいで特に気にした素振りも見せず、そう丈太郎を促した。
「なんか、胸焼けする…」
「大丈夫?」
 軽く頷き、テーブルの上にある伝票に丈太郎は目を通す。
「抹茶パフェに、ショートケーキ…。それに珈琲?これって……」
「その取り合わせは、僕も何となく知ってる気がする」
 お互いはっきりとは口にしなかったけれど、多分同じことを考えていた。いくらなんでも、丈太郎自身がこの量を食べようと思うはずがない。懸念を言葉にすることができなかったのは、言霊が本当になってしまいそうで怖かったから。また頭痛がして、それを振り切るように丈太郎は立ち上がった。
「…駄目だ。頭が痛い、帰ろう」
「………そうだね」
 身に覚えのない勘定を支払い、冷たい道中を二人で歩いた。早く、春が来ればいい。こんな寒い季節が終われば、何もかも変わってくれるような気がする。丈太郎は、茫洋とした記憶をゆっくりと辿っていく。

(確か俺は、神津と楽園の話をしていて…)
(そうだ。俺は、王崎のことを聞いた)
(それからのことは、記憶がない…。わからない)

「なんか、妙だね。御堂もだけど…周防さんの様子、おかしかった」
「…あの人は、いつもおかしいよ」
 丈太郎は、そう返事をした。周防はいつも、自分だけのルールで動く男だ。そこに何らかの規則性はある気がするのに、わからないから振り回されて疲れてしまう。そういうところも、丈太郎はやっぱり苦手だなんて思ったりする。
「まあね。でも…、アレで結構頑張ってるから」
「頑張ってる?」
「一応は、僕たちのことを考えてくれてる。わかりにくいし伝わりにくいんだけど、それでもね。突然僕と御堂を残されて、守らなきゃいけないって義務感で必死なんだよ、あの人。矢代さんが死んで一番ショックだったのは…本当は、周防さんなんじゃないかな。想像だけど」
「…え……」
 丈太郎には、そんな風には見えなかった。とはいっても元々、矢代が死んでからのつきあいだ。周防が矢代の生前どんな性格だったかなど、丈太郎の知るところではない。
「御堂はどうか知らないけど、少なくとも僕は、いつまでも過去に囚われるつもりはない。僕は、矢代さんのことが好きだった。それは確かだけど、これからもずっとその感情に拘ったりしないよ」
「……………」
「はっきりと聞いたことはないけど、周防さんもきっと…矢代さんのことを」
「まさか」
(周防さんまで…、矢代さんのことを?)
「見てればわかるよ。矢代さんが好きになったのは、結局僕たちのどちらでもなかったけど。御堂の気持ちには、矢代さん、ちゃんと応えてくれたんだろう?」
「…ごめん。その話は」
(もし、そうなんだとしたら。一体、どういう気持ちで周防さんは俺を…)
 矢代の想い人が正純だということは、周防も知っている。どうしようもなくなってしまった結果、矢代が選んだのは…一番近くにいた周防ではなく、丈太郎だった。お互いのタイミングが合致して、こんなことになってしまった。周防は、どう思っているのだろう。 
「僕たちは、パートナーなのにお互いのことを何も知らないね」
「…他のことなら、何でも話すよ」
 必要とあらば、自分の秘密でも。何でも。ただ、矢代の秘密だけはやっぱりまだ…口にするわけにはいかなかった。
「知らなくたって、パートナーでいることは可能だから」 
 正純の言葉は一貫して、素っ気ない。
(白鳥は、まだ…俺のことを、憎んだままなのかもしれない)
「ここでいい?じゃあ、また」
 寮の前で足を止めると、正純は直ぐに去ろうとする。ちゃんと想像力を働かせれば、どういう心理状態かなんて丈太郎にも理解できる。それでも、寂しいと思ってしまった。この距離を変えたいと、その隣りに並びたいと…願ってしまった。憎まれるのは仕方がないと、割り切っていたつもりだったのに。嫌だと、今。
「白鳥…」
「何?」
「俺と、友達になってくれないかな」
 パートナーだと言われても、未だお互いの間に信頼感は存在しない。簡単に崩れてしまいそうな契約を危惧して、それにその願いは丈太郎の素直な気持ちだった―――丈太郎は、真面目にそんな本音を告げる。
「…友達?御堂と、僕が?笑わせないでよ。僕が御堂をどう思っているか、もう忘れたの」
 正純は馬鹿にしたように眉を上げ、踵を返した。
「勘違いしないでほしいんだけど。僕は、上からの命令に従っているだけだ」
「そっか…。俺は、いつか白鳥の隣りに立てる人間になりたいと思うよ」
(今はこれだけでも、伝えられて良かった)
 言葉にしなければ、何も伝わらない。気持ちを伝えることの大切さを、丈太郎はよく考える。…矢代が死んでから、特に。いつか正純と二人で、笑って話せる日が来るといい。色んなことを。丈太郎はそう、願わずにはいられなかった。

 聞いているこっちが恥ずかしい決意表明に、正純は黙ったまま目を閉じる。きつく唇を噛んで表情を曇らせても、背中を向けているから、どうせ丈太郎には見えない。丈太郎がもっと嫌な性格をしてくれていたら…、せめて矢代の好きな人でなかったら…妙な意地を張らず、正純が卑屈にならなくて済むというのに。
 丈太郎がどういう人となりをしているかなんて、正純には興味がなかった。知りたくなかった。―――今は未だ、

 これから先のことなんて、どうなるかわからないけれど。


  2006.07.25


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