第四夜「最悪のシナリオ」



「なんだ、御堂くんだったんだね」
「君も、俺たちの仲間になればいいのに」
「契約しないか?御堂」

 それは彼らの、心からの言葉なのだろうか。親しくない丈太郎には、わからない。つきあいがあったとしても、理解できただろうか。
 寒かった。今の丈太郎の温もりは、背中に貼りつけたカイロだけだ。靴下にも貼れば良かった。雪は降っていないとはいえ、冬の夜。それだけでもう、身体が冷たく震えそうになる。丈太郎は少し笑って、いつもと変わらないクラスメイトたちと対峙した。
(ハハ、何だこのシチュエーションは) 
 煌々とついた明かり。そのくせ、体育館のカーテンというカーテンは、すべて閉ざされている。何もかもが、芝居がかっていた。どこかできっと、腹立たしいことに周防が、この成り行きを見守っているのだろう。
(退くわけにはいかないし、退くつもりもないけど)
 言葉をかわした回数こそ少ないが、佐藤も中沢も二宮も、丈太郎のクラスメイトには違いない。佐藤はモップを、中沢はバットを、二宮は木刀を手に持っていた。滑稽だ。冗談なのか、本気なのか。自分たちは、何をしているのだろう?馬鹿らしく、それなのに命がけの茶番劇。
(そんなんで、コレに敵うわけが、…ない)
 自分の右手に怪しく光る紅い刀を、丈太郎は複雑な気持ちで一瞥する。その禍々しさときたら、気を抜くと手が痺れそうになるほど、気持ちの悪いものだ。自我が弱ければ、まずこの刀に飲み込まれてしまうのではないだろうか。そうして命を落とした人間が、一体何人いたのだろう。どこまでも呪われた刀、愛染。一刻も早く終わらせて、この物騒な代物を消したい。
「誘いと契約して、何か楽しいことはあったのか?」
 誘いは、契約する際に願いを叶えると嘯くのだという。丈太郎が知らないだけで、もしかしたらそれは、叶えられているのかもしれない。けれど誘いに憑かれた人間は自殺してしまうから、真偽のほどは定かではないのだ。普通の人間に戻れたとしても、誘いに憑かれている間の記憶を、忘れてしまっていたりする。
「僕は、王崎くんと言葉をかわすことができた…」
 丈太郎の問いかけに、佐藤が笑顔を見せる。
(な…!)
 不意打ちでその名を出され、丈太郎は動揺した。愛染を持つ手が、汗ばむ。失敗したらと不安に思う気持ちの原因のほとんどが、王崎にあった。王崎が悲しむところなんて、見たくなかった。…ましてその元凶を、自分が作ることなんて。今まで関わらないように避けてきた意味が、今夜一晩で崩れてしまう。
「まあ、丁度良かったよ。俺たちにとっても、御堂は邪魔だったから」
「王崎くんは何故か、君のことを意識している」
 頬が赤くなる。平静を、取り繕うことができない。丈太郎にとって、王崎の名は禁句に等しい。焦がれてやまない、意識の外へと出せない相手。
「王崎の話はいい」
 気のせいか、声まで上擦ってしまう始末だ。王崎が自分を気にするのは、丈太郎がつい王崎を視線で追ってしまうせいなのだ。神津に指摘された通り、気がつけばいつも視界の中に入ってくる鮮烈な存在。それが王崎だ。たまらず口を開いた丈太郎に、三人は顔を見合わせて笑った。教室でいつも見かけるような笑みに変わりなく、それだけにこの状況にたまらない違和感を感じる。
(…で、どうすればいいんだ?)
 焦る気持ちを落ち着かせるように、丈太郎は額に浮かんだ汗を拭った。一度王崎の存在を意識してしまったせいで、冷静に物事が考えられなくなっている。
(クソ、今は考えるな。失敗しないようにすることだけ、考えろ)
 丈太郎はゆっくりと、深呼吸を繰り返した。あまりにも緊張している自分をどこかで見守る周防のことなど、知ったことか。
(本当は、これが、初めてじゃない)
 愛染を初めて手にした時、一度だけ丈太郎が誘いを浄化したことがあった。その時の意識が、ないのだ。刀に憑かれた、という表現が正しいのだろうか。誘いを浄化することのできたその少女は今も元気に、丈太郎に笑顔を見せてくれる。
 自分は成功したのだと、その度に安堵し丈太郎も微笑む。彼女の存在が、丈太郎を勇気づけてくれる。
 けれど刀を振るう度こんな状態が続くのは、怖かった。いつか、知らない間に自我がなくなって消えてしまうかもしれない。その間に、大事な人間を斬ってしまうかもしれない。…不安は、数えればきりがなかった。
 だから什宝会から何と罵られても、まともに浄化をする気にはなれなかったのだ。正純のことがどこかで気にかかったままで…いつまでも、今までと同じ日々を過ごしていただろう。
「愛染」
 丈太郎は意志を持つ刀に呼びかけ、静かに息を吐いた。
(戦い方を教えてくれ。どうすれば、誘いを浄化できるんだ?)

