第五夜「目に見えるもの」



 光の楽園・東京本部。一見豪華ホテルにしか見えないその施設の、プライベートルームで温は溜息を殺した。なにしろ、気分が悪い。
「ねえ、温クン。抱いてよ」
「優様…」
 甘えた仕草で温にしなだれかかるのは、天根優。楽園の絶対的な支配者・天根矜持の息子であり、その寵愛を受ける人間だ。温より三つ年下だが、その甘えぶりは年を疑う。
 温の父親は、楽園の研究員だ。幹部の役員ともいえる。その研究の成果を買われ、息子である温も、一般の信者とは別格の扱いを受けている。楽園の活動自体には、さほど興味はなかった。生まれた時から自分を決めてきた環境に、文句をつける気もない。親の研究を継ぐ意志はない。ただ、自分の立ち位置だけは利用価値がある。…利用、してやる。頭も良かった温は、恵まれた環境と、自分のするべきことをよく理解していたのだ。
「温クン、聞いてるぅ?」
 何を気に入ったのか知らないが、優は初めて会った時から、温にべったりだった。気がつけば、望みもしないお守り役を押しつけられている。気まぐれな呼び出しは、最近特に回数が多くなった気がした。理由は、温にもわかっている。優の父親である天根矜持の、逮捕騒動が持ち上がっているからだ。テレビは連日、天根矜持の虚像を暴く、くだらないスキャンダルに夢中になっている。きっと優も不安で、誰かに傍にいてほしいのだろう。とりわけ、温に。
「…わかりました」
 性欲の強さは数々の浮き名を流す、父親譲りなのだろうか。どうでもいいことに苦笑する温に、熱い唇が押しつけられた。本当は、優を抱くのはあまり好きじゃない。優の顔は、温の大嫌いな人間に雰囲気が似ているのだ。…連想させる。
「優様、目を閉じてください」
 別人だとわかっているのに、どうしても姿がダブる。
「フフ…。ねぇ、温クン。二人で、楽園を手に入れようよ」
 光の楽園なんて名称は、おこがましいにも程がある。暗い、闇の中の掃き溜め。真実なんてそんなもので、虚構の方が美しかったりするものだ。
「セックスの時は、楽園の話はしない。優様、あなたが決めたことですよ。もしかしてルールを犯して、俺にお仕置きされたいんですか?」
「っ……」
 温が耳元で囁くだけで、簡単に反応を示す優の身体。
 出会う順番が違っていれば、もしかしたら、もう少し優しくすることができたかもしれない。誰にでも優しくできるほど温は慈悲深くもなく、優先順位だけは明確なのだから。
「今から俺に抱かれるって期待感だけで、もうこんなにして…。俺のチンコが、そんなに好きですか?優様」
「…温ク…」
 気持ち良さそうに喘ぐ表情を見ると、本当に苛々してしまう。別人だと、彼とは違うと何度強く言い聞かせても…。憎悪が募る。この嗜虐心は本当は、別の対象に向けられているものだ。なのに、止めることができない。
「俺は、質問しているんですよ。答えられないなら、今日はバイブで我慢してください」
「ひどっ…」
「別に俺は、優様のオナニー鑑賞会でも一向に構わないんですよ。誰か呼びますか?きっとみんな、俺の代わりにあなたのケツに突っ込んでくれますよ」
 冷たい視線を向けられて、品のいい顔が涙に濡れる。泣いて許しを請われる度に、温の後ろ暗い感情は、ほんの少し満たされる気がした。