 それは、一瞬の映像だった。今はもういない、懐かしい姿が愛染を振るう。その刀の先は、影を刺していた。振り向いた残像と目が合う前に、脳裏から消えてしまった思い出。

(…影を、やればいいんだな。矢代さん)
 一歩踏み出した丈太郎の鼻先を、勢いよくバットが掠めた。空気が切り離されるような、ひゅっ、という音。ただの木造バットに、黒い靄のような得体の知れない何かが、こびりついている。これも、誘い…?
(物質にも憑依するのか?誘いは…。だから、什宝会は武器を―――)
「集中してないじゃん、御堂。余裕だな」
 衝撃が、丈太郎の頭に直撃する。黒い木刀。よろけた丈太郎の腹を、黒いモップが容赦なく突いた。食欲はなく夕食は取らなかったが、その選択は正解だったかもしれない。
「うっ…」
「什宝会なんて、大したことない」
(明日は筋肉痛で済みそうにない、なんて…そんなことを考えてる場合じゃないか) 
 視界の中で、三人の影が生き物のように動き回っている。気持ちが悪い。三対一、しかも向こうのチームワークは抜群なのだ。丈太郎には、分が悪い勝負だ。
「御堂、後ろ!」
 そんな丈太郎を救ったのは、正純の叫び声だった。指示でなく声に反応してしまった丈太郎は、心配そうな来訪者を入り口に認め、冷たい床の上に転がる。情けないパートナーの姿に加勢しようとした正純の腕を、周防が掴んだ。
「あかん」
「御堂っ!!」
 多分、何かのスイッチが入ったのだと思う。白鳥正純の存在は、丈太郎の中のキーワードだった。強い衝動を導く、絶対的なもの。そこからは、丈太郎の独壇場だった。丈太郎は、振り上げられたバットをかがんだまま刃先で弾き飛ばして、逃げようとする影に突き立てる。中沢が、操り糸が切れた人形のようにその場に倒れた。静止した主に関係なく、蠢いた影はやがて穏やかになり、本来のものへと戻っていく。
「チッ…」
 目にも鮮やかに真っ二つにされた木刀は、屑になる。這い回る影は斬りつけられて、弱々しく蠢いた。やがて二宮は、中沢の隣りで仲良く寝息を立て始める。
「御堂…、まさか」
 正純はぎこちない表情で、ただ静観するだけの周防を睨む。まるで夢を見ているような、懐かしい錯覚を感じた。そのすべては、正純と周防のよく知った動きだった。丈太郎というより、矢代そのもののだ。さっきまでの戦いぶりが嘘のように、あっという間の出来事は。
 一人残された佐藤は、身動きしない友人二人を眺め、肩をひくつかせて笑った。
「佐藤」
「王崎くんは、僕に言ったんだ。『弱い人間は嫌いだ』って…」
「佐藤…」
「僕は、この二人とは違う!うまくやる…」
 佐藤は、笑っていた。
 高らかな勝利宣言のような声と共に、黒い柄を中沢に振り下ろす。
(どうして―――…)
 丈太郎には、わからなかった。止めなければいけない、という思考が働いてくれなかった。その行動の意味が、理解できなかった。誘いの行動原理、他者を傷つけその存在を示す。
 丈太郎には到底、わかるはずもなかったのだ。王崎の名前を引き出されてしまったら、動けなくなる…王崎の悲しむことなんて、したくない。
「!」
「止めろ、丈太郎!!」
 周防の声が、限りなく遠い。いざという時には、無力なもので何も出来ないものだと丈太郎は思い知る。動いたのは、正純だった。一陣の風が、吹き抜ける。体育館の磨かれた床が、血に染まった。スローモーションのように揺れる、佐藤の身体。瞠目した佐藤の目に、何が映っているのか丈太郎にはわからない。中沢は無事だったようだ。目が覚めたらこの結末を、彼らはどう思うのだろうか。
 自分はどう、解釈すればいいのだろうか。この、一連の出来事を。
「白鳥…」
 返り血を浴びた小さい背は、返事もせず、忌々しそうにその鎌で影にとどめを刺す。その生命のすべてが途絶えると、正純は息をついた。
「御堂には、斬らせない」
「俺は、白鳥にはもう誰も殺してほしくない!」
「口だけ達者なパートナーなら、僕はいらない」
 そのまま振り返りもせずに、正純は体育館から姿を消した。その全ては静かで、淡々としたものだった。丈太郎のあまりの不甲斐なさに、失望したのかもしれない。
(失敗、してしまった…)
 悔しそうに唇を噛む丈太郎の肩を、労るようにそっと周防が触れる。
「周防さん…」
「言葉はキツイけど、正純はお前のこと心配しとんやで?愛染は、斬った人間の一部を吸収する。赤い刃には、今まで斬られた人間の、意識や痛みや何もかもが…ごちゃ混ぜになって、存在しとる。やけん愛染の使い手には、おかしくなる奴が多いんや……。けど、血を吸えば吸うほど、愛染は力を増す。ホンマ、おっそろしい刀でなあ」
「………」
 慰められているのだろうが、丈太郎には、周防に対する反発心しか浮かばない。自分の弱さへの苛立ちと混ざり、どうしようもなく腹立たしい気持ちが、丈太郎の胸一杯に支配する。
(ちくしょう…)
 どこから現れたのか白衣を着た男数人が、倒れている三人を運び出していく。おそらく、病院に行くのだろう。そして誘いを浄化された二人は、きっと記憶を失っている。何より死人を出してしまった…。本当に、これで良かったんだろうか。
「元々俺もそのつもりで、アイツをここに呼んだんやし」
 のんびりした周防のその口調に、丈太郎は思わず声を荒げてしまう。
「周防さんのやり方は、おかしい。アンタは結局、面白がってるだけじゃないのか?もっと違う、もっと良い方法があったんじゃないのか?納得できない…」
「何やそれ、自分の弱さを俺のせいにするってか?ええ度胸やなあ、威勢が良くて結構結構」
「…っ」
 言い返すことなど、今の丈太郎にできるはずもない。
「什宝会に入りもしない、中途半端な落ちこぼれから卒業するチャンスやったのになあ。初戦からこんなんやったら、これから先が思いやられるわ」
 丈太郎は、周防を睨みつけた。最初から何事もなかったかのように、悠然と対峙する周防。いつもと変わらない余裕。
(…俺は絶対に、こんな風にはならない) 
「もう遅なったけど、せめてええ夢見てや。丈太郎。ほな、おやすみ」
「………」
 返事をしたくなかった。丈太郎は駆けだして、逃げ込むように寮の自分の部屋へと向かう。シャワーを浴びた。冷蔵庫からショートケーキを取り出して、作業のように口に放り込む。味はまったく感じられなくて、結局一口が限界だった。こんな時だからこそいつもと変わらない行動を、と思ったが。元々甘党ではないからか、少しも落ち着かない。それどころか、ケーキが逆流しそうになってしまう。丈太郎が出会った頃の矢代が筋金入りの甘党で、供物代わりに胃に入れているのだけれど。
(クソ。…どうも眠れない)
 温にメールを打ってみる。こんな時間に返信など期待していなかったが、温はわざわざ部屋に来てくれた。その気遣いが嬉しい。
「どうしたんだ、丈太郎。眠れないのか?」
「あっちゃん、昼間どこ行ってたんだよ。いつ、帰ってきたんだよ」
 唇から放たれる言葉は、どこまでも余裕がない。温がどこにいようが何をしようが、それに口を挟む権利など、自分にはないはずなのに。傍にいないと、落ち着かない。普通ではいられない気がする。こんな依存は間違っていると理解していて、それでも離れられないでいる。ずっと、長い間。
「実家に戻ってたんだ」
「こんな時に…っ」
 いつもは実家になんて、意識して寄りつかないくらいの男が。何故。丈太郎は疑問を感じたが、追求する気力もなかった。文句を言いたいというよりは、丈太郎は、温に甘えたかったのだ。疲れより、不安の方が強かった。不安で不安で、たまらなかった。この手の感触、未来のこと…。たった一瞬の出来事のせいで、めまぐるしく変化していく日常が、怖かったのかもしれない。
 丈太郎が声を詰まらせると、馴染みのある温もりが、身体を優しく抱きしめてくる。ホッとする。幼い頃から刷り込まれた愛情が、今はとにかく必要だった。温は、丈太郎を愛してくれる。きちんと実感できるように、強く、深く。好きなんだとか愛してるとか、言われた覚えは一度もないが。行動で、示してくれる。それは丈太郎が、生まれて一度も感じたことのなかった、家族のような愛情だった。居心地が良く、安心感のある。