「嫌!温クンがいいっ…温クン…。ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「謝罪はいいから、四つんばいになってもらえますか?むこうを向いて。そう、犬みたいに。俺、あなたの泣き顔は見たくないんです。ね、優様…。自分で脚を広げて、どこに挿れたらいいのか教えてもらえます?」
「お、お尻…お尻の穴っ……」
「よくできました」
 どうしてこんな馬鹿みたいな命令に、従うのか。純粋な疑問。愛と呼ぶにはあまりにも、未発達なこの関係に。温は無表情で、起動させたバイブを優の尻に突っ込んだ。何の前戯もなく、不意に犯された痛みに優の顔が苦痛に歪む。悲鳴が上がった。
「ああっ!」
「このバイブ、どうやらお気に召したようですね。すんなり入ってしまいましたよ」
「うう、う…っ…は……」
 何の抵抗もなく、優の身体は淫らな玩具を受け入れる。いやらしい涎を垂らしながら、バイブをしっかりと吸いついて離さない。
「気持ちいいでしょう、優様?」
「アッ…ひぁ…ああ!」
 優しく持ち手を揺らしてやる。最初に抱いてほしいと言われた時、優は自ら、ぞんざいな扱いを望んだ。普段周りから甘やかされてばかりいる反動なのか、痛めつけられるのが気持ち良いのだと温には到底理解できない性癖を、教えてくれたのだ。それに便乗する自分も自分だとは思うが、こんな時間も性欲処理と、憂さ晴らしには役に立つ。
「聞こえませんでしたか?」
「あ、ああっ、や…!いっ、イイです…きもちいいです…ッ」
 優は女のような甘い悲鳴混じりの、温が羨ましくなるほど気持ち良さそうな返事をした。
「優様のそういう淫乱なところ、嫌いじゃないですよ」
「好きに、なって…ほし……」
 懇願する声音。好きになど…なれるものか。憎みきれないといった表現の方が、温には正しいくらいだ。ただ、感情とは別の部分で可哀相だとは思う。優には、同情する。
 温は笑って、バイブを深く押し込んでみたり、ゆっくりと引き抜こうとしてみたり、気まぐれにそれで中を掻き回してみたりした。
「ボクッ…あ、んぅ…あ、まっ、待っ……そんなにされ、たら…アッ!」
 これで終わりはつまらない。お仕置きにならない。温は、バイブから手を離した。
「優様を見ていたら、俺も興奮してきてしまいました…。ほら、今度は仰向けになって。ご褒美ですよ」
 温はスラックスのジッパーを下げ、勃起したペニスをだらしなく開いた優の口の中へ挿入する。柔らかい髪を掴んで、腰へと押しつけてやった。
「ん、ぐ…」
「もっと、奥まで銜えて。…ん、そう……イイ…です、よ」
 ピストンを始めると、優は苦しそうに涙を零しながら、懸命に奉仕した。バイブのスピードをリモコンで上げると、驚いた優の唇からペニスが離れそうになり、腰を無理やり押し込んでやる。この征服感。
「……んん…っ…っは…うぅぅ…」
「すごい眺めですね、優様。こんな姿を他の信者に見られたら、どう思うでしょうか?いっぱいお汁を零して…誰が掃除すると思ってるんです?恥ずかしい人」
 乳首を引っ掻いてやると、敏感に感じる優はもう堪らないようで、身悶えした。
「…ぁむ……んっ、んっ」
「イキたくてイキたくて、たまらないみたいですね。いいですよ」
 温が口の中に思いきり出してやると、優は飲み込みきれない精液を吐きだして、自身の快楽に痙攣する。もうそこには、本能しかなかった。

 誰にでも愛されるのが当然で、その中心に澄まし顔で君臨するあの男。そのくせ極度の潔癖性で、自分ばかりが綺麗だとでも言いたいのか…。見ていて苛々する。その気高さを散々嬲って踏みにじって、滅茶苦茶に蹂躙してやりたくなる。そう、たとえば…こんな風にだ。

 温はただ冷めた目で、吐精する優を観察していた。


   ***


 何かが自分を呼んだような気がして、王崎は辺りを見回す。目に留まったのは、中庭に積もりかけた汚れた雪だけだ。他には、誰の姿もない。今は昼休みだったが、全校集会で生徒教師の殆どは、体育館に集まっている。
 うろうろと校舎の中を徘徊していた王崎は、何度目かしれない溜息をついた。人混みが嫌いだから、わざとこんな静かな時間を選んだのに。誰かの自分に向けられた悪口が、聞こえたような気がして耳を塞ぐ。疲労感に、渡り廊下の壁際に無造作に腰かけた。根付いてしまいそうだ、このまま。
 クラスメイトが、何人も姿を消した。その原因を突きとめるとは言ったものの…全く手がかりがない。彼らは全員、王崎の取り巻きだった者たちだ。自分にも何か原因があるのか、一体何なのか…全然見当がつかない。いや、一つだけ心当たりはあるのだ。ただ、それがどうしてこんな事件に繋がるのか、わからない。
「?」
 静かにこちらへと近づいてくる足音に、王崎はゆっくりと顔を上げる。あまり笑顔が得意でない友人は、王崎と目が合うとぎこちなく唇を歪ませた。それが彼なりの笑顔だと、知ってはいるのだが。 
「お、王崎くん…。探しましたよ、こ、こんなところに居たのですか」
「仁」
 周りの人間がどう思っているかなど興味もないが、神津は自分の取り巻きではない。友人だと思いたい。一人くらい、気の許せる友が居てもいい。王崎はそんなことを考え、僅かに苦笑した。素直な気持ちを口にしたところで、この男は驚くだけだ。
「…何か、ありました…か?す、す少し顔色が優れないようです」
「いや」
 嬉しくなってしまう自分は、甘ったれだと思われてもしょうがないだろう。幼い頃から周りが王崎を甘やかすから、なるべく自分で自分にだけは厳しく生きようとしてきた。甘えるのでなくただ、神津が差し伸べてくれた手なら、迷わず掴める気がするのだ。何故だろう?卑屈に謎めいてみえて、その実純粋なところが、気に入っているのかもしれない。
「……あ、あのう。差し出がましいかも、しれないですが。探偵ごっこは、ああまり感心し、しません」
「心配してくれてるのか?ありがとう、仁。お前に、迷惑はかけないから」
「私は、そ、そんなことを言っているのでは…!」
 神津が困った表情で、言葉を詰まらせる。
「悪いな。オレの気が済まないんだ、どうしても。このまま放っておく訳にはいかない」
「あなたに何かあったら、私は…。私たちは……!」
 思わず腕を強く掴まれて、王崎は身体中を強張らせた。もはや条件反射としか、言いようがない。タブーに触れたと気づいた神津が、慌てて顔を青くする。そして、力無く項垂れた。王崎の潔癖性は、周知の事実。何よりそれを、神津がよく理解しているはずなのに。
「申し訳ありません!お、王崎くん…」
「…別に。仁になら、触れられてもどうということはないさ」
 我ながら気障っぽい物言いだと思わなくもないが、王崎の正直な気持ちだった。

『仁になら、触れられてもどうということはないさ』

 仁になら。 

 何度も何度も同じ台詞が、神津の頭をかけめぐる。
「………」
 神津は予想もしなかった言葉に、今度は頬を赤らめ、震える手で顔を隠した。ここが学校でなかったなら、…跪いて、王崎の足先に口づけるくらいしたかもしれない。一言でいうなら、歓喜。いや、他に表現できない。
「泣かないでくれ。男の涙は鬱陶しい」
 穏やかにほほえむ王崎の、端麗な笑顔が滲む。
「王崎くん」
「ん?」
「あなたは、私のすべてです」
「…仁は、本当に馬鹿だな。もう、聞き飽きた」
 神津が真実を口にする度、どれだけ胸がせつなくなるか。苦しさに、押し潰されそうになるのか。王崎は知らない。知らなくていい。目が、灼けるように眩しい。王崎の光が強すぎて、真っ直ぐに見ることができない。隣にいる自分が、そうして光に消されるのも悪くないと…神津は思うのだ。その光で、浄化してほしい。灼き焦がして、そのきれいな手の中の灰になってしまえたらいい。
「どうかしたのか、仁?また、妄想の世界にトリップしてるのか」
 王崎の呆れた声でさえ、神津にはひどく心地良い。
「あなたは美しい」
 譫言のような声が漏れた。
「………仁?今から殴って、正気を取り戻させていいか?」
「あなたが私に向けた行動のすべてを、私は受け入れるだけですから」
「…駄目だ。会話が噛み合わない。オレはもう少し、探偵ごっこの続きをするから」
 初めて会った時から、そうだ。呆れられることはあっても、王崎は神津を気持ち悪いだとか、そういう言葉で詰ったりしない。それが、神津には嬉しい。幸せに感じる。自分を認めてもらえたような、錯覚を。
「み、充様!」
 振り向いた王崎は、じろりと神津を睨み文句を言う。
「そういう呼び方をするなと言ったろ!じゃあ、また後でな」
「……おまじないですよ、充様」
 暗い笑顔で、ぼそぼそと神津は呟いた。友人だなどと、自惚れてはいけない。気を許されているなどと、喜ぶなんてもっての他だ。
「充様、充…様……」
 名前すら、甘美な響きを持つように感じる。王崎を取り巻くすべてのものが、特別だ。神津にとっても、他の誰にとっても。そう…自分は、他の誰かに含まれる存在なのだから。