「悪かった。ちゃんと聞くから、何があったか話してくれるよな?丈太郎」
 温の優しさに、丈太郎はいつも救われるのだ。何でも喋ってしまう。昔から、温にだけは嘘がつけない。知り合ったきっかけを忘れてしまいたくなるほど、温は丈太郎にとって、大切な存在だ。
「俺、什宝会に入ったんだ」
「…あんなに、渋っていたのにか?」
 矢代と出会い、愛染を手にし、仲間になれと周防に追いかけまわされていること。丈太郎は日頃から、そういう経緯を温に話していた。…王崎への気持ちを除けば、告げていない事実などない。危ないことはしてほしくないと、温も丈太郎が什宝会に入るのは反対だったのだ。
「前に、話したような気がするけど。矢代さんの代わりに、白鳥を守りたかったんだ」
「それで、」
「そういうつもりだったけど、俺、失敗して。うちのクラスの佐藤を、佐藤が…」
 殺したという表現が正しいのか、死んだという表現が正しいのか。鮮明に、蘇る残像。自分が生きていく中で、あと幾度同じことを繰り返していくのか。幼い頃から、人が死ぬのを沢山見てきた。そのうち他人の死にも、何とも思わなくなるのだろうか。丈太郎は、そんな未来を想像すると、怖くてたまらない気持ちになる。
「俺は、丈太郎が無事でいてくれてよかった」
「王崎が泣いたら、どうしよう。あっちゃん。俺のせいで…」
 ひどく取り乱している、自分。その理由が、頭を離れない王崎にある。人を殺しておいて、王崎に嫌われたくないなんて。自分の思考回路が、疎ましい。
「丈太郎、セックスしよう。気が紛れる」
 真剣に呟いた温の誘いに、思わず丈太郎は脱力した。
「とても、そんな気分にはなれない」
「もう、何も考えるなよ。腰振ってよがって疲れたら、寝ればいい」
「あっちゃん。俺は、王崎のことが…!」
 本人に告げることのできない、吐き出すような愛の告白。王崎のことばかり、頭の中を支配する。好きで好きで好きで。どうしたらいいか、わからない。触れてはいけない秘密の感情に、必至でいつも蓋をしてきた。晒け出してはいけなくて、大事に抱えて…。
 温は重ねた唇で言葉を塞ぎ、掛けている眼鏡を外した。今更口に出さずとも、その感情なら、温は嫌になるくらい日々思い知らされている。裸眼でもはっきりと見える幼なじみの泣き顔に、温は笑いかけた。知りたくないことも、何でも、丈太郎は温にすべてを教えようとしてくれる。そうしてほしいと、幼い頃に温が丈太郎に望んだからだ。それは時にはありがたく、残酷で、けれどお互いに必要なことだった。そうやって何が起きているのか確認を取ることで、温は今まで何度も安堵してきたのだ。
 ―――自分はまだ、丈太郎の傍にいられると。
「あっちゃん…?」
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。一体どこで、やり方を間違えたのだろうか?わからない。誘いだとか宗教だとか、まったく関係のないところで、ずっと二人でいたかったのに。
「王崎は、やめておけ。あいつ以外なら、誰でもいいから」
 少しは嫉妬も、混ざっているかもしれない。…否定できない。この忠告は。
「…王崎は、特別な人間だから」
 小さい声が何を言ったのか、丈太郎には聞き取れなかった。 
「え?」
「俺でなくてもいいから、丈太郎。王崎は、駄目だ。絶対に上手くいかない。…いくわけない。丈太郎が、幸せになれない。俺は、お前に幸せになってほしい」
 そう断言する温に、何か言いたげな丈太郎の視線が向けられる。
「………」
「今にわかる」
 この時は、丈太郎には言葉の意味がよく理解できなかった。それはすぐに、身をもって知ることになるのだけれど。どういう気持ちで温が吐きだした言葉なのか、どれだけ王崎が、特別な存在であるのかを。