   ***


 丈太郎は体育館の中で、そわそわしながら全校集会に参加していた。どうにも、気分が落ち着かない。記憶がフラッシュバックする。丈太郎は、膝を抱える手に力を込める。
(俺は、ここで…あいつらを)
 夢だったような気さえする、短い対峙。戦闘と呼ぶにはあまりにも拙い、エゴのぶつかり合い。話し相手の温でもいれば気が紛れるのに、今日も温は「用事があるから」と実家に帰っているのだ。温の実家は厳格な家庭で、それを辟易し、昔は嫌っていた節があったのだけれど。
(そういえば、俺も暫くうちに帰ってないもんな。今週末にでも、顔を見せようかな)
 無理やり思考回路を変えた丈太郎は、数ヶ月会ってないだけで懐かしく感じる存在に、目を閉じた。御堂家の両親は丈太郎と血は繋がっていないが、本当の親子のように可愛がってくれる。温を含めて、丈太郎にとっては大切な存在だ。そんな相手が、自分にいることを本当に嬉しく思う。ずっと、家族が欲しかった。温かく満たしてくれるような存在を、長い間欲していたから……。
「ええ〜、近頃事件が多発しておりますが…」
(…それにしても理事長、話長いな)
 集会は普段よりいっそうの、警戒を呼びかけるもの。校内で七人の事件関係者を出したことは、公にはならずに済んだ。什宝会も、手を回したのかもしれない。丈太郎には、その辺の事情はわからなかったが。
 いつの頃からだったか…家庭は自らの責任を放棄して、学校に子供を預けるようになってしまった。小学校までは何とか家で育て上げ、中学からはほとんどの学校が、寮生活。もし我が子が、誘いに憑かれてしまったら?―――寮というのは、学校に責任を押しつけるための手段だった。それは金儲けの一環として上手く利用され、教育機関は黒字経営を続けている。少しでも設備の整った学校、より良い場所へ。いじめなどない、穏やかで刹那的な箱庭…。
 そんな絶対の信頼を裏切る事件が、誘いなのだ。ニュースで報道でもされれば、その学校が存続していくことすら危うくなってしまう。
 丈太郎は眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した。中沢と二宮は、周防の話によると、誘いは浄化されたらしかった。
 憑かれていた間の記憶は抜けているということだが、混乱を避けるために転校、という処置が取られるらしい。他の四人については「俺の管轄じゃない」と、周防は知らないの一点張り。王崎は以前の取り巻きがいなくなったところで、新しい取り巻きが生まれただけ。
「痛っ!」
 存在を示す右手の鋭い攻撃に、丈太郎は思わず声を上げる。
(愛染…)
「御堂、大丈夫か?」
 自分でも知らないうちに、大きな声が出てしまったようだ。後列で並んでいるはずの担任が、心配そうに丈太郎の顔を覗き込んでいた。
「あ、すみません。平気です」
 生徒の視線を一身に集めていることに気がつき、丈太郎は苦笑いを浮かべる。
(矢代さんもきっと、この痛みとずっと闘っていたんだろう)
 矢代は好きな相手と仕事でパートナーだったのだから、その状況は想像に難くなかった。丈太郎だって四六時中、王崎のことばかり考えているわけじゃない。
(矢代さんには、白鳥に本当のことを言わないって約束したけど…)
 正純は、矢代の想い人が丈太郎であるとずっと誤解しているのだ。自分のせいで死んだと誤解されたくないからと、矢代がそう仕向けたのだけれど。丈太郎も周防も矢代の気持ちをくんで、本当のことは何一つ、正純に教えていない。
『知りたいことがあるなら、オレはそれから背を向けたくない』
 屋上で王崎に告げられた言葉が、いつまでも丈太郎の耳に残っている。 
(無茶なこと、しなきゃいいけど。…やりそうなんだよな、我が道突っ走るタイプだし)
 丈太郎は顔を上げ、王崎の姿を探す。派手な癖のある金髪は、いつも真っ先に目に入る…はずなのだが、
(…いない?学校には、来ていたよな。王崎は)