   ***


 静かな朝、だったように思う。
 二年A組の教室は、いつもより空席が目立っていた。丈太郎が数えてみると、七席も。
「…そう、多田さんもなんでしょ?ありえないよね」
 クラスメイトの会話が、どこも同じ噂話で占められている。
「誘いの事件関係者全員が、王崎の取り巻きなんだってな」
「被害者なの?加害者なの?怖いよ…」
「なあ、充って何か事情知ってるんじゃないのか」
 ざわつく教室。誰もが感じ取っている、日常の異変。注目を集めるのは、王崎も慣れているはずだった。…けれど異質な、負の感情剥き出しの好奇心。同じ空間に居る丈太郎ですら気持ちが悪いのに、その関心が自分に向かっている、というのはどれだけ嫌なものなのだろうか。
 とうとう堪えきれなくなったように王崎は立ち上がり、両手で机を強く叩いた。しん、と水を打ったように教室が静まりかえる。元々王崎は、このクラスのボスみたいな存在だ。本人にその気があろうが無かろうが、目立つし周りも持ち上げるし、逆らう人間もいやしない。
「お前ら、言いたいことがあるならオレに直接言えばいいだろ。オレは何も知らないし、アイツらに何もしていない!」
「だったら、この状況をどう説明するんだよ?王崎」
 普段から王崎を疎ましく思っていた男子生徒が、意地悪くそう問いかける。
「わからないんだから、説明しようがない。…やってられないな」
 逃げ出すなんて、王崎らしくない。それだけ精神的に、参っていたのかもしれない。衝動的に丈太郎は、教室を出て行く王崎を追いかけていた。こんなことになる原因の一部は、間違いなく自分にあった。温と目が合う。昔から大事な選択をする時は、温は何も言わなかった。

 丈太郎が重いドアを押し開けると、冷たい風が髪を撫でていく。
 王崎は、屋上に佇んでいた。丈太郎に気がつくと、端麗な二重瞼が不思議そうに瞬きする。
「王崎…」
 どうしても、放っておけなかった。かける言葉も考えないで、どう思われるかも気に留めないで…来てしまった。謝罪なんて、できるわけない。そのくせ何か弁解をしたいような、最低な思考回路に嫌気が差す。
「誰かがオレを、嵌めようとしてる」
 王崎が真っ直ぐ何かを見据えたような目をして、言った。
「オレは何も知らない。何もしてない。ただ…、このまま黙って疑われるのは性に合わない」
「じゃあ、どうするんだよ」
「原因を突きとめる。…幸い、オレにはその方法があるんだ」
 その方法が何なのか、丈太郎にはわからなかった。尋ねても、きっと王崎は答えないだろう。そういう気がした。そして、勝手に寂しい気持ちになる。馬鹿みたいだ。丈太郎がこんなにも気持ちを揺らがせても、王崎はいつだって、毅然としているから。その強さに焦がれてしまう、そういうところが好きだった。…前から、ずっと。言えないままに。
「止めとけよ。人が死んでるんだぞ…。どう考えても危険だ」
「世の中、知らなくていいことがあるって?そんなの、身に染みてわかってる。だけど知りたいことがあるなら、オレはそれから背を向けたくない」
「王崎…」
 王崎が微笑む。丈太郎もその例に漏れず、皆を虜にする笑顔だ。胸の鼓動が、早鐘を打つ。真っ直ぐにその顔が見られなくて、丈太郎は曇り空に視線を逸らした。
「やっぱり、御堂は優しいんだな。心配してくれて、ありがとう。オレ、御堂には嫌われていると思っていたけど…」
「俺は優しくないし、王崎のことを嫌いでもない」
 感情を押し殺した丈太郎の言葉の意味など、王崎は考えもしないだろう。
「そうか?嬉しいよ」
 言葉に反して、寂しそうな笑顔だった。
「ありがとう。御堂のおかげで、オレは大丈夫だ。先に教室に戻るよ」
 その背中があんまり頼りなくて、追いかけたくなる衝動を堪え、丈太郎はその場に座りこむ。右手の薬指に、噛みつかれたような痛みを感じたのだ。
「愛染…」
(王崎は、やれねえよ。斬らせるもんか) 
 矢代から愛染を継いだ時、丈太郎はひとつのことを諦めたのだ。それが、王崎だった。王崎のことが好きだった。王崎のことを好きにならない人間が不思議に思えるくらい、必然的に好きになった。視界に入れば、どうしても目で追いかけてしまう。交わす言葉は、どうしても好意が滲む。…そうして悟られるくらいなら、いっそ、自分が嫌われてしまえばいい。望みなど無いのだと、自分は彼の隣りにふさわしくなどない、と。そう振る舞って彼を傷つけても、自分が選んだことなのだから仕方ないと思っていたのに。
(どうして、こんなに…)