『原因を突きとめる』

 あの時の、真剣な表情が思い出される。まさかとは思うが…居ても立ってもいられなくなった丈太郎は、するりと生徒の列からはみだすと、出入り口に向かっていった。
「おう、御堂?」
「やっぱり腹が痛いので、俺、保健室行ってきます!」
「トイレまで我慢しろよ…」
「………」
 なにやら誤解を受けたようだが、曖昧に笑みを浮かべてその場を後にする。  
 
 二年A組の教室には、居なかった。この間黄昏れていた屋上にも、王崎の姿はない。集会のおかげで人気のない校舎を、あてもなく探しまわる。中庭へ通じる渡り廊下で、ぼんやりと神津が佇んでいるのに気づいて、丈太郎は足を止めた。
(そういえば、神津も居なかったような気がするな。さっき)
 影が薄いから、気にもならなかった。こんなところで一体、何をしているのだろうか?
 逡巡の後、丈太郎は声をかけることにする。神津は王崎の取り巻きだし、もしかしたら、王崎がどこにいるか知っているかもしれない。
「神津。こんなところで、何してるんだ?」
「私ですか?別に何もしていませんが。そういう御堂くんは、一体何を?」
「俺はその…っておい?!今、普通に会話しなかったか?お前…」
 質問をしたら、普通に返事が返ってきた。たったそれだけのことで必要以上に驚いて、丈太郎は目を丸くする。心なしか、神津は馬鹿にしたような笑みを貼りつけていた。
「そんなに驚くことですか?私は確かに、王崎くんの前では言葉に詰まってしまいますが…。
 他の人間となら、会話くらいどうということはありません」
「そ、そうかよ!…はあ」
 脱力するというか、深く話を聞く気にもなれない。ある意味、王崎の前で猫を被っているといえるのか。…いや、何だかその表現はおかしい気がする。そもそも常識と、神津を並べて考えること自体やめた方がいいのだ。
(考えるのはやめよう、とりあえず)
 一番無難な決断を下し、丈太郎は表情を引きつらせた。
「…邪魔したな」
 王崎は、寮に戻っているのかもしれない。こんなところで、油を売っている暇はない。別に会って、どうするというわけではなく…どうも、嫌な予感がする。そして、丈太郎のそういう勘は、良く当たるのだ。危ないことに巻き込まれていなければ、それでいいのだが。
「あなたなら、王崎くんの居場所くらい見当がつきそうなものですが」
 ぼそりとした声が、呟く。
「は?」
「どこにいるか、見えるのでは?」
 鬱陶しい前髪に隠れた、どうにも表情の読めない顔と対峙して、丈太郎は眉をひそめた。この目に見つめられる度、何かを見透かされているような気持ちになる。どうやら、その疑念は勘違いではないようだ。見えているんだろう?神津は、言外にそう告げている。
「………どういう意味だ?」
「あなたの意識を的確に向けることができれば、見えるはずです。御堂くん」
「神津、お前…」
(何を知ってるんだ?)
 問いかけは、言葉にならない。それを声にしてしまったら、丈太郎の不安が現実になってしまう気がしたのだ。
「私はあなたのことを、よく知っているんです。あなたは私のもう一つの可能性、私はあなたのもう一つの可能性…。御堂くん、あなたと私は同じなんです。私たちは、目に見える者だ」
 最後の言葉の意味だけは、おそらく正確に理解できた。目に見える者…真眼の持ち主、だということだろう。丈太郎だけでなく、神津も。そう、なのだと。何かいつも物言いたげな、神津の丈太郎への視線。気のせいではなかった。神津は丈太郎に、言いたいことがあったのだ。
「!」
 丈太郎の反応に、神津は僅かにだが笑ったように見えた。何も、言葉が出てこない。温以外の誰にも、丈太郎は自分の秘密を話したことはないというのに。何故知っているのか、何を…知っているというのか。この男は。
「昔話でもしましょうか?懐かしい研究所のことを、あなたは憶えているでしょうか…」

 神津の抑揚のない声が、耳にひどく遠くに感じる。思い出したくもない、幼少時代。気が狂いそうなほど白い筺の中で、丈太郎は長い間、ずっと一人ぼっちだった…。


  2006.06.21


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