 好きなんだろうか。

 いつか自分に問いかけられた矢代の声と、気持ちが重なる。その時は、納得のいく答えはお互いに出すことができなかった。そして、今も。
「ちくしょう。最悪のシナリオだ…」
 その残り香に、柔らかい髪に、肌に、すべてに欲情する。
 丈太郎はズルズルと地面に膝をつき、自己嫌悪と葛藤する情欲に身を焦がした。
 妄想の中だけでは、丈太郎は素直になれる。あれだけ焦がれている身体が、自分のものになる錯覚を感じることができる…。
『嫌ってるなんて嘘なんだ。俺、本当は王崎のことが好きでたまらないんだよ…』
『そんなこと言われても、信じられない』
 さっきまでの弱さが嘘みたいに、冷たく拒絶されて興奮してしまうなんて…ああもう全部、王崎の美貌の責任だ。
『ほんとなんだよ…。こうやって間近で、王崎と話してるだけで…俺は……』
 形の良い手を、丈太郎は自分の股間へと導いた。ズボン越しでも見てわかるその膨らみに、王崎が不可解そうな視線を向けてくる。
『ただの変態じゃないか、御堂』
 呆れと嫌悪感の混じった声。汚いものを見るような目。そんなものにうっとりしてしまうのは、王崎の言葉以外の何でもない。
『俺は変態なんだ、自分でもわかってるんだけど…王崎を見ると、もう駄目なんだよ』
『…へえ。知らなかったな、見せてみろよ。ズボンの中』
 その嘲笑がどれだけの威力を持つのか、本人はわかっていないのだ。丈太郎が制服のズボンを下げると、下着越しに王崎が靴先でそれをなぞった。
『アアッ!』
『汚らしい…。こんなにされて感じるなんて、最低だな。オレの靴を汚すなよ?』
『…ぁ、あん……あぁ…あっ……』
 緩やかなもどかしい刺激。これが王崎によってもたらされているのだと思うとたまらなくなって、丈太郎はコンクリートに膝をついた。直接触って、揉んで、すぐにでもイッてしまいたい。いっそこの欲望全部を、王崎に蔑まれたい。
『見ててやるから、一人で扱けよ。オレはやることがあるから、なるべく急いで。ほら』
 促すように柔らかく爪先が、再び勃起したペニスを撫で上げる。我慢なんて、できるはずなかった。知ってほしい、どれだけ好きなのか…いつもどんな風にして、目の前の王崎を犯しているのか。
『…ふ…ぁあ……!王崎、王崎ぃ…!』
 急げと言われ、丈太郎は性急な指遣いで自分を追い立てる。先走り汁で手がベトベトする。王崎に見られながら達する自分…。本当は王崎の中に入れて、ペニスでグチョグチョに掻き回してこのよくわからない高貴さを、散々犯すことができたら。聞こえるのが自分の声ではなく王崎の甘い喘ぎ声で、それが脳の中に満たされていったら…。最高なのに。
 白濁液が飛んだ。心なしかいつもより、少し量が多いような気がする。当然ながら我に返っても、しんと静まりかえった屋上に丈太郎以外の人気はなかった…。


  2006.05.01


 /  / タイトル一覧 / web拍